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万葉を訪ねて ―序の14 ミチヲユク―

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明和という元号と共に始まる晩年の6年間は、万葉研究の完成のために明け暮れ、残された時間との闘いに終始した。

前項に述べた県居の歌会以後、真淵の人生は特段のドラマも生ずることなく推移していく。

いや、そう見えるのは英雄譚に聞き慣れた私たちの「人生とは人間の行動の記録である」との偏見に由来するもので、実際はドラマが精神のドラマに一極化され、雑事は取り払われただけのことなのである。

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真淵が演じた精神のドラマは作品という形で次々と結実した。

歌意考、国意考、語意考、祝詞考、そして万葉考。真淵の主著とされるこれらの作品は全て明和年間に脱稿した。歌意考は和歌論、国意考は日本論、語意考は言語論である。

万葉研究の土台となった予備的で基礎的な研究の産物であり、万葉考という大海に合流する。

この並びだと異色に見える祝詞考は、万葉を究めた後の真淵が展望していた学問とされ、人の道(万葉集)から神の道(祝詞)へ至ろうとする、その方向性は宣長(源氏物語から古事記へ)によって継承された。

これらの著作をひとつひとつ解釈することはこの雑文の役目ではないから、いつもの通り面白いと思ったことに対して感想を述べたい。


歌意考のなかで真淵は幼年期を回想している。

ある日、幼き日の真淵(岡部三四)は、母の前に置かれていた古歌の記された紙が気になって読み始めた。

長らふる
つま吹く風の寒き夜に
我が背の君は独りか寢らん下にのみ恋ふれば苦し
紅の末摘花の
色に出でぬべし在る時は
有りのすさみに語らはで
恋しきものと別れてぞ知る

母が言った。

「近頃あんたが習ってくる歌は、馬鹿な母さんには何を言いたいのやらサッパリ分からないよ。ここにある古い歌は成程と合点がいくし、心にも沁みるし、唱えるのも簡単だし、なおかつ雅に聞こえるね。このわけをあんたの先生に訊いてごらん」

三四は思った。

「母の言う通りだと思われなくもないが、時代が下っているからといって、名人とされる人たちが頑張ってひねり出した歌なのだから、良い歌と誉められるだけの理由がきっとあるのだ」

三四はこの意見に自信がなかったので黙っていた所、母子のやりとりを覗いていた父が言った。

「それはお前が馬鹿だからではない。誰しもがそう思うのだ。学問をするひとであればなおさら古風に立ち返って学ぶものだとは、賢い人たちも教え置いた話だよ」

父の言葉を受けて、三四はどうしたか?

にはかに心ゆくとしも有らねど、承りぬとて去りにき。(すぐに呑み込めたわけでもなかったが、承りましたと言って退出した。)


この「承り方」が面白い。どうして私が歌意考から長い翻訳をしたかお気付きの方もおられようが、ここに真淵の生来の性質があると思い、それが後の彼の学問の態度にまで受け継がれていると思い、この「記憶の仕方」に真淵の学問の秘密があると思ったからである。

死期が近付くと幼き日の思い出がふと思い出されてくるとは良く聞く話だが、普通は記憶が無意識の内に美化されたり改竄されたりする。真淵の例に引き寄せれば、この時に父から古代の歌こそが至上であることを教えられたのだった、と回想を閉じても構わないわけである。

しかし真淵は言う。母の言葉と反対の意見を持っていたが「自信がないことは言わなかった」。当時の己には父の言うことが全然分からなかったので「とりあえず承った」。真淵の学問の原形がここにある。


ひとは分かったことやできるようになったことについては、よく記憶するし容易に思い出すことができる。しかし、分からなかったという記憶をこれほど鮮明に偽りなく記憶していることに、分かることよりも分からないことに言い知れぬ魅力を感じる、三四少年および真淵の気質が窺われる。

そしてとりわけ面白いのは、分からないままに承るという「態度」だ。序の5において私は春満と真淵の相違を明らかにしようと、演繹法と帰納法という便利な言葉で対比させたが、本当はそんな小難しい言葉に頼らなくても良かったのである。



未知の事柄に遭遇した時に、事柄を既知の事柄に変換してすぐに分かる状態にするのか、それともそれが分かるまで辛抱強く未知の事柄に付き合って、それが分かる己に己を改造するのか。それが春満と真淵の態度の違いであった。

真淵の道を採るためには、分からないことを「とりあえず承る」ことが必須の条件であろう。現在分からないことを将来のために正確に記憶しておく能力を要するであろう。

なぜと言うに、この世には時間をかけなければ分からないことが存在するからである。もちろん勉学という努力も必要条件であるが十分条件ではない。むつかしいことを分かりやすく理解しない、機が熟するまで待つという、言うは易く行うは難いことを真淵はやってのけた。

以上が、誰もが言う「賀茂真淵は大器晩成の学者」という言葉の内実なのである。単に遅く仕事が成ったのではない。真淵の学問の性質上、遅く成らざるを得なかったのである。


真淵は未知というタネを次々に承った。すぐに噛み砕いて吸収し栄養とすることはせずに、全てのタネをそのまま土に植えた。

稲であれば1年後に実ることが予め知られるが、学問のタネは植えたところで実りがあるかどうか保証もなく、仮に実りがあってもそれが何年後になるか知られぬ代物である。途方もない話だ。

万葉考はそれに耐えられるどころか、それを楽しいと感ずるような気質であり続けた人間によって書かれた。


明和5年戊子の神無月、死のちょうど1年前に万葉考は脱稿するが、それは京都で春満に師事した時から数えても30年越しの成果であった。生前に全巻の刊行は間に合わず、世間の反響は真淵の耳に届いていない。しかし、真淵はそれを残念に思っただろうか?彼ならこう言わないだろうか?

己は万葉をひたすら味わって楽しんでいただけだ、ひとに見せるためではない、己のために書いたのだ、己の感動を形にしておきたい、それが己が万葉考を書いた一番の動機だ、と。

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