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「ごめんね」と「ありがとう」の距離感。 - 文化・言語感覚・身体性について- 【エッセイ】

外出制限と人間関係の変化?
先日、ネットの記事で「コロナ離婚」なる言葉を見かけました。外出規制(自粛要請)によって家族・夫婦で過ごす時間が増え、家事や育児・家庭における時間の使い方におけるすれ違いが原因となり、離婚に至ることをそう呼ぶようです。

外出制限によって他者とのコミュニケーションが断絶され、孤独感を覚える人が圧倒的に増えることを想像していました。しかし蓋を開けてみれば、もちろんそういった寂しさを覚える人もいる反面、家庭で過ごす時間が増え、家族間コミュニケーションが以前よりも緊密になっていたり、物理的接触を介さないツールの発達により、むしろコミュニケーションの頻度・密度は以前よりも増しているような気がしています。ビデオチャットアプリの急速な普及によって、仲のいい知人・友人はもちろん、普段では連絡するような間柄ではなかった人たちと、映像を共有しながら、何時間も談笑するということがあった方も多いのではないでしょうか。この非常事態を機に、お互いの映像を共有しながらのテレコミュニケーションのハードルは大分下がったような、そんな印象を受けます。もちろんこの現象は一時的なことかもしれませんが。

当然のことですが、ビデオチャットは物理的な接触を伴わないので、実際に顔を合わせるのとは訳が違います。その空気感や声色の変化、細かな仕草は画面越しにはなかなか伝わらないものです。多くの人が経験していると思いますが、普段のおしゃべりのように、お互いが同時に言葉を交わすことはほぼ不可能に近いというのが、今の技術の限界でしょう。こうしたことも含めて、人が意識的もしくは無意識のうちに知覚してしまう本質が伝わりにくい分、余計な人間性を廃した「新しいコミュニケーション」の媒体として重宝されているのかもしれません。
ロックダウン、非常事態宣言そして外出規制というこの異常事態は、わたしたちが当たり前と感じていた、人との関わり方、コミュニケーションのかたちを今一度考えて、見つめ直すいい機会ではないかと思います。

話を「コロナ離婚」にもどします。ネットの記事によれば、外出規制に伴う在宅ワーク・保育所や教育機関の閉鎖による子どもたちの在宅義務といった家庭環境の変化に苦しんでいる人たちの要因は、普段はTPOによって分散されていた「妻・夫」「母親・父親」もしくは「社会人」としての役割を、同時に課せられることによる精神的負担の増加が挙げられるようです。(あくまで一例として)普段は仕事から帰ってきた夫の前でのみ「妻」という役回りを引き受ける必要のあった女性が、夫が在宅ワークであるために、一日中彼の「妻」であらねばならず、同時に子どもを世話する「母親」としての役もこなしていかなければならないというケースなど挙げられます。概して、誰かと長時間一緒に過ごさなければならないことに苦痛を感じてしまう所以は、一緒に過ごす他者に、一定の役割を強要される、または本人自身がその役割に義務感を覚えてしまうことによるものだそうです。(詳しくは、「コロナ離婚」で検索してみてください。)


想像力以前に、違いを知ること
役回りを演じることは悪いこととは思いません。むしろ社会性を持つ動物として必要不可欠な能力でしょう。人は社会というフレームにおいて、そこで課される役回りを無意識的に演じているといったのは、たしかアーヴィング・ゴフマンという社会学者でした。(余談ですが『行為と演技』の独訳タイトルは、“Wir alle spielen Theater (= 我々はみな演劇をしている)”。) 大事なことは、その役回りは普遍ではなく、わたしたちが生きている社会によって、都度変容するという事実にあります。上記の「コロナ離婚」の話題で問題なのは、第一に、当事者がその役を演じなくてはいけないという使命感、そしてその役を演じさせることを(無意識のうちに)求めてしまう他者の存在であるでしょう。そして第二に、これは一点目の関連することですが、自分にも他者にも、みずからの人生の中で培ってきた「あたりまえ」を無意識的に強要してしまうことではないかと思います。共有できる部分だけを分かち合っていた平穏な日々からは、想像もできないような価値観の違い、もしくは日頃から薄々気付いていた感覚のずれが、この異常事態を通じて表面化するという現象が、「コロナ(端を発した)離婚」の本質的な部分ではないでしょうか。

「共感能力」とか「想像力」というのは、こういう場合において必要なことでしょう。しかしこうしたすれ違いの原因は、感覚的にはもっと根本的なんじゃないかと思います。つまり「わたし」と「あなた」は違う存在である、という認識の欠如という点に着目していきます。
なんだか、すごく当たり前のことを言っているんですけど、このご時世、すごく忘れがちな感覚だと思います。似たような環境で生まれ、同じ義務教育を受け、同じ時代を生きている私たちは、表面上では同じ記号をシェアしているように思えますが、その記号に対する意味や身体感覚を共有している人は、おそらく一人もいないでしょうし、各々がそれぞれを完全に理解することはほぼ不可能に近い。こうした前提を踏まえてないと、どうしても私たちは、誰しも理解し合い、共感できるユートピアを渇望してしまいがちです。もしくは、みずからの正しさによる「真理」を掲げて、そこにそぐわないものを排斥し、自己アイデンティティを掲げるポピュリズム的な方向性に走ってしまいます。

いずれにしても、まずは違いを知らないと、いつまで経っても個々として共存(しようと)する社会を目指せないのではないでしょうか、理解をしようとする想像力以前に。

「共同体」の定義について、フランス現代哲学者ジャン=リュック・ナンシーの論理を非常に端的に拝借するなら、一つの目的を共有する集団をファシズムの温床と批判し、異質性がそこにあること、つまり「無為」つまり特定の目的合理的でない共同体であることを指しています。換言すれば、「あなた」も「あなた」も異質だけど、これを分割して、共存するこの、「中庸」状態のようなものが共同体のあるべき姿だとすることで、まず必要なこのような考え方なのではないかと思います。「なぜあの子は、自己中心的なの」とか「どうしてあのオジサンはパチンコ行くの?」という疑問に想像力をはたらかせるの前に、「このご時世においても電車に乗ってパチンコしに行くことに引け目を感じない人がいる」ということを、善悪の価値観を介在させずに、認識することが求められているのではないでしょうか。(もちろん、この行為を個人的に肯定しているわけではありません。)


文化と言語・身体性
上記の「記号に対する意味や身体感覚」の違いは、こと異文化コミュニケーションにおいては顕著です。日本の人はよく、「ごめんなさい」と「ありがとう」を言うから礼儀正しい、また言い方を変えるなら仰々しい、と指摘(揶揄)されますが、これもまた「ごめんなさい」という記号(言葉)に対する、意味や身体的感覚の認識の違いの一つなのだと思います。

ヨーロッパ、もとい私の暮らすドイツでは、謝るという文化があまり浸透しておらず、謝罪する=負けを認めると捉えている人が多い印象を受けます。こうなってくると「ごめんなさい」という言葉は本当に、異文化間で互いに共有されたものであるかという疑問が立ち上がってくるわけです。
言語的に見ていきますと、ドイツ語で「ごめんなさい」とは、「Entschuldigung(エントシュルディグン)」と訳されます。現実的には日本における「すみません・失礼します」のように使ってしまいがちですが、言葉の語源・構造を見ていくと本質は全く別物です。Ent-schuld-igungの「ent」とは、「除外・削除」を意味する接頭語、「Schuld」は名詞で「罪」と言う意味です。(igungは動詞digenの名詞化形態。)つまり、Entschuldigungという言葉の本質的な意味は「(わたしの)罪を除いてください=許してください」ということになります。これを動詞として使う場合「entschuldigen(許しを得る、弁護する)」は、目的格の代名詞が必須になり、「私を許してください」→日本語では「ごめんなさい」と訳されているのです。
こういったことを知っていると、言葉というのがいかに共通認識を生まないものであると自覚する手がかりになるのでしょう。そして言語と密接に関係している身体感覚の違いもまた、こうした一定のシニフィエに対する「誤解」に起因するものだと仮定できるのではないでしょうか。

(今からやっと演劇の話をします)言葉と身体は演劇において最も重要なエレメントの一つであり、相互に干渉しあっています。それは古典であっても、新劇であっても共通して言えることでしょう。もっとも「現代演劇」においては、こうした言葉と身体の関係性を、実験的に扱っているものが多く上げられます。日本において、(当時の)若者の言語(話し方)と身体感覚について一考を示しているといえば、2000年代の岡田利規さんの作品が挙げられるでしょう。みなさんが想像されるような、小劇場や新劇などで見られるような「台詞」ではなく、「えっと」とか「ですけどー」のような日常語のノイズの入った、抑揚のない話し方で終始語られる物語と、それに付随するかのような、「だらしなく」動く身体は、改めて言葉そのものがもつニュアンスと、語られる内容とは裏腹に、その意味の認識が空虚であることを思い知らされます。
「言葉と身体感覚の関係性」は、地域・文化圏や言語が変れば全く違ったものになるというのは先で述べましたが、これは演劇作品においても同様のことが言えると思います。数年前、ミュンヘンのカンマーシュピーレ劇場にて『Hotpepper, Air conditioner and The farewell speech』という作品を観たときのことです。これは、先に挙げた岡田さんの『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶(2009年初演)』という作品を、全編ドイツ語でミュンヘンの州立劇場の座付俳優が、岡田さん本人による演出で上演をするというもので、とても興味深い観劇体験でした。初演と比較すると、細部に変更はあるものの、大筋の脚本の内容(舞台が現代日本のオフィスであることも含めて)、そして俳優に対する身体の演出には、変化がありません。しかし、当然といえば当然なのですが、俳優の身体の使い方、言葉の間合い、観劇後に受けた印象はまったく違うものでした。この時に感じたのが、一つの言葉が翻訳されることによって、その形を変化させることはもちろん、そこに付随する意味やニュアンス、言葉から引き出される身体の動きにも変化を及ぼすのだなあ、というものでした。
ここで言っていることは、必ずしも外見や言語の違いそのものではありません。(日本人の役を欧米人がやっているから変とかそういうことではありません。もっとも違う印象を受けたことに少なからず影響はしているかもしれませんが。)むしろ、ドイツの座付俳優たちの持っている「言葉と身体感覚」が初演時の俳優たちと違うのだろうという仮定で、このことは彼が育ってきた環境、暮らしている文化圏、訓練された場所などに起因するのではないかと思ったのです。だから、例えば俳優が全員いわゆる黄色人種と呼ばれる「アジア人」であったとしても、彼らがヨーロッパ文化圏で生まれ育ち現地の教育を受けていたり、または俳優的な訓練を受けたりしているならば、やはり初演とは違った、むしろミュンヘンの上演で私が受けたものと近い感覚を覚えるのかもしれません。

(余談ですが、こんなことを考えながら、日本で上演されているシェイクスピアの作品なんかを観てみると、面白いかもしれません。日本人俳優が演出家によっていかに、シェイクスピアが中世ヨーロッパで残した言葉を、いかに独自のものとして身体の所作や言い回しに「具現化」しているのか楽しめるのではないでしょうか。)


「ごめんね」と「ありがとう」の距離感。
こうした経験からも、演劇が特別な空間というわけではなく、あくまで日常における現象の一つであり、同時に日常における忘れがちなことに、新しい気づきを与えてくれるものだということを感じます。生活における些細な閃きと似たような感覚です。
また演劇は、俳優もとい出演者の身体がノーカットで観客・参加者に伝わってくるため、映像作品などでは「ムダ」として省かれる、言葉や一挙手一投足全てが作品となるわけです。映像畑のかたからすれば、演劇はなんて不自由だと思われがちですが、この捨てることのできない身体性が、普段当たり前と思っているようなことに考えを巡らせるきっかけを作ってくれるのではないでしょうか。あくまで、政治的なトピックやイデオロギー抜きにして。
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ルームシェアをしていた頃、同居人の友達(ドイツ人)に「お前は、ごめんねと、ありがとうをよくいうよな。最初の頃はマジで変なやつだと思った」と言われたことがあります。彼によれば、いちいち「ありがとう」とか「ごめんね」というと、仰々しくて逆に相手と距離を保っているように聞こえるため、親しい仲ではあまり多用しないとのことでした。先にも話しましたが、日本では普通なこと、正しいと思っていることが、案外海外では受け入れられなかったりします。その友達(めっちゃいいやつ)は「ちゃんと感謝を伝えることはいいな」と言って、それ以降、「ありがとう」という言葉を多用するようになりましたが、そういうケースはマイノリティーとして生きる環境においては極めて稀です。(まあ、数の多い少ないで正しさが決まるわけではないですが。)

「自粛」という状況において、意識していなかった他人との感覚の違いが浮き彫りになるとき、自分の「あたりまえ」が他人に通用するとは限らない、という意識が必要になってくるのかもしれません。相手のことをよく知らなかったり、自分のことが伝わらないコミュニーション媒体においては、なおさら考えておかねばならない点だと思います。もしかしたら、家族や大事な人と些細な喧嘩をしたり、行動に対して不満が溜まってしまったときに、すぐに「ごめんね」や「ありがとう」という言葉を求めることは、必ずしもいい方法ではないのかもしれないなあ。(了)