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作詞のススメ〜「こっち側」の備忘録(心の安定剤)

チラシの裏の落書きとホンネの話し

 中高生の頃に中2病がなせる趣味で作詞作曲をやってた時期もある。松山千春や中島みゆきあたりの弾き語りをはじめポプコンの嬬恋本選を夢見ていた苦い黒歴史がある。
 お笑い芸人の深夜番組で「こっち側」というものがある。そう僕もこっち側の人。言いたいことはある。思うところもある。けれどもそれを言えない。言ったらどうなるんだろう。言ったところで何も変わらない。言ってしまえば何かが壊れる。なんて思いながらも「言いたい」。だからそっと歌や絵の中に想いを込め、聴いてほしい、読み取ってほしい、理解してほしい、同感してほしいと願う。
 そう思いながら綴る僕の「想いをたっぷりと込めた」歌詞や歌は、まるで鎮魂歌の様な「おどろおどろ」とした到底共感を得られないものに仕上がる。それも「究極なオリジナル」なものであればよいのだけど、「松山千春の様な」とか「中島みゆきを真似た」己の怨念が乗り移った「痛い」歌が仕上がり、流石に自分でもこの道はどこにも繋がってはいないと違う道を選んだ。

痛い言葉も温かい言葉も

 そんな痛い話を痛い文章で書き殴っていますが、人の恨みつらみほど耐え難いものはない。初期の中島みゆきの歌には「分かれうた唄い」と言われる失恋や嫉妬、妬み、そして流浪の歌詞が多い。心情を丁寧に具体的に綴ってはいるものの、具体的な本人の心情は歌の中には登場しない。聞く人の最大公約数的に「共通」する部分を表現する。口紅、鏡、時刻表、電話、髪の毛。女性が失恋を味わうときに共通言語として出てくる、これらのキーワードに共感を得て涙してしまう。そして聴き終えるとなぜかいつも温かくて優しい。
 中島みゆきの父が残した言葉で「刀で切った傷は薬つければ治せるけれど、言葉で切った傷は薬では治せないんだよ」というのが幼少期から深く心に残って、では「切る言葉があるのなら、治す言葉もあるのではないだろうか」と思ったことが歌づくりの原点と語っている。そして文学部出身で「言葉の強さ」を認められてデビューに繋がったのだそうだ。

足して足してそこからの引き算

 あれからおよそ数十年が経ち、僕も少しは大人になり、多少は気を遣った言葉を綴れる様になり、趣味の弾き語りと共に作詞や作曲を再開している。そしてそこに綴るのは「こっち側」の僕の想いや願い。そこに並べたい言葉は「こっち側」の人たちに共感してもらえる「共通」の言葉。
 とは言うものの、初めからそんなまとまった歌詞は書けないから、思いの丈をすべて書き殴って言葉の洪水に身を置く。そしてしつこい表現や、至極個人的すぎるものを違う物や言葉に置き換える。なんならば言いたいけれど恥ずかしいいことを、隠語として別なキーワードに全て置き換えてみる。
 言葉巧みな歌詞といえば井上陽水が浮かぶ。彼の歌詞の中で「ハートを引くんだ、ハートを集めて僕より早くあがれよ」「ダイヤを捨てるな、僕から勝つんだ、そしてクイーンになるんだ」という歌詞がある。なんとも意味不明な歌詞だけれどインパクトのある歌詞だ。この歌も中高生の頃から聴いていて、そしていつも僕が読み取る意味がこちらの心模様で変わってしまう。つまり、僕の心情が完全にこの歌詞に投影される。ハートはいろんな人の恋心なんだろうか?いっぱい恋をして僕から旅立てと言うんだろうか?ダイヤを集めて富を手に入れて男達を虜にするんだろうか?甲斐性のない僕よりも富を手に入れろと言っているんだろうか?もう、ここまで抽象的な歌詞ならば聞き手の妄想が入り込める隙間だらけだ。

こっち側とあっち側

僕が気が合い会話が弾む割と共感を得る人々はたぶん「こっち側」の人だと思う。妙に人々の言葉や動きに敏感で、人の発する言葉に一喜一憂し眠れない夜があったり、テンションが上がりすぎる日がある。なんとか自分のことを理解して欲しく、それでいて理解なんてできこないと思い、「歌や歌詞」にその想いを込めようとする。そしてここまで抽象的に書けば、僕の本心なんて読み取れないだろう。なんて思いながら書く時もある。最近は言葉ばかりが先行して、メロディが付けられなく曲として完成してない歌詞ばかりが増えてきた。
 それに反する様に「あっち側」の人々がいる。前述のテレビ番組によれば「キラキラして自信満々な人々」ということらしい。ハイスペックでブランド物に囲まれ、大勢が集まるホームパーティが大好きな人々。なんて妄想している。そんな彼らが好きで聴いたり口ずさむ曲は、小洒落たカタカナの地名や名称が登場しクリスマスや誕生日に毎年歌い継がれ、踊りたくなる様なPOPなリズムに、韻を踏んだ装飾音・おしゃれコードが並ぶカタカナの音楽達。夕日を眺めながら素敵なお酒と時間が流れ、失恋しても涙は見せず綺麗な思い出の場面想い髪をかき上げたりする。まるで素敵な映画を一本見た様な時間の流れる歌やメロディ。去るものは追わず、来るものは拒まず、人々が立ち代わり入れ変わり、どんどんと変わりゆく時間と世界。
 一本こっち側の歌詞の中で歌われる言葉は、いつか誰かの涙に寄り添い、誰かの悲しみを抱えあい、誰かの背中をそっと押して、誰かの行き先に灯りを灯し、誰かの過去を鮮やかな色彩で塗り直し、誰かの優しさを引き出して、そして次の誰かへのメッセージを引き継ぎ、そしてまた誰かのそばに寄り添う言葉を紡ぎ出す。受け取れなかった分だけ、目覚めた分だけ、誰かが差し伸べて、受け取った分だけ今度は誰かに贈る「言霊」はどれだけの時間が過ぎようとずっとそこにあり続けて、そしていつか誰かの道標になる時が来る。
 僕の言葉がいつか誰かの心の隙間をほんの一瞬、暖かな温もりを灯す。そんな時がいつか来るのだろうか?
なぜそう思うのかって?それこそが僕の心の隙間を誰かが温かく埋めてくれる時間だからなのだ。

そして言葉の武器

 言葉で人を切る。という表現がありましたが、人はこれまでの行いやこれまで経験や話してきたこと、成し遂げた事や結果によって人としての「武器や道具」を手にし、他人を諭したり、信頼されたり、間違いを指摘して正したりしますが、何事も人に任せ他人事だったり、できないことを他人に追わせる人は「何も武器」を持たないために、「言葉で人」を傷つけようとする。大きな声を荒げ怒鳴り、罵倒し、理屈の通らない様な「意味のない言葉」で切り付けてきます。「言葉のナイフ」しか持ち合わせていないため、振り回せる相手を見つけては振り回し、切り付け、自分を防御します。努力や積み重ね、時間と積み重ねを最も苦手とするので、「成功体験」は言葉で切り付けることしか知りません。当然として刃物を振り回す人に寄り添う人はいません。彼らの祠には歌や音楽、物語や絵は存在しません。なんとも味気のない人生だと。今さえよければ。そう言いながら、今だけ楽しく、そして人生の締め切りが迫ってときに、槍な残したことが目の前に積み重なり、後悔の念に追われながら締め切られてしまいます。
 締め切りが迫る前にやりたいこと、やり残したこと、やらなくてはいけなかったことを一つずつ数えておく。夏休みの宿題を早めに終わらせておけば、残りの休みは追われる気持ちに焦ることもなく、ゆったりとやりたいことに穏やかな気持ちで向かうことができるのではないかと。そんな気持ちで歌や歌詞に接すると、歌い手の本当に言いたかったこと伝えたかったことに触れられて、「人生に音楽があって幸せだった」と思えるのではないでしょうか?

最後に最近つくりました僕の大切な人へ贈ったオリジナル曲を聴いてもらえると嬉しいです。
「柿の種と色が多い靴下」
https://youtu.be/0SoIBqKMuBE?feature=shared

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