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青春の後ろ姿#19 〜20代は、清志郎と、バイクと、文学以外に何もありませんでした〜源氏物語大成 全14冊③教育業界

 ちなみに『源氏物語』54帖が紫式部一人の手によって今の形になったわけでないので、そもそもオリジナルなんていうものを想定する方がおかしいとも言えます。
 正解探しをするのではなく、むしろ何百種類もの表記の揺れを解釈の可能性として楽しむ方がいいという考えが、80年代に若手の源氏研究者たちによって言われはじめました。
 つまり「作者の意図は〜」という問い立ては無効である、という立場です。まさにロラン・バルト「作者の死」を地で行く言説でした。「作者の死」は、それまでの文献学的研究、実証主義的研究、科学的研究に血道をあげていた旧世代に対するアンチテーゼでした。構造主義的だと思います。実際、新進気鋭の研究者たちは、源氏研究に構造主義を援用しました。藤井貞和先生、三谷邦明先生、三田村雅子先生あたりはその旗手だったと言えます。

 でも、だからこそ旧世代の研究の到達点であると言える『源氏物語大成』の功績はめちゃくちゃ大きいです。
 
 ただこれは別に源氏の話に限りません。

 10年ほど前から教育業界で

「正解のない問いを考え続けることが大切」
「答えは1つではない」

などと言われ始めて、今はまさに大流行していて、「なぜそんなことが言われるようになったのか?」と問われると、「それは産業構造が変化して云々」、「生きる力が云々」と答えるのがそれこそ「正解」のようになっていますが、70年代に現代思想の思潮が構造主義になって、80年代には『源氏物語』のような日本の、しかも古典の、しかもしかも文学までもが構造主義的解釈をするようになっていたことを考えれば、一番伝わるのが遅い教育業界でも、ようやく2000年代にその波が到達したに過ぎない、という考えも「正解」のひとつとして花丸をつけてほしいところです。学校の先生騒ぎすぎ。鬼の首とったみたいに自慢し過ぎ。
 と、非認知能力、思考力、探究の係として鬼の首でも取ったかのごとく懸命に騒ぎまくっている私自身、そのようなメタ認知を一応しながらあおり運転並みに煽りまくっています。

 ああ、長くなってしまいました。抑えているのに。現代思想のキィワード的に言うとこういうのを「欲動」と呼ぶのでせう。

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