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利休を考える〜どんな人間だったのか〜

 個人的な七月のテーマは千利休についてでした。
 私はもともと遠州流に属し、小堀遠州が最も優れた人であるという通奏低音中で茶を学んだので、これまであまり利休について触れることはありませんでした。茶をされていない方にとっては意外かもしれませんが、茶道の流派はそれぞれの流祖を崇めるので、利休が革命児であり、茶の湯制定の起源であることは知りながらも、千家じゃない限り、なかなか知る機会がないのです。
 今回は、10冊ほどの千利休関連の書籍を読みながら思ったことをつらつら書きます。

利休像

 利休、どんなイメージをお持ちですか?肖像画でいえば、長谷川等伯が描いた2枚の利休像の絵が有名ですが、他にも土佐光起が描いた儒者の格好をした利休や、孫の千宗旦が描いた後姿の利休など、様々な利休像が生まれました(長谷川等伯の一枚は生前のものです)。
 一般的には、後世に創作されたエピソードなどが相まって、狭い茶室と黒い茶碗を使う、佗びに徹した孤高の茶聖という人物像が強いかと思いますが、私はまったく正反対の印象を持っています。佗びて寂れた風景にいるのではなく、どろどろに塗れた欲望のど真ん中に居り、尋常ならざる生来のど根性と企画力で己の意地を貫き通した人、といった感を持っています。このように言うと、あの侘び寂び利休が?と納得できない方もいるかもしれません。しかし、孤高ではありますが、利休は秋の夕暮れ落ちる浦の苫屋にはおりません。権謀術数うずまく、戦、政治、経済、流通、の中心に、常に自ら位置し続けた人物こそ利休なのです。
 そもそも、本当に浦の苫屋の境地を目指す人物であるならば、信長や秀吉などと付き合いはしません。どう見ても、他の目的があったように思えます。戦国乱世の中央に自ら進み出ていった利休、茶の湯の境地を目指す以外に、いったい何を目指していたのでしょうか。

 利休の人柄については、多くの茶書(『茶道四祖伝書』『茶窓閒話』『茶話指月集』など)にたくさんのエピソードが残っています。しかし、利休が善人であるという事柄についてはまったく載っていません。ほとんどが、他人の作意や間違いを指摘したり、息子と喧嘩したり、あいつは人として嫌いだけど道具は良いよ、など、リスペクト無しで見たらかなり捻くれた話ばかりです。創意工夫や狂歌などには、ハッとさせられる話ももちろんありますが、人柄については、難がありそうで、もし現代に生きていたとしてもあまり友達になりたくない人物です。
 茶を営む家に生まれたわけでもないのに、19歳で父親を亡くして家業を継いで大変な中、茶の湯を北向道陳、辻玄哉、武野紹鴎(?)に学び、三好家 、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に近づきながら、とにかく涙ぐましいほどの営業と執念で天下一の茶人と呼ばれるまで、茶の道を突き進んでいきます。そこに至るまでには、禅宗の悟り的境涯や、冷え枯れる和歌文化などの精神性とはまったく異なる俗物的な側面もあったかと思われます。
 禅宗の影響を受けた孤高の茶聖、利休のイメージ像はいったいどこで生まれたのでしょうか。学術的には、『南方録』や『今井宗久茶湯日記抜書』など、これまで信頼されてきた茶の聖典や史料が、偽書、または信頼ならざるもの、として価値が改められている時代でもあります。もしかしたら、「侘び寂び」といった後世に作られたイメージに、オリジナルの利休像を近付かせる扇動的戦略は、そろそろ終わりにしても良いのかもしれません。
 そんなことをしなくても、利休の生き様は「純文学的」な要素がたくさん詰められています。ひとつ一つをそのように捉えると、再び本来的ではない創作物が生まれてしまう可能性が高いので、『天王寺屋会記』『松屋日記』『宗湛日記』など、信頼できる史料に遺された利休を見ていきたいと思います。

「数寄のブランディング」と「茶の湯の規定」

 茶の湯といえば「侘び寂び」。しかし、当時はあまりこの言葉は使われておりません。自他の茶の湯の実力は「数寄」という言葉で推し量っていました。個人的には、それはあくまでも「茶の湯業界」を生み出した堺や奈良の茶人グループのブランディングの一環であったのではないか、と思っています。

 佗び茶の祖村田珠光が目指したの精神性は、その約100年後に、堺の大商人たちの手で、新時代の新価値軸、つまりは天下統一、下克上、戦国乱世の中での付帯価値に置き換わり、一国一城と等価値となったりします。本来は国や城の価値ではなく、個人的境地を目指すところにありましたが、非常にリアルな価値となって展開されていきました。
 そんな世界に、資金も道具もない1人の若者が登場します。それが利休(当時は田中与四郎)です。前述の通り、利休は3人の師について茶の湯を修めていますが、他の数寄商人たちのように、豊かな戦力は何一つありません。若い頃はたった2つの武器で、茶の湯を展開します。「善好香炉」と「珠光茶碗」です。あまりに道具が少なすぎたためか、時には珠光茶碗を盃にして出すなど、苦し紛れの作意をします。おそらく客の心をみたすほどの成功はなかったでしょう。
 茶の湯の世界で生き残るため、そんな利休に残された方法は、たった2つだけ。創意工夫(作意)他人の力の活用、と言う自力と他力の顕現でした。


創意工夫の化け物

 利休は若い頃からそれを理解していたのだと思います。道具を持っていないからこそ、次から次に新たな作意を生み出します。
 初期で言えば、善好香炉を床の間に袋に入れて飾り、客が入ったら、袋から出して水屋で香を炷いて持ち出す、というものです。目の前で袋から取り出して香を炷くという工夫に当時の茶人たちは驚きました。どうやらこの作意は利休も気に入っていたようで、50歳頃まで何度も行います。現代だと、茶室において香は避けるものだと教わりますが、利休本人はガンガン使っていました。

 その後、ご存知の通り利休は創意工夫の化け物として活躍します。他の茶人たちのように名物道具の収集を目的とするのではなく、身体の底から沸き起こるマグマのような発想力を、古来の色調を変えることなく、新しいものへと「転換(天命反転)」させていったところに、利休の特異性があります。今の茶道の世界は、戒律を守ることが求められますので、創始者の思想とはまったく反対のことをおこなっているわけですが、利休は団体を作るのではなく、身一つで戦国乱世を駆け上がっていったわけです。
 しかし、あまりに新しすぎる転換を生み出してしまったことで、利休以後の茶の湯を規定してしまうこととなってしまいます。宗教などと同じで、創始者が生まれると「右ならえ」も生まれます。個人的な創意工夫があまりにも特異すぎるあまり、流儀や流派といったスクール化が起こってしまったことを利休が見たら、きっと大変悔やまれることでしょう。

タンコブ2人

 しかし、そんな化け物じみた創造力を持った利休にも、如何ともし難い大きな壁がありました。それは利休にとっては目の上のタンコブというべき2人の茶人です。ひとりは堺に古くから財閥の如く君臨する津田家の宗及、もう一人はいち早く鉄砲などを信長に卸して堺の新勢力として活躍した今井宗久です。
 この2人は、利休とは別格に、たくさんの資金と名物道具、そして弟子を持っていました。どちらも利休とほぼ同い年で、主君も死ぬまでずっと一緒です。世は、宗及、宗久、利休の3人を三宗匠と呼びましたが、信長時代においては、利休は3番手でありました。
 当時、津田宗及は利休の何歩先も歩いていました。親は津田宗達という茶の湯の達人で、名物道具は30種以上も持っているし、信長からは手ずから接待され、利休に先んじて茶器「なつめ」を使った人物でした。宗及の茶会でなつめを見た利休は、その4日後、自分の茶会でなつめを使い、天下一の号を持つ盛阿弥という塗師とともに、なつめを流行らせます。なつめ、と言えば利休のイメージがありますが、その原点はライバルにあったかもしれないというのは、利休の性格を表すひとつの要素です。
 また、今井宗久は、利休の師・武野紹鴎の女婿で、武野家の道具を引き継いだ(乗っ取った)人物です。信長には鉄砲の弾を納めた記録もあり、重宝されました。また、始めは信長を敵視していた堺の町人たちに、誰よりも先に和解を勧めたのも宗久です。一説には、堺一の富豪とも言われ、戦国の世を上手に渡り歩きました。
 上記の2人に対して、利休の持ち物は、先述した通り「善好香炉」や「珠光茶碗」、他にどこから手に入れたか「圜悟墨跡」の掛け軸、「つるのはし(鶴の一声)」という古銅の花入、「手桶」の水指などです。利休が大成したのちに、名物となる道具はあると言えど、宗及、宗久の2人と比べたら雲泥の差です。
 つまり2人が死ぬまで一緒にいるということは、利休に残された手は、先述した2つの方法論(創意工夫(作意)他人の力の活用)しかなかったわけです。発想力、創造力が富んでいたから、そこに力を注いだのではなく、それしかなかったからそれに努めた。変化する環境に順応した利休の生物的な強さを感じます。

営業マン:利休

 利休は茶の湯界きっての営業マンであることは誰もが否定できないところであると思います。彼が生まれた家は魚商です。生魚や干し魚を売る商家を営みながら、倉庫貸をする納屋衆でありました。のちに、堺の町を取り仕切る会合衆の一人となります。

 当時の堺は、完全合議制の自治区で、ぐるりと濠で囲われ、浪人を雇って町を警護させていました。周辺では、三好家、松永久秀、織田信長が三つ巴で争っており、はじめは三好側に味方していました。信長に矢銭を納めよ(2万貫、現代の価値だと10億〜20億円)と要求されたときも、真っ向から反対します。信長にとって、三好家に鉄砲や資金を送っている堺は、なんとしてでも手に入れなければならない場所の一つでした。それも、友好的に

 血気盛んな利休も、当初は信長ではなく三好勢に近づこうとします。利休の先妻宝心妙樹は、三好家のトップ、三好長慶の妹です。また、三好長慶が父を弔うために建立した南宗寺で、若き利休は、その開山大林宗套から「宗易」号を賜ったと言われています。さらに、大徳寺の聚光院は、三好長慶を弔うために、息子の義継が建立しますが、そこに千家の墓がっております。ここに、利休と三好家の関係性を見ることができます。

 また、利休は松永久秀が主催する茶会にも参加しています。松永久秀は、下克上時代の武将という側面だけでなく「九十九髪茄子」の茶入や、平蜘蛛釜など、多くの名物道具を持つ数寄人としても知られており、度々堺の茶人たちを招いては茶会を行っていました。そこに、利休も行っているのです。後に信長と真っ向からぶつかって、平蜘蛛釜と共に焼け死ぬ久秀とも関係を作っているのは、大変興味深いところです。

 このように、己の才能をただ信じて猛進するのではなく、冷静に状況を判断し、後に仕える信長以前に、三好家、松永久秀と通じるなど、確実なリスクヘッジをしながら、着実に先へ先へと進んでいく利休。人柄を推し量るばかり。


利休の大失敗

 そんな利休も、大失敗がありました。
 四十代、脂が乗った壮年期、達人たちから茶の湯を教わり、多くの茶会にも参加し、たくさんの名物道具も目にし、茶の湯を学び始めてから約20年、万全を期して購入した墨跡がありました。ある時、その墨跡を茶会で掛けたところ、客人から、「それは偽物だよ」と指摘され、あまりのショックに引き裂き、焼き捨ててしまいます。
 逼塞(ひっそく)時代とも言いますが、それからしばらく利休は朝の茶会を行わなくなります(当時は朝から行う朝会が本番でした)。あの利休でも、20年も修行した後に目利きを間違えてしまうのですから、茶の湯は本当に難しい。なので、1、2年やって少し間違えたくらいで恥だと思って悩まないように。
 後に、宗及によって、偽物と指摘した茶人隆仙と利休の「仲直りの茶会(隆仙、宗易中なをりの振舞)」が行われ、仲を取り持ってもらいます。
 
 そんな大失敗を乗り越え、54歳、ついに利休は天下統一を目指す信長の茶頭(お茶担当)の一人となります。


信長と利休〜転換ポイント〜

 信長は、三好家の関係を絶たせて、堺を自分に味方させることに成功します。そして恐らく既に堺では有名だったかと思いますが、茶頭のひとりとして利休を取り込みます。ただ、妙覚寺での茶会では、茶頭として利休が茶を点てたという記録が残っていますが、今は疑問視されており、どれだけ近い存在であったかはあまりわかっていません。
 しかし、信長から蘭奢待を下賜されたり、名物道具を拝見させてもらったりを見ると、それなりに特別待遇ではあったようです。利休からは、越前一向一揆の際には、鉄砲の弾を千個送るなど、武器商人としての活躍をしており、信長からは礼状が送られています。この頃、利休は「抛筅斎」と名乗っており、環境がようやく整ったのか、ようやく「茶入」が会記(茶会の記録)に登場し始めます。

 茶入を使い始めるのは、天正7年(1579)のころで、尻膨茶入を盆なしで使います。客は宗及ひとり。
 この変化をどう見るかは、意見がいろいろ分かれると思いますが、私は「公的要素を含ませるようになった転換点」と見ています。
 つまりは、天下人の茶頭としてふさわしい茶の湯を展開するにあたって、茶湯の要素の一つとして社会性を含ませることが不可避となったことを表しています。これはこのあとの利休の活躍を考える上で、非常に注目すべき点で、個人的才能のみで奮闘してきた若き青年が、公的茶の湯に至ったわけです。

 一方、個性も忘れずに発揮させています。楽茶碗の原型ともいうべき「ハタノソリタル茶碗」を初めて茶会で使用します。これは、オリジナル和物茶碗で、それまでは中国や高麗の道具を使っていた日本の茶の湯界に衝撃を与えます。公的な側面だけでなく、個人的な側面も意識して、ハイブリット化させていきます
 このとき、利休は57歳。ここから加速度的に、たくさんの創意工夫を生み出していきます。

秀吉と利休

 秀吉は、利休と同じく、生え抜きタイプの武将です。信長は「御茶湯御政道」といって、茶の湯を許可制にしており、近しい家臣以外には、茶会を開いたり、茶の湯を学んだりすることを禁止していました。
 秀吉も兼ねてから茶の湯を学びたいと願っておりしたが若い頃はできませんでした。その後、安土城造営などの働きで、信長から茶の湯の許可が下りた際には、「今生後世難忘存候」と言って、とても喜んだと伝えられています。
 そのころの利休と秀吉の関係を表す書状が残っており、利休は秀吉を呼び捨てで呼び、秀吉は利休のことを「利休公」と敬称をつけて呼んでいました。
 
 そのような関係状態が逆転するきっかけは、本能寺の変。明智光秀なきあと、秀吉が天下人となり、秀吉とタッグを組んでいた利休も自動的に天下一となります。利休はこのとき61歳

 ここから、公をさらに超えて、秀吉と利休コンビの「政治性の強い茶の湯」が連発されていきます。
ざっと代表的なものを挙げると、
・九つ茶壺の同時口切茶会
・数寄者32名茶会
・大徳寺150人茶会
・禁中茶会
・黄金の茶室茶会
・薩摩島津氏討伐祈願茶会
・史上最大の北野大茶湯
・戦で打ち負かした武将お迎え茶会
など。
 もちろん、一方で利休は兼ねてからの茶友や弟子たちと茶会は行っているようですが、政治的役割が強まっているのがわかります。一介の商人が戦国武将に茶を教えるだけでも大変なことなのに、その影響を受けた秀吉と共に禁中にまで入ることになるとは誰が予想したでしょうか。
 このとき、利休は「利休号」を受けたと言われます。この点については諸説あるため、いつかノートにまとめたいと思います。

 また、小牧・長久手の戦いの後、和睦する形で、秀吉は家康を大坂城で歓待するわけですが、その前日に利休を家康に紹介しています。秀吉は利休のことをこう呼んでいます。「天下の名人」と。
 これが天下一の茶人として認められた記録です。この頃になると、利休は秀吉の「内々の儀」を司るほどになっています。茶の湯の世界だけでなく、政治の世界を手中に収めるところまで、上り詰めました。
 

利休、秀吉から心離れる

 ただ、秀吉に天下一と認められ頂点を極めた利休ですが、この辺りで心境の変化が起きます。

・愛弟子宗二処刑される
 まず北野大茶湯が開催される前年に愛弟子である山上宗二が追放されます。『長闇堂記』に「顔も口も悪い、息子も」と散々に評された宗二ですが、堺でも代表的な数寄の家、薩摩屋グループの御曹司です。利休の高弟として知られていますが、若い頃は、利休と同格で、宗及と共に茶会に呼ばれるなど、茶友としての側面を持っていました。追放された際に(ちなみに2度目)、高野山で書き上げたのがかの有名な『山上宗二記』。利休の教えを記し、自身の目利きで名物道具の新たな選定を行い、当時の茶の湯を知るためには欠かせない資料となっております。
 宗二は、追放された後、秀吉と敵対する小田原北条氏に身を置きますが、小田原攻めの際に城から逃げ出し、早雲寺に陣を構える秀吉のところに許しを請いに訪れます。ただ、前述の通り「口が悪い」ので、その場で直言し、秀吉の怒りに触れてしまい、耳鼻削がれ、打ち首、という、凄惨な最期を迎えました。
 このとき、利休も秀吉と共に小田原に来ています。しかし、後に竹の花入三名物となる、韮山の竹を切りながら、愛弟子の古田織部と、竹の花入できたよ、早く茶が飲みたいね、などと言った手紙を交換しています。宗二が惨殺されながら、竹の花入に想いを馳せる利休。一体どんな心境だったのでしょう。

・古渓宗陳追放
 
一説には利休号を授けた禅僧としても知られる大徳寺の古渓宗陳。石田三成、秀吉と仲が悪くなり、追放されます。利休にとっては信頼する禅の師のひとりでもあり、非常にショックな出来事であったと思われます。
 このとき、利休は別れの茶会を行います。なんと、秀吉が大坂城にいて留守のときに、秀吉の居城である聚楽第の前の屋敷で、古渓宗陳らを招くのです。さらに、秀吉から預かっていた「虚堂智愚の墨跡(最上級の墨跡)」を無断で使用します。
 秀吉が知れば激怒間違いなしの茶会を、平然と行うのです。堀口捨己氏は、「鋭いはげしい茶会」と評しています。

  細かなところを言えば、秀吉から心が離れてしまうきっかけとなる事柄が、より多くあったかと思いますが、上記の二つが、当時の利休を推し量る出来事として知られています。
 そしていよいよこの有名な大事件が起こってしまいます。

大徳寺金毛閣の利休木造

 利休が切腹を命じられた理由は諸説語られています。「売僧(まいす)の頂上説」、「娘側室お断り説」、「朝鮮出兵反対説」、「秀長逝去きっかけ説」など。その中でも、最も語り継がれているのが、この「大徳寺金毛閣の利休木造」です。
 利休は、晩年になって、大徳寺の山門を二階建てにする資金を出します。このとき、紹安(道安)、万代屋宗安、少庵、千紹二、なども工事奉行として手伝っており、千家上げての大仕事となりました。
 利休はこれまでずっと心に残っていたことがありました。それは19歳のときに亡くなった父の供養をきちんとしてあげられなかったことです。十代で家督を継ぎ、お金が潤沢になかったためでしたが、六十代後半に至って、ようやく環境が整ったことで、父の五十回忌法要に合わせ、この山門を工事したのです。
 金毛閣と扁額が掛けられた山門は、春屋宗園によって落慶法要が行われました。そしてその3日後に、利休は父の五十回忌法要を執り行いました。長年、胸に支えていた想いがようやく晴れた瞬間でした。
 その御礼を兼ねて、大徳寺は、利休の木造を金毛閣に置きます。しかし、それを三成が秀吉に讒言し、結果、切腹となったと言われております。ただ、これはあくまでもきっかけに過ぎず、様々な面で関係は既に崩壊していたのではないでしょうか。

茶壺ナゲコロバシテ〜最期の作意〜

 『宗湛日記』に載る、利休最期の記録は、神谷宗湛をひとり招き、二畳敷の小座敷で行われました。橋立の茶壺を飾っていましたが、濃茶の後に紺の網を取り外して、利休は床の前に「ナゲコロバシテ」見せたと記されています。
 茶壺は、茶人にとって最も大切な道具の一つ。もともとは碾茶を保存するための「褻(ケ)」の道具であったものが、床の間に飾られるようになり、その人を表す「ハレ」の道具となりました。
 特にこの橋立の茶壺は、切腹を命じられた後も、「誰がきても絶対に渡すな」と預け先に伝える程、利休は大事にしておりましたが、それを宗湛の前にナゲコロバシテ見せたというのは、心境を大いに物語るものです。
 言うなれば、利休最期の創意工夫でした。

切腹

 商人が切腹なんて前代未聞。切腹を回避するために、いろんな人が救いの手を差し伸べますが、利休は自ら断っています。名誉ある死に方をする利休。そのときの様子は、以下のように記されています。

上洛し、葭屋町の聚楽屋敷に入った。上杉景勝三千の兵、騎馬百騎、弓、鉄砲四百梃で取り巻かれ、厳重に警備された。
2月28日、不審庵に茶湯の支度をして、尼子三郎左衛門、安威摂津守、蒔田淡路守の三検使をお迎え入れ、織部の茶碗、自作茶杓などで一服したのち、蒔田淡路守の介錯で腹を切った。

 切腹される寸前も、介錯人らと茶を一服。大変な精神力です。ちなみに、最期を迎えた場所は、堺だったのか、京都であったのかは結論が出ていません。

 最期の狂歌と言われるのは以下の歌。

人生七十、力㘞稀咄(りきいきとつ)、吾這宝剣(わがのこほうけん)、祖仏共殺(そぶつともにころす)
 提(ひっさぐ)る我が得具足の一太刀 今この時ぞ天に抛つ

 特に私は「力㘞稀咄」という言葉が好きで、「えいやあ!」という気合いの言葉で、具体的な意味はありませんが、ここに利休の想いのすべてが込められているのではないかと思っています。
 ふりかえれば、19歳で家督を継ぎ、22歳で初めての茶会を開き、それから、禅の境涯や、浦の苫屋に反して、50年もの長き間、人間の欲望の中心地にずっといた利休。秀吉の力を利用して天下一となり、禁中にも入り、大徳寺の山門も寄進し、父親の五十回忌法要も盛大に取り行い、自分亡き後も後継者が2人もいる(道安、少庵)。普通の人の数回分の人生経験を得ていると思いますが、特に54歳と61歳に転機が訪れた後の濃厚すぎる十余年。思い残すことはなかったのかもしれません。それが、「力㘞稀咄」に込められていると思います。
 利休七十歳、切腹。


まとめ

 ここまで矢継ぎ早ではありますが、当時の記録をベースに、利休の生涯を語りました。初めて触れるものはあったでしょうか。
 文頭に書いたように、利休イメージというのは、後世の人々の煽動的な部分があまりにも強く、利休亡き後100年ごとに利休回帰の書籍などが出版されるようになって、その傾向はますます強くなっていきます。
 禅、禅、言っておりますが、利休に禅的要素がそんなに感じられるか正直不明ですし、あまりに強い起源的な人物がいると、後世の人々が何でもかんでも精神世界に引っ張ろうとすることは、原点回帰ではなく、原点を否定する行為に他ならなりません。
 利休は茶の湯というものを盲目的に捉えず、それを第一目的ともせず、非情なまでに冷静に見極め、あくまでも手持ちの武器の一つ、つまりは方法論として巧みに使い、人心掌握の術を極めたと言って良いでしょう。
 
 利休の根底に流れる徹底したリアリズムが、道具や茶室、会記などから見て取れます。この点を語り尽くすには、当時の抹茶のこと(栽培・製造方法や味など)や、武将たちとの関係の背景、道具の金銭的価値、など総合的な評価が必要となりますが、現代はあまりにも利休への偶像崇拝が過分であると感じます。創意工夫も、ただオリジナルの発想を生み出すというだけでなく、冷静に歴史性やそのときの状況を判断しての結果であるということを捨ててはいけないと思います。形や色など、その姿の特異性だけを愉しむことは、茶の湯にとって遠いものであり、いつまでも「道具鑑賞」の域を出ないでしょう。道具は使わねば、意味を成しません。

 ねじ曲げられた利休像については言いたいことがたくさんありますが、やめておきます。それよりも、たった51(もしくは52)の記録が残る利休の会記や、遺された道具などを見て、いったいどんな人物であったのだろうと、自分の目で純粋に見つめることが大切です。

 また、ここまで調べて思うのは、結局のところ、利休は何が目的だったのだろうか、ということです。信長に仕える頃くらいからは、収入や道具については安定した状態になり、秀吉から天下一と称された時点では、名誉もこれ以上ないところまで得てしまいます。
 しかし、どうしてそこまで上り詰める必要があったのでしょうか。所詮、茶坊主ですから、頂上まで行かずとも、茶の湯なんてどこでもいくらでも行えたはずです。実際、途中で政治色が出過ぎた利休と袂を分かつ藪内剣仲は、いろんな人と縁も切って、独り、茶の湯の道を突き進みます。利休はそのような道を死ぬまで選びませんでした。それよりも勘気に触れたらいつでも死刑というリスクの高い環境下で、秀吉の内政にまで手中に収めてしまうのです。その必要が茶の湯に必要であったか、非常に謎です。時には政治家、時には死の商人、時には茶坊主。しかし、最期は、茶の湯か、または己の精神を貫いて、この世を去る。まだまだ研究が必要なようです。

 もうひとつ。私は神谷宗湛の存在が気になります。薩摩島津氏討伐祈願茶会で、秀吉は博多の商人である宗湛を歓待します。これから九州を大いに利用とするために、先に現地の商人と関係を強化しておくのはさすが人たらし、と言ったところですが、彼が登場したことで、利休の役目はほぼ終わったと言えます。秀吉にとってはかつての師であり、口うるさい相談役の利休より、資金も道具も豊富に持り、意のままに従ずることのできる宗湛の方が使い勝手が良かったのではないでしょうか。

 利休については、調べれば調べるほど、ミステリーです。ただ、外国からもたらされた技術や文化を発展させることが得意な日本人の中では、無から有を生み出す力を持つ利休は非常に特殊な人物であったと思われます。利休のその能力によって、それまでにはない要素と形式の多くが茶の湯に取り入れられました。

 さて、利休についての検証は今後もまだまだ必要ですが、このように記録を辿ることで、利休を「生まれながらの超人」ではなく、時には苦悩し、時には哀しむ一人の人間としてとらえることができました。
 今後も、塗り固められた利休像ではなく、純粋に記録に残る実際の利休を見つめながら、その数寄を考えたいと思います。

武井 宗道


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