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すべての人へ捧ぐ 喫茶のすゝめ

 武家茶道宗家の内弟子を経験し、独立して個人で茶の活動をして7年が経つ。それまで幾つも難所があったし、今そこから脱出できているかというと、未だに道は暗い。しかし、夜の真っ黒な海へ突き落とされても、どうしてもやめられなかった茶の湯。それは、他に何にもできない故に、茶をやるしかなかったのだ。
 だから、伝統文化の継承や、茶道文化の伝播などは全く目的としては持っていない。そのような、よくある文化的、歴史的責任はどうでも良くて、「もしあなたの人生に茶があったら、ささやかな幸せが、ほんの少しだけ増えます」くらいの気持ちで続けている。
 そもそもほとんどの人が「茶家」に生まれてもないし、家元になるわけでもないのに、責務や義務など思い詰める必要は全くない。逆に、歴史をキチンと継承してくれる家元たちがいることで、我々は自由にお茶ができる。
 では一体どんな理由を持って、個々人のささやかな幸せがほんの少しだけ増えるのかを、お話ししたい。


他者の存在を確かめる行為

 人は孤独だ。生まれ落ちたその瞬間から孤独である。誰かと繋がったところで、いつかは死に掬い取られてしまう。歳を取れば取るほど、その孤独の侘しさは如実に感じられる。
 私もこれまで何度か孤独だな、と思う時期があった。それは個人で活動している時よりも、近しい人がいたり、集団の中にいたりした時など、ふとした瞬間に感じるのだ。孤独は常に内在する。
 しかし、ほんのいっときだけ、孤独のまま、互いの存在を共有することができる。その点においては、茶は何よりも優れていて、かつ多くの方法を持つ。何故なら、茶は誰かに飲んでもらわねば成立を見ないからだ。茶を点てる限り、私以外の誰かが必要となる。呈した茶碗が空っぽになっていれば、きっと誰かがそこにいるはずだ。
 自分以外の世界がそこにあることを、確認する行為が茶の湯である。そのとき、人は少しだけ孤独から解放される。

 
人が苦手な人こそ向いている

 他者の確認の話をしたところでなんだが、生来、私は人が苦手だ。別に孤独が寂しくて、人が恋しくて、茶を点てているわけではない。正直、人と会話するくらいなら書物と会話する方が好きだ。書物には、少なからず確かな恩恵がある。
 初対面の人に出会った日には、何を話したら良いかわらかない。だらりと垂れ落ちた頬の筋肉をいくらか持ち上げて、明日は雨降るみたいですよ、と適当な天気話をするくらいが関の山だ。
 しかし、そんな私も、父が飲食業をしていたのもあり、多くの人が訪れるレストランを経営しようと思っていた時期もあった。しかし人が苦手な上にズボラな私には、忍耐が多く必要な恒常的業務は不向きと感じ、やがて諦めた。美味しいものを食べることには興味があったが、結局、提供する側には興味が向かなかったのだ。出す限りは、一緒に食べたい、という思いは積もっていった。
 そんなときに茶に出会った。大学を1年休学し(なにもしてなかった)、復学して始めた茶の稽古。そのとき、「茶事」と言う形式を知り、これはとんでもない智慧の結晶だ、と感動してしまった。思わずそのまま中途退学して内弟子に入ってしまったほどである。
 茶の湯を好きな理由は、大きく2つある。

「人と話さなくても良い」

「嫌いな人を呼ばなくて良い」

 言ってしまえば、とんでもなく排他的な文化であることに感動してしまった。それまでの茶の湯に対するイメージが打って変わり、脳髄の大地がパチンと弾けてコペルニクス的転回を見せた。巷で言われる「誰にでも無差別で無条件のおもてなしをするのが茶道だよ」など嘘っぱちで、そもそも茶の湯の世界にそんな概念はなかったのだ。
 普通、独善的で傲慢であるこの文化のようなものは嫌われて当然だろう。社会的な関わりを一蹴し、たった5人以下の少人数で、暗くて狭い部屋で、秘密の道具をコッソリ持ち出し、茶をずるずる飲む行為など受け入れられてなくて当然である。
 しかし、見方を変えたら、何よりも客人を想う文化とも言える。上記の条件を言い換えれば、

「本当に大切な人だけに、非言語化された想いを行為で伝える」

ということだ。
 うまく人と話すことができなくても、行為によって完結するのが茶の湯だ。茶道には、茶事という最大4時間と言う長い喫茶があるが、もし一言も話さないまま終われたらどれだけ素晴らしいだろう。
 作り話も、作り笑いも、何も要らない。とにかく客人のために、ひたすらつとめることができれば、誰でも茶人となれる。茶を点てる条件においては、世界で最も自由である。


誰でも亭主になれる

 茶の湯の優れたる点は、プレイヤーの制限がないことである。
 しかし、茶道の初心者本を見るといつも不思議に思う。初心者役のモデルが、ピッチリ着物を着て、キチンと正座して、ゴリゴリ茶碗を回しているからだ。ついでに帛紗挟みなどに、扇子、懐紙、帛紗、菓子切りなど、お稽古セットも持ってる。
 皆さんも思われると思うが、彼らは間違いなく初心者ではないだろう。本当の初心者は、そんなもの持ってない。そもそも、着物やお稽古セットなど気にする基準すら持ち合わせていない人々のことだ。宗家に手ぶらで行った私もそうだった。初心者本なのに、初心者の眼前で、流派公認の初心者本が我先にと高いハードルを打ち付けるのはいかがなものか。ここに、初心者の段階で既に線引きをしようとする経験者たちのエゴが見え隠れしないだろうか。

 さて本題に戻ろう。茶の湯は線引きがない。誰でもできる。ちなみに私の親族に茶の経験者は一人もいない。だから、茶室もないし、道具もない。宗家に体験で伺った時に頂いた抹茶は、京都の修学旅行以来だった。しかも濃茶だったので、余計に衝撃を受けた。
 
 しかし、今こうして茶の活動をしながら生きてこれたのは、茶の湯自体に制限がなかったからだ。なぜ茶の湯には制限がないのか。それは大切な人へ想いを伝えるための「プログラム(物語)」だからである。
 茶席のプログラムを作ることが、茶人の本懐であるからして、人種、国籍、宗教、言語、年齢、性、障害などの境に依拠しない。
 たとえ5歳の男の子だって、祖父母をもてなす茶席のプログラムを作れれば、立派な亭主となれる。茶道具がなくとも、非言語化された中で想いを伝えられれば良いわけだから、共通認識の要素を持ってプログラムを組み立てていけば良い。例えば、誕生日に買ってもらった玩具を飾り、手作りした餡子玉を口取にして、当日まで秘蔵していた茶器(陶芸教室行っても良い)を持ち出し、テーブルと椅子で茶を点てる。もちろん服装はなんだって良い。茶でなくても、コーヒーでも紅茶でも中国茶でも、祖父母の好みのもので良い。一所懸命に尽くしたことと、茶席のテーマである想いが伝われば、至極の茶席となる。茶の湯は「目的」ではなく、「方法論」に過ぎないため、制限を持たない。
 また、上記のことから分かるように、茶の湯は自分でできること、持っているものでその亭主の想いを顕現することが大切だ。老舗の道具屋に行って、お金を渡せば、いくらでも名物は買える。しかし、果たしてそれは亭主と客人の想いに通ずるものだろうか。御馳走という時の通り、客人のためにひたすら走り続けることが何よりも大切だ。
 
 そして、最も重要な点は、物語を語ることが亭主の役割であれば、もし体の四肢が動かなくとも、頭の中さえ動けば茶の湯ができるのだ。そこに、媒介者さえいれば、代わりに客人をもてなし、茶を点てることで、実際の亭主が役目を果たすことができる。
 それまで所持した思い出を、道具や空間、形式に込めることで、茶席には自然に亭主の人生が投影される。実は、全自動の自己顕現化プログラムが茶の湯の機能にあるのだ。

人生を行き交う

 我々は孤独であり、人と会うことは同時に別れを示す。当たり前に言葉を交わしていた人物が、茶室を出た次の瞬間に、さらりと消えてしまうかもしれない。また、もし幸運にも同じ人物に再会できたとしも、その人はかつて出会ったときと心身の状態が異なっているだろう。つまりは、目の前にいる茶を飲むその人は、もう2度と会えない人物なのだ。一回性の喫茶である。
 茶席に訪れると、亭主の人生がそこに物語化されているわけだがから、亭主の命に触れることと同義となる。我々は茶を飲みに行くことと同時に、亭主の人生に含まれにいくわけだ。物語を読むためには、一つひとつの言葉(要素)を丁寧になぞる必要がある。また、その隙間に介在する行間や、修飾された隠喩を読む。そのためには、亭主、客が互いに慈しみ、敬う心が必要だ。
 亭主となり、客人となるためには、両者共に、互いの人生を敬いながら物語を進行する必要がある。要は、人生を行き交うことが茶の湯の醍醐味と言える。人をどのように大切に想えば良いか分からなくなっている現代、それはとても大切なことだと思う。

未知と既知

 物語を読むことは楽しい。何故なら、そこには未知と既知があるからだ。茶席も全く同じで、もてなしの時空間には、多くの未知と既知がバランス良く織り込まれている。
 誰にだって同じだと思うが、そこで見る映像や小説、演劇、体験が、既に知り尽くしたもので構成されていたら、非常にがっかりするだろう。反対に、知らないものばかりで構成されていたら、今度は理解ができなくてつまらないだろう。専門用語が多すぎるコンテンツが良い例だ。要は、そのバランスである。
 言い換えれば、安堵と緊張だ。多くの約束ごとによって進行される安堵と、時折、劇物のように出現する緊張。しかも、茶の湯では客人(私)のために未知なる緊張が用意される。こんなに嬉しいことはないだろう。
 ぜひ、自分のために用意された創意工夫を味わう楽しみを体験してほしい。 


まとめ

 茶の湯とは、互いの存在をどれだけ敬えるかを突き詰めていく行為だ。そして、それが平等に行われることを想うと、世界でも稀有な文化であると思う。
 通常、ほとんどの集団的行為は、演者と観客に分かれるが、茶の湯においては、亭主も客人も演者であり、観客は不在であった。これから生まれてくる存在であると思っているが、それはまた別の記事でお話ししたい。
 
 ほんの少しの茶があるだけで、相手を豊かにできる。是非、一度でも良いから、茶を点てる感謝、茶を頂ける喜びを感じて頂けたら、私もほんの少しだけ嬉しい。すべての人に捧ぐ。

武井 宗道


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茶道人口の減少について
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