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亭主、客を待つ

    外出を控える要請が出されて、早くも三週間が経った。三月の最終週からお稽古も休止とし、茶を自服するようになって久しい。SNSを見ると、他のお茶の先生のお稽古場も次々と休止となり、現在はオンライン茶会や、オンライン稽古なるものが跋扈している。きちんとルールはあるようで、参加者たちは部屋を掃除し、居ずまいを改め、抹茶とお菓子を用意し、画面の向こうにいる人々と一服を共有するという。危機的状況においても、模索すればお導きの手順が容易に手に入る時代、とても良いことだと思う。しかしながら、私としては、そこまでして集まって茶を飲みたいかというと、あまりそう魅力を感じない。集まれないなら集まらないでも良い。個人的には、いつか来るであろう客人を待ちながら、一人静かにお茶を飲みたい。

    茶に携わりながらそんなことを思う私は、未だ茶の湯の魅力というものに気づくことができていないのかもしれない。そういえば、最近は「茶の湯、茶道って素晴らしいですね!」という問いかけに対して、パッと返事ができない。何故なら、茶の湯自体は特に良いものでも悪いものでも無く、ただの方法論に過ぎないからだ。素晴らしいかどうかは、あくまでも主客の関係性によるところが大きい。その雰囲気やしきたり、それまでの関連性について、他人に伝えることは容易なことでは無いし、伝えられたところで質問者に当てはまるわけではない。また、茶の湯には多くの日本文化が含まれているから、と言われることもあるが、それはあくまでも補助的機能であり、本質的なものではない。物事はなかなか安易に評価できない。

   さて、お茶をする理由はなんでだろうか。その答えの言語化はいつも難しい。朝起きて、顔洗って歯を磨くのに、大層な理由を毎回つけるだろうか。あるとすれば、「なんとなく、これで、良いだろう」と言うくらいのもの。これは一種の諦観である。より良い結果、より悪い結果を考えることを諦めたからこそ、感覚を頼る。生きていく上での判断基準は、案外こんなものだ。今回のコロナだけでなく、これから半永久的に発生する予想できない事象に対して対抗できるのは、その都度、「仕様がない」と言う想い。そしてそこから出発する創意工夫のみである。

    茶の湯の世界は、諦観で溢れている。隣の芝生を見れば、立派な茶室、多くの茶道具、新しい着物、たくさんの弟子、大きな看板、など挙げればキリが無い。しかしながら、他人は他人だから全てどうでも良い。まずは全部諦める。そこから創意したり工夫したりしてみる。喫茶をするのであれば、茶碗を何かしらで見立て、あとは抹茶があれば良い。ここで必要不可欠なのは、自分が点てた茶を共有してくれる客人である。こうなると、日頃の行いが如実に現れる。普段、不義理を重ねている人には、茶を飲んでくれる人がいないからだ(自戒を込めて)。さて、客人もいないのであれば、やることは一つ。ひたすら待つのである。抹茶を用意し湯を沸かして、いつまでも、いつか来るであろう客人を楽しみに待つ。それまでは、一人となって全てを諦め、そして創意工夫を模索し続ける。今はまさにその時である。

   全てを諦めてみると、途端にバリバリと殻が弾けて、ピンク色の新しい肉を纏った純粋な自分が顕れる、と言う漫画みたいな展開は決して起こらない。諦めたところで、ひとりの人間がただそこいるだけである。ただ、少しばかり良いことと言えば、今まで「理由の積み重ね」よって行なったり、行わなかったりした自己弁護の集積場から脱却できる可能性があると言うこと。人間、何もなくなったら、とりあえずは前を向かねばならないので、直感的に何かを得るようになるだろう。まずは腹を満たす食欲が訪れると思うが、我々は身体的思考の他に、精神的思考、つまりは意思を持つ。そのため、楽しいとか、興味深いとか、面白い、とか、生理現象以外の言語化できない指針を生じさせることで、一つのささやかな喜びを得る。それは生きる「目的」となり、目的を達成するための道筋として「方法論」が生まれる。「誰かと会うと、おそらく楽しいだろう」と言う茫とした目的に、「茶の湯」と言う方法論を合わせると、途端にそれは現実味を帯びる。このとき、方法論から目的を設定したり、方法論が目的となったりすると、長い理由探しの旅が始まり、やがて迷宮入りするため大変危険だ。本来「客人と会う」ために「茶を点てる」のに、いつしか「茶を点てる」ために「客人と会う」という独善的なものに成り下がることである。それが集団化すると、本来の目的は失われ、排他的独善性はさらに増し、カルト宗教のようになる。そのため、このような現状であるからこそ、芸術・文化は我々の意思に生きる目的を与えてくれる大切なものだと改めて感じる。

    さて、茶の湯、茶道にまつわる活動が止まった今回のような状況下において、個々人の活動が見出される今、いわゆる流派という団体性はどのような意味をなすのであろうか。流派というものは、個々人の動詞的方法論を定義化し、やがてそれは名詞的地位を得て「目的」となった構造体である。稽古照今、温故知新、「構造体」に本来求められていた「時代の反映」「次世代へのアップデート」は、どちらかというと各宗匠たちよりも、末端の先生や弟子が個人的に行っているように見え、それはSNSにおいて既に露呈されつつある。宗匠たちの保守性は年々高まっており、象徴でもなく(そもそも茶人は象徴化し得ない)、偶像と化している面も捨て切れないだろう。また、会員や免状申請の大幅な減少、高齢化による運営や建造物維持の限界など、多くの問題も抱える。今回のコロナの対応においても、会員に対して新たな施策を提示した流派はどれだけあるのだろうか。危機的状況において示される指針が、茶会や稽古場の中止・休止の要請だけでは、今の政府と同様に、解決的意味を成さない。論理性を廃したその先の、精神的支柱の新展開がこの状況下では特に宗家に求められているのではないだろうか。しかしながら、それは個々人にも当てはまる。今は自己表現(?)の単純化によって「似非茶人」が増加した江戸時代中期にとても似ている。過去では、利休の正統なる継承者であることを明示するために「茶家=宗匠、流派」が生まれた。こうしてみれば、個人においても、流派においても、現状は新たな展開への絶好の機会だといえる。

  一つ思うのは、今は井伊宗観(直弼)の提唱する「独坐観念(茶会が終わった後、ひとり、炉の前で釜と語らいながら感じ入る境界(きょうがい)のこと)」の時間であると思う。茶友や弟子と会えなくなったあの日から、自分を戒め、省みる日々が始まった。全ては過去であることと諦観し、道具を整理し、部屋を掃除し、花に水をやり、一服しながら、いつか再会する楽しみを感覚的に捉える。方法を目的化するのではなく、目的を方法化すると、繰り返される行いは、やがて日常を得る。水面にうつる自分を見つめながら、自分とは一体何なのだと考えてはいけない。ひたすら見つめ続ける日々を、再び客人が訪れるまで継続する。人と繋がることも大切だが、たったひとりでポツネンと過ごすことも、同じくらい大切であると思う。

  窓の向こうで菖蒲の葉が捻りを加えて、スルリスルリと伸びている。今年は床の間に飾られず、来年を待つこととなろう。他の草花も、道具や茶室もまた同じ。客人を待っているのは、亭主だけではない。今は、コロナ明けの茶会・茶事に訪れる客人のために、いろいろ資料を集め、保存できる口取を仕込む。秋になったら石菖を飾って夜咄もしたいなあ。考えるだけで、とても楽しい。また、客人と茶を共有できる日を、ひとり待ち侘びる。

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