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「KIGEN」第十二回


 学生たちが軒並み夏休みに突入した七月下旬、リビングで渉は大相撲中継を見ていた。一場所十五日間の取組が最終日を迎える、千秋楽である。日曜休みの渉は、毎場所の千秋楽をテレビ観戦しながら酒を飲むのを楽しみの一つとしていた。若い頃から相撲好きで、智恵美もそれを知っている為、相撲のテレビ観戦の時だけは夫が早い時間から缶ビールを開けても小言を持ち出さない事に決めていた。

 リビングには奏といちごうが居合わせて、いつの間にか一緒に観戦している。渉の解説によれば今場所は優勝争いが混戦気味で、千秋楽までもつれたから会場も盛り上がっているという。

 奏はあまり関心がなかったが、いちごうが面白そうに画面に見入っているものだから付き合う事にして座っていた。時々つられて画面を見ていると、大きな力士が思い切り突進してはごつん、ばちん、と大きな音を立ててぶつかり合っていて、思わず身を縮めた。あんなところに挟まったら自分は一溜りもないと想像して怖くなった。

「おお!優勝決定戦だ!優勝決定戦にまでもつれたぞこれはっ!」

 渉は二本目を開けてそろそろ上機嫌で、大きな画面にぐいぐい近付いていく。いちごうがそれは何ですかと聞いたものだから、熱弁揮って解説している。場内がざわざわと賑わう間に画面が切り替わって、髷を結直す力士の姿がちらちら映し出される。渉が云うには大銀杏と呼ばれる立派な髷を直しているのが横綱で、相手は平幕力士らしい。

「それなのに凄いんだ今場所の活躍は。多分彼は今大関に一番近い男だよ。優勝どうなるかなあ、まだかなあ、トイレ行く時間あるかなあ」
「我慢良くないですよお父さん」
「だよね、急いで行って来るっ」


 渉が期待した優勝決定戦は、驚く程あっさりと決着を見た。平幕力士は全力で向かって行った。横綱はがっぷり四つに組んだ。というよりも、ここまで場所を盛り上げた平幕力士の健闘を称えて真っ向勝負を受け止めて遣った様に見えた。尻上がりに調子を上げた横綱もまた絶好調であり、それだけの余裕があったと云う事だ。

 横綱は組み止めた瞬間、既に相手のまわしに手をかけていた。それが投げを打つに最高の位置であり、場内に歓声が響き渡った直後、相手が動く力を利用して土俵の上へ転がした。赤子の手をひねる様に軽やかな上手投げであった。その瞬間を目撃した奏は、一瞬その場の重力が消えたのかと思った。それ程見事な力の使い方だった。場内には歓声と悲鳴と拍手とが入り混じった。古都吹家のリビングでも渉が大きな拍手を送っている。

「やあ凄いな、流石横綱だ!集中してたんだろうなあ、速かったなあ。いや凄い」

 言いながらいつまでも懸命に拍手を送っている。この時、

「感動した!!」

 と、いちごうが突然立ち上がって叫んだ。仁王立ちのまま、溢れる感情を胸に湛えて微動だにしない。奏も渉も意表を突かれていちごうを見た。


 誰も感想を聞いていないのに。誰も何も質問していないのに。いちごうは自発的に発言したのだ。いちごうが自発的に自分の感情を思い切り表したのは初めての事だった。奏は驚いた顔を隠しきれない。渉はぽかんと口を開けたと思ったら、今度は前のめりにいちごうの方へ身を乗り出した。気分よく酔っ払い顔が赤い。

「いいねいちごう。いちごうは体も大きいから、将来相撲取りになったらいいよ」
「私が、相撲取り、ですか?」
「そう。力持ちだし、きっと凄いお相撲さんになれるぞー」

 いちごうは表情を明るくした。

「やってみたいです!私の将来はたった今決まりました!」
「いいぞーいちごう君、君の前途は明るいんだ、将来有望だなあ!乾杯!」
「恐れ入ります」
「二人共落ち着いてよ、いきなり相撲取りなんて、そんな簡単にはなれないでしょ」

 奏が二人を落ち着けようとして注意するも、既に耳に届かないのか、いちごうは興奮冷めやらぬと云った様子で立ったまま中継の続くテレビ画面に見入っている。渉がこれから優勝力士のインタビューが始まるんだと告げている。促されて、いちごうはようやく腰を下ろした。

 こんなに一つの事で興奮気味にはしゃぐいちごうを初めて見た。奏は友達として喜ばしいような、しかし製作者としては親離れ子離れを疑似体験させられるような心持ちもあって、どことなく寂しい気持ちがした。

 まだ少しあどけなさの残る前髪の奥で、思いは色々複雑に絡み合い回転しては去来する、暑い夏の夕暮れだった。



 いちごうが冴えない顔で奏の元へやって来たのは、奏が研究所のパソコンで人工知能に関するロボット工学の論文をまとめている時だった。彼は将来に向けて、いちごうの日々の成長から得た詳細なデータを収集、分析しては、こうして保管している。

「どうしたの、元気ないね」

 俯いたいちごうの姿というのは珍しく、奏はキーボードを叩く手を止めて彼と向き合った。いちごうは思い詰めた若者がガラス瓶の底を覘いて戸惑うような顔を持ち上げた。

「奏、最近充電が美味しくないの」
「―え」


第十三回に続くー



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「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

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