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短編「小窓劇場」


 食事の度に上の歯の隙間に物が挟まって不可無いので、とうとう歯医者へ行く事にした。最初の予約をするまでは唯々億劫であったが、日取りが決まると少し安堵し、いざ通い始めると問答無用と半ば散歩の気分で外へ出掛けられるのが、案外に心地好いと感じるようになった。歯医者迄は歩いて十分もかからない。
 診察室へ呼ばれた私は、手当たり次第に歯科助手へ挨拶しながら診療椅子へ身を預ける。病院何てもの自体が久し振りで挙動不審な私を、にこやかに、と云ってマスク越しだけれども、こんな四十のおじさんをにこやかに迎えてくれるこの歯医者が、初めて足を踏み入れた日、オアシスに見えた。何しろ新しく開院して間もない為に、壁も真白で清潔感溢れる。静かで、高い所に小窓も多く、空が見え、柔らかな光が差し込む。

 隙間の他に昔治療した箇所等幾つかに虫歯ができており、私は暫く通う事に決まっている。今日はその隙間を埋める前に悪い処を削って仮の蓋をするとかで、私は先程麻酔を打ち込まれ、診療椅子で効き目が表れるの待っている処である。紙製の青い簡易エプロン着けられて、手持ち無沙汰にぽつんと一人待つ私は、傍目に滑稽でないかしらと妙に背中がむずむずする。けれども、穏やかに効いた暖房の所為か、ただ身を横たえて凝としている私は、実際大人しい着ぐるみの様だろうと思う。別に、可愛らしさを狙って等いない。それはあまりに気狂いであろう。私の想像する着ぐるみは中におじさんが入っている見た目の大したことない変な方の積りである。
 それはどうでも構わないとして、今私が座っている診療椅子の目の前には小窓が或って、車一台通ると道を塞ぐような細い通りが良く見える。窓の性質から云って、通りから私は見えないだろうと予想し、私はその通りへ暫し観察の目を向けてみた。真っ先に上手(かみて)から姿見せたのは、クロネコヤマトの配達車だ。わが家も頻繁に世話になっている。どう云う訳かヤマトの車見て一番に脳裏を過ぎったのはジブリの耳をすませばと云う映画のワンシーンであった。確かに出て来るのだ。おじさんは此処へ来るとどうも少しメルヘンな気を起こす様である。社会にどん引かれる前に唯のおじさんに戻りたく思う。と私が自省していると、先刻の配達車を転がしていたであろうヤマトの制服身に着けた若者が、下手(しもて)から上手へ向かって走り抜けて行った。手に何か持っているようにも見えたが、分からない。荷物では無いようだった。伝票かしら。私が暇に任せて想像する間に、また制服が小走りで下手へと駆け抜けて行く。何はともあれ働いているのだ、頑張れよ若いの。因みに私もこの後出社する身である。働く男の一人である。それはどうでも良いとして、続いて道に現れたのはお婆さんであった。下手から、上手へ。手ぶらである。上手の先にはスーパーがあるけれど、手ぶらと云う事は、散歩かな。ハンドバックさえ持っていないようだ。お婆さんは前を向いて、ぼちぼち歩いて行った。

 私は此処で診察室の左右を軽く見回した。忘れられているわけじゃないですよねと、少し確認の積りで、しかし傍に誰も居ないようなので又前を向いた。若い女性の多い診察室だからと、燥いでいる等と思われては困る。私はただ治療に通うだけである。
 さて次はどちらから何者が現れるだろうと待ち受ける。折角だから少し予想でも立ててみようと思い付く。今上手、下手と順に来た。あ、でも制服が走り抜けたの勘定に入れるなら上手、下手、下手だ。其れなら次は上手だろう。さあどうだ、だれか歩いて来ないかしら。要するに私は暇なのである。麻酔はもう効いている気がするけれど、どうやら今日は歯医者が繁盛しているらしい。と、視界に一人の姿を捉えた。
 下手から、お爺さんが一人である。成程日常と演劇とは遜色ないようである。私は尽く々々思うのだが、何故あの位のお爺さんになると、皆一様に出で立ちが揃うのだろう。野球帽に、少し草臥れた印象のジャンパー。歩きやすそうな靴。極めつけが、後ろ手である。もしこの出で立ちの石像を建てたとしたら、「あ、私だ」と建立を喜ぶお爺さんが百万人はこの国に居るのではなかろうかと思う。世界が平和であるならば、私はそれでも構わないが。

「もう少しで先生いらっしゃいますからね」
「あ、はい」
 突然背後から若い声が降って来て、私は慌てて首を起こした。そうだった、今私は歯を治療中の身であるのだった。ここは診察室、ここは診察室。私はだらけ気味の体に活を入れて診療椅子の上で姿勢を正した。
 また外を眺める。この劇は案外飽きさせない。間もなく上手から、今度は中年と見受けられる女性が足早に歩いて来る。手には紐が握られ、足元まで伸びている。紐の先には小さな四つ足動物である。白っぽい毛並みに隠れて犬種はよく分からない。私は犬に詳しくないので、チワワかブルドックでないか位の大まかな区別しかつかない。あの犬の品種は知らないけれど、兎に角小さいこと極まりない。あんなに低い目線で世界はどう映るのだろうか。四本足で精一杯、あれで走っている積りなのだろうか。面白いと思う。
「お待たせしました。それじゃ削っていきますね」
「あ、よろしくお願いします」
「はい、では椅子を倒します」
 私はされるがままに身を預け、大人しく口を開けた。
 

本日の劇はこれにて終幕である。

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