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「KIGEN」第五十七回



         七章 「御機嫌斜め」

 基源きげんは定期検査の為にかなたと共にJAXAの研究所を訪れていた。もう遠回りの必要もなくなったので垣内部屋から直接、JAXAe-syジャクサイージーのチームが運転する迎えの車に乗り込んで行く。システムメンテナンスは奏が主体となってチームが行うが、身体検査と健康診断などは医学的知識を必要とする為、以前いちごうを隈なく調べた医師の元で行った。


 研究所の一室でイスに座り、奏の診断待ちの基源である。回路の末端まで調べ尽くす為、基源のデータをそのまま奏のメインコンピューターへ広げて解析する。但し悪質なソフトやウイルスへの感染で共倒れとならない様スキャンにかけられてから展開する。人工知能と基源のプログラム、それと基源自身が蓄積したデータバンクを検査するだけならば、基源という実体は研究所へ足を運ぶ必要がないのだが、彼の内部へ残すチタンの点検も行わなければならない。電子化が進んだ現代においては実体の有無が検査にかける時間やコストの面でも差をつける。だが奏は織り込み済みで今の形を選んだ。奏は有機物質をナノレベル以下にまで分解して電子信号のみで修復、改善させる研究にも変わらず熱意を注いでおり、実現に向けて研究を続けていた。

 さっきから大人しく奏の働く様子を観察している基源だが、その見た目はもう人類の一人だ。土俵上でまわし姿になっても手術の傷が目立たないのは、あの医者の手腕に依るところが大きい。奏がふうと息を吐き出した。

「システムメンテナンス完了。異常なし」
「えーほんとに?」
「AIいちごう君の仕込んだ粒ウイルスはこちらで始末しました」
「なんだ、バレたか」
「変な事しないの。質の悪いウイルスだったらどうするの。人工知能に修復不能な傷が付いたら手遅れになるかもしれないよ」
「だから訓練だよ。こうして故意に最新タイプの模擬ウイルスを取り込んでエラーを起こして、日頃から奏の腕を磨いておかないと、AI開発競争は激化する一方だし、小さな綻びから世界は壊滅するものだから」
 デジタル社会を飛び出して、いきなり地球を俯瞰したような事を言う。
「それは・・そうだけど」
「大丈夫、いざとなれば私のAIを奏のメインコンピューターへ移して一緒に戦えばいい。そうすれば最強コンビの誕生、あっと言う間に解決だよ」
「過信は禁物だよ」
「わかってるよ。でも私は奏の腕を信じているからね、いつでも大丈夫、そう思ってる」

 全身全霊で信頼を寄せる。微塵も疑う様子がない。言葉で、行動でそれを示せる基源が奏は羨ましい。それは同時に自分自身を信じているからだと思うのだ。自信。矜持。もっと経験を積めば、自分にも少し位持てるだろうか。そんな風に考えながら、奏はありがとうと答えた。


 基源が一度坊主にした頭を入門後、今度は関取に向けて伸ばしている。髪が生えるのは嬉しいが、頭皮がむずむずするのがまだ慣れないと密かにくすぐったい悩みを抱えている。毎朝鏡を覗いて伸び具合をチェックしてみるが変化に乏しくていまいち実感が湧かない。試しに引っ張ると痛い。抜けるとまずいと思って慌てて撫で付ける。これを洗面所でやると他の弟子たちに笑われるか怒られるかするから、百円均一ショップで初めて自分の鏡を買ってみた。台座付きで、鏡面がくるくる回るやつだ。そこへ顔を近付けて、同じ日ドラッグストアで買った育毛剤を頭のてっぺんから降り掛けてみる。透明な液体で、使うとつんと鼻に来る。個人差があると書いてあるが自分は目に沁みると基源はティッシュを抜き取って目尻に充てる。こんな事で本当に成果が出るんだろうか。人間の体というものは、放っておいても腹は減るし、眠たくなるし、望んでなくても指先では爪が伸びたり、鼻から毛が伸びたりして、常に気に掛けておかなければならない事が多くて大変な生き物だなと思う。けれどもその反面、たくさん食べれば褒められるし、身なりを整えると清々しい。弟子たちと他愛ない話で笑い合うと部屋の中がぱっと明るくなって女将さんが嬉しそうだ。みんなが知らない知識を説明すれば感心される。自分の中に心の存在を意識した時から、そんな日々の出来事を感情というカテゴリで区別できるようになって、とくに嬉しい気持ち、幸せな気持ち、照れ臭い気持ちの時は自分の事も周りのみんなの事も好きだなと思った。


「ああ!こら基源、また髪の毛弄ってたのか、禿げるぞ」
「ええ!これ育毛剤なのに・・髪を育てるやつなのに、禿げるんですか?!」
「何でも気にし過ぎるのは良くないんだよ。ありのままでいんだって。気付いたらちゃんと生えてるじゃん、みたいなのがいいの」
「なるほど。勉強になります。兄さんありがとうございます!」
「狛井兄さんたちが戻ってくる前に早く片付けておくんだぞ。あー、窓開けておくか」
「やっぱり臭いきついですか」
「うん・・臭くはないけど、つんと来る」

 兄弟子は鼻を抓んで窓をからから開け放った。結局洗面所でやらなくても大勢で共同生活をしている彼等にプライベートはないに等しい。お互いの癖も苦手も得意も妙な日課も、全て曝け出して暮らしていくしかないのだ。それでも力士になりたくて、相撲道を志して集まって来た者同士であるから、喜びも悲しみも分かち合って暮らす中で、いつしか根底で繋がることができる。相撲部屋とは、一蓮托生な空間なのだ。


第五十八回に続くー


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