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読み切りよりみち「ご飯を食べに行きましょう・中編」

※長編小説シリーズ「よりみち」の番外編です。長編でじっくり描く二人の関係性を凝縮したような読み切りです。
時系列で云いますと「よりみち・二」の後、秋のお話になります。「よりみちシリーズ」を読んでいなくてもお楽しみ頂ける内容となっております。
全編どなた様にもお読み頂けます。


   読み切りよりみち「ご飯を食べに行きましょう」(中編)


 扉を引くと、ぐに細くこじんまりとした通路である。出入りの音に気が付いて、出迎えに人のやって来る。先を歩くりか子を見て、互いに親しみの籠った挨拶を交わしている。りか子は相手を女将さんと呼んだ。そして和やかな視線はそのまま後ろの真瑠へも注がれた。
「今晩は。いらっしゃいませ」
 女将さんは着物であった。久しく和装を目にする機会の無かった真瑠は、そのしとやかな線を描きながらも凛とした佇まいを崩さぬ、色味といい、柄といい、品よく纏められた装いに多少面喰いながら、ぺこんとお辞儀付きの挨拶を持ち出した。振り向かないりか子の背中が笑っていると思う。

 店に入って黒い板敷き踏み締めて数歩で、もうカウンターが広がっていた。椅子は全部で六脚。座面に明るい茶を使った木製である。カウンターは厚い木の板一枚で出来上がっている。おそらく特注だろう。華美な装飾を用いらず、気前よく見事に渡してある。そこへ今夜の客の人数分の盆と箸が整えられて、一番端と、間隔を置いてもう一つ、二つの花器へ花が活けてある。花器も木製で、一見するとどこへどうして水が入ったものか判然しない。花は菊と、もう一方はトルコキキョウが活けてあった。これにも品がある。カウンターの背後は一面壁で、額などは何も無い。アイボリーの優しい色味が、木の香りに溢れた店の中で調和と規律を保っている。

 微かに酢飯の香りがする。真瑠の胸は早くも高鳴る。初っ端に持ち出した緊張一息に解れて、早々平常な真瑠が現わされた。りか子に促されて、真瑠がカウンターの一番右端へ、りか子がその左隣へ座った。自宅のダイニングキッチンで座るのと同じ並びであるのは、りか子の心遣いだろうと思う。店内には女将さんともう一人、着物の女性が世話してくれるらしく、手荷物や上着を気に掛け、草履を心地好く鳴らしている。真瑠は周囲を眺め回しては、ほうと息を吐く。カウンターの内側にはこれから始まるコース料理の種がちらりちらり、まるで隠すように置かれて在って、好奇心をくすぐられる。寿司桶は何処だろうと思いつつ、カウンター内でも存在感を放つ、竹だか木の皮で編んだ丸い大きな器の中かしらと見当を付けてみる。隣には四角の陶製の器が二つ在って、二つ共にガリが入っている。謎の木箱もある。他に刷毛の立った小壺がずらり並ぶ。瞳が全然飽きない。心と手を取り体を置き去りに好き勝手している。其処に真瑠を引き戻す声が掛かる。

「何飲もうかしら」
 りか子の声で帰還した真瑠は、一杯目は彼女に合わせようかと迷いながら、ドリンクメニューの中へ見慣れぬ黒豆茶なるものを見つけて、結局そちらを選んだ。
「今日は飲まないの?」
 途端に隣で少し寂しそうである。何だか飲まないとは答え難い気配である。真瑠は思わずそうでもありませんと答えた。答えながら和食に何を合わせて飲むのか、咄嗟に思い付かずにいた。りか子の最初は麦酒ビールであった。二人の飲み物を用意する間に、カウンターの奥に掛かる暖簾の向こうから、白帽を目深に被り、真白の割烹着と前掛け姿の男性が現れた。りか子は手際よく挨拶持ち出して、真瑠に大将よと紹介した。真瑠もりか子に倣って挨拶を持ち出す。和食の大将と云えば、もっと厳めしいものかと思い込んでいたけれど、大将はカウンター越しの二人へ随分人懐こい笑顔を見せて、律儀な礼を持ってよろしくお願いしますと挨拶した。真瑠は立ち上がってこちらも律儀を持ち出したい程であった。すっかり恐縮の態で太腿へ降ろした両手を組んだり解いたりしていると、りか子が肩を寄せてきて、
「女将さんと大将は御夫婦でいらっしゃるのよ」と耳打ちした。
 真瑠は思わず睫毛持ち上げた。
「そうなんですか。へえ」
 と凡人な感想零した。あんまり平易であったので一旦目を逸らして痒くも無い頬をかいた。世間では誤魔化しに軒並み頬をかくのが流行る。後頭部でも鼻っ柱でも良い。取り敢えずかいておく。かいてさえ居れば後は社会の方で片付けてくれる。処へ飲み物が運ばれて、乾杯となる。今度も無事社会の方で片付けてくれた模様である。二人の席が始まると、大将も活発に動きだした。愈々いよいよ料理の始まるらしい。

 カウンターの上、左手には一人ずつへ細長く切った紙製の献立があって、上から順に、品よく文字が連なっている。沢山である。真瑠の期待の数も同じ丈積み上げられる。献立を読む限りでは、寿司屋とも和食屋とも判断が付かない。コース仕立てであるのは判然はっきりしている。真瑠は細長い紙を手に取って、上から料理の名を眺めてみる。判読できない漢字も混じっているが、食いしん坊の胃袋を刺激して止まない。その中におはぎ、最中などの本来和菓子が戴いている名が、料理や食材と同居しているのが興味深く、又面白いと感じた。全体どんな料理が出て来るのか、想像もつかない。真瑠の瞳が遠慮なくきらんと粒零す。それがりか子に嬉しい。
「面白いでしょう」
「ええ、全く想像が付きません」
「これ全部、今から目の前で完成しては出て来るのよ」
「楽しみです」

 率直にそう云って、先刻からカウンターの内側で、何やら刃の擦れる音と、固い物のぶつかる音の連続して聞こえて来る正体を知りたく、てきぱき手を動かす大将の手元へ視線を伸ばした。例の謎の木箱である。大将は左手に軍手を嵌めている。一定のリズムを持って動かされ、ゴゴゴゴ、と削れる鈍い音へ続いて、かつん、かつんと鳴るのはそれが木製であるからだ。一頻り終えて木箱からかぽんと外されたのはカンナであった。そうして手に握るのは赤とも黒とも言い分けが付かない鰹節であった。成程何でも目の前で披露されるらしいと納得する。削り立ての鰹節等人生で初めてである。献立の文字を追って一番目の中に在る勝男節とはこれだなと結びついた。酢飯の御櫃おひつがちらっと開いたらしい。大将だけが出来栄えを独り占めしている。店の中へはふわり酢の香りが広がる。真瑠も一緒に覗いてみたかった。
「それでは、始めさせて頂きます。よろしくお願いします」
 大将の挨拶で、愈々料理が始まった。不意を突かれて真瑠はカウンター越しに深々お辞儀した。

 花弁茸はなびらたけや鱚の一夜干しが例の鰹節を被せたお浸しで先陣を切る。十日間寝かせた鯛。本鮪の上にはサマートリュフがふんだんに掛けられた。雲丹、鮑、と贅を尽くす食材が惜しみなく披露されていくのだが、驚くのは一品ごとの掛け合わせである。鶉玉子や紫茄子、青紫蘇、浅月、オリーブオイルと云った食材と次々マリアージュされて、それが一口サイズに纏まっては目の前に出されてゆく。器への盛り付けといい、目の前に置かれた瞬間に広がる香りといい、味わう前から魅せられている。美しい盛り付けに魅了されながら、真瑠は不意に既視感を抱いた。何処で味わったかと思えば、最前の夏の夜、二人して広げた料理雑誌であった。写真の料理は上品で、とても真似できない職人技であった。あの時は憧憬しょうけいの眼差し注ぐしか出来なかったわけだが、今晩は己の舌で味わっている。夢が一つ叶っているのだ。これは運命か、必然か、はたまた彼女の策略か、全体どれが正解だろうと考える。ちらり視線を隣へ運ぶと、たちまちりか子が顔上げた。瞳でどうかしたと問うてくる。あまりに機敏で反対にまごついた。真瑠の思案したものは己の海に霧散して、後には単調な真瑠のみが残る。ううんと首を振って、皿の隅へちょこんと載せてくれたガリへ箸を伸ばし、続けて黒豆茶を両手で抱えて少し飲んだ。りか子はその間じっと瞳を注いでいた。黒目の輝きの内の半分は隣の動揺を面白がって、残りの半分は探偵している。真瑠が今、何を思い、どんな海を漂うか、想像してみて、想像したものを隣と並べて、当たりか、外れか、また探偵している。愉快であった。乾杯の麦酒は瞬く間に日本酒へ変わり、りか子は先刻からお猪口をぐいぐい呷っている。日本酒のセレクトは女将さんにお任せで、一合空けると次に行くらしい。真瑠は日本酒を知らない。だが一緒にお猪口を傾けるのもいいなあと楽しい想像をした。
「自分も飲んでみようかな」
 そう云ってりか子の手元へ目を置くと、りか子はにこり笑って、女将さんへお猪口を一つ頼んでくれた。

 次に出された最中は店の定番らしい。最中と云っても中はあんこではなく、フォアグラであった。マンゴーと同居している。先ず鼻へ近付けて最中の香りに感心する。一口でと勧められ、真瑠も思い切って一口で口の中へ放り込んだ。嘗て味わった試しのない食感と味わいが下の上へ解ける様に広がって、後からきゅっと塩の味がする。複雑に見えて順にやって来る味わいの妙は、まさに本職の手腕であった。
「美味しいですね」
 大将とりか子と女将さんとへ云いたくて、宙を彷徨う視線を慣れたりか子が引き取った。
「本当に。いつまでも噛み締めてしまうわね」

 真瑠はうんと頷いて、これが幾つもトレーに並べられてスーパー等で売られでもしたらいいのになあと、値段も鑑みないで夢を見た。夢の続きは未だ目の前に広がっている。いつの間にかカウンターの奥で身の大振りな甘海老が整列している。そして、エメラルドだ。
 甘海老は手毬寿司になった。海老味噌をちょんと塗られ、仕上げに乗るのはエメラルドグリーン色した卵であった。透き通る程に美しく、今にも踊り出しそうな活きの良さだ。胃へ落ちるのが勿体無い気がするが、口へ運ばねば味わえない。また一口で頬張って、噛み締めた途端に幸せだった。思わず二人して顔見合わせた。りか子は酒が進むわと云って段々大いに飲み始める。折良く子持ち昆布だの鯖のへしこだのが出される。盆の端へこの皿を寄せて於いて、ちびりちびり味わいたい逸品であった。

 五十八度と低温調理された鱈の白子に続いて皮を炙った鰤が出た。季節は今からだが、大将曰く、良い鰤が入ったから献立に組み込んだらしい。締まった身が淡いピンクから水晶のように透き通る白へとグラデーションされて大変に美しい。辛味大根を巻いて、箸で口へ運ぶ。途端に舌の上で旨味が解けた。よく知る鰤とは全く違う魚としか思えない。どんな海を泳ぎ渡って来ただろうと、真瑠は荒々しい海流に束の間身を投じてみた。

 お猪口のペースはゆったりの真瑠だが、黒豆茶を飲み終えて、ドリンクメニューを手元で広げて見始めた。
「あ、山崎が或る」
「あら、あなた山崎を知ってるの」
「ええ、ずっと昔に、御馳走して貰った事があります」
 たった今その名を目にする迄、全く脳の片隅にさえ同居させていなかった、記憶のすとんと抜け落ちてしまっていた物を、ウイスキーの名前を瞳に入れた途端、出来事の一切を眼前へありありと思い出した。りか子は訳を聞きたがった。

 遠い記憶の真瑠は、社会の中へ不器用な身を曝して、生活の為、自分が生きて行く為に汲々きゅうきゅうとして働いていた。成人を迎えて間もない頃であった。そう云う社会の道の片隅で、嘗て高校を出立てで一旦は就職した会社の上司にばったり出くわした。声をかけられなければ真瑠の側は気が付かなかった。短い会社員期間の中で、真瑠が心に遺した物も人も、殆ど皆無であったからだ。だが向こうは真瑠を憶えていた。不器用に受け答えて早々立ち去ろうかと及び腰の真瑠へご飯を御馳走したいと云い出した。真瑠には元上司の思考が謎であった。道理もさっぱり理解出来なかった。ご飯は辞退の上この場を退散したくて堪らなかった。だが元上司は部下であった当時何も役に立てなかったから、せめて今晩一つ挽回させてくれと押してくる。挽回して貰わねばならない点は存在しないと真瑠の側は思うのだが、そう主張出来る様な人間であればそもそも平然と世間を渡り歩いている筈であった。

 押し切られて、とうとう赤レンガの壁が印象的な一軒の店の敷居を跨いだ。洋食屋であった。好きなものを頼んでくれと云われて愈々首傾げた。そう気前よく事を運んで行けない真瑠である。元上司はコースにしようと持ち掛けて、どうにか真瑠の戸惑いを引き取った。テーブル席に向かい合って座り、凡そ二時間余り、次から次と運ばれてくるサラダだの、蒸し鶏だの舌を噛みそうな名前のパスタなどを食した。何を話したかの印象はない。ただ、案外話しやすかった元上司に勧められて一杯だけ飲んだハイボールが、人生で初めてお酒を美味いと思った味がした。それが山崎だった。
「――美味しいですね」
「だろう。このウイスキー、今じゃ珍しいんだよ」
 と云う会話をしたことだけを、たった今、額の上へ思い出した。

「それだけですが」
「ふうん」
 りか子は目尻を短くして斜めから真瑠を見ている。ふうんとは何だろうと、真瑠は隣へ顔向けた。瞳が合っても、りか子はそれ以上は云う積りがないらしい。カウンターの上へ肘から両腕を乗せて、尚真瑠の顔を観察している。乞われるままに全て打ち明けてしまった真瑠は、これ以上話すネタを持ち合わせないので、唇に疑問を乗せてりか子の動き出すのを待っていた。

 りか子にはその元上司の思惑が分かる。然し当時の真瑠には伝わらなかったのだ。それだけの話であって、同情もできない。最も、伝えきりたい程の熱があったのなら、どうにかして伝えていただろう。そうはならなかったのは、結局熱意が足りないのだ。この、人一倍憶病な癖、天然自然を真っ正直から歩く生き物には、並みの努力では色恋など通じない。惜しいことしたわね。りか子は顔も名前も知らぬ元上司とやらに最後に僅かばかり同情して、現在へ帰って来た。
「久し振りに、飲んでみる?」
「うん、飲む」
 はにかむ頬に思わず指が伸ばされた。四指の外側で撫で付けると、触れた処から熱を持った。りか子は手を離すと、女将さんへハイボールを頼んで遣った。そうして一度席を立った。

 りか子がカウンターを離れている隙に、真瑠は女将さんと少し仲良くなった。りか子の席へ戻った時は丁度会話の止んだ時で、真瑠がどうして笑っているのか、女将さんがどうして笑っているか、全く分からなかった。真瑠はお帰りなさいと椅子を引いてくれたが、笑顔の訳は云わなかった。

(中編おわり)

読み切りよりみち「ご飯を食べに行きましょう」(後編)に続くー





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