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読切りよりみち「僕はこの時、この人の普段の顔が見てみたいと思いました」

※長編小説「よりみち」シリーズの番外編です。時系列は「よりみち」と同時期になります。

「僕はこの時、この人の普段の顔が見てみたいと思いました」

 この際だから、彼の正直を持ち出すとしよう。
 彼は当時の仕事に何の不満も抱いていなかった。元々特筆した長所もなければ社会的地位も欲していない彼は、月々の仕事への対価がそれなり口座へ振り込まれて、休日には会社から解放され自分の時間を謳歌できるのであれば、仕事の中身には大した執着も持ち得なかったからだ。にも拘わらず、大学を卒業時に、就職活動で人並みに骨折った挙句入った職場から、僅か一年足らずで、自分の時間を割いてでも転職という活動を自ら進んで起こしたのは、或る男が、その男の歳が彼の二個上であったのは転職してから知ったものだけれど、偶々居合わせた街の珈琲屋で、随分陽気な顔でキャラメルフラペチーノのそれもグランデサイズを注文したからであった。

 と、これが先ず一番始めのきっかけであって、それが実際運動へと断然動かされたのは、どうせ働くなら美人社長の下で働ける方が楽しそうだと云う下心に他ならなかった。
 珈琲屋のレジで財布を取り出したのはその男では無かった。男が、
「頭を使った後は甘い物が飲みたくなるんです」
 と云って屈託なさげに笑みを向けた隣の女性の方であった。その女性の方が年上であるのは一目で観察できた。そして男と女性の他にもう一人若い女性も一緒であった。三者の会計を纏めて済ませたのが一番年上の女性であった。そして商品を受け取った男は年長者へ向かって一度だけ「社長」と云う言葉を使った。三者は首にお揃いの赤い紐をぶら下げていて、その内女性二人は紐の先をジャケットのポケットへ仕舞い込み、男だけは胸元へ揺らしたままであった。隠すのを嫌がるようでもあった。三人はやがて一斉に自動ドアを抜け、通りを歩く最中も親し気に会話を重ねながら去っていった。ドアの完全に閉まる前に、年上の女性が男に向かって、
「あなた折角長身なのに猫背なのね―」と注意するのが彼の耳に聞こえて来た。

 彼は己の連なる列の順番がまだ先であるのを言い訳に、遠慮なく三者の言葉と振る舞いと立ち位置とを観察する事へ没頭した。そうして、男が首からぶら下げていた会社の証に印字された文字をしかと自分の脳裏へ焼き付けて澄ましていた。

 ドリップコーヒーのショートサイズを一人掛けのカウンター席へ運び終えて後、彼はスマートフォンを取り出して、早速脳裏に焼き付けた会社名を検索にかけた。甘党の男が社長と呼んだ女性は、長い黒髪を綺麗に纏め上げて、身なりへ相当気を遣う人種であるのは明らかであった。後ろへも目が或ると揶揄されるのは恐らくこう云う種類の人間を指すだろうと彼は思った。自分へ対して気を緩めるを全く許さないような、張り詰めた空気を常に背負っているとも受け取れた。そして、長い黒髪の似合う人間は脚色された二次元世界にしか存在し得ないものと、彼は今の今まで思い込んで生きて来たもので、どうやらそうばかりではないらしいと、人生で初めて思わされた記念日でもあった。


 彼は比較的自由な一人暮らしの所有者であった。彼の住まうマンションには、休日の度に足繫く通って来る付き合って二年の彼女が在った。その関係は当初から周囲が驚く程に良好で、余りに波立たぬ故一度か二度ばかり反対に津波を起こしたいような衝動も彼の側は起こし掛けたのだけれど、其処までのうねりを大きく発展させるだけの物語の創作と、その物語の登場人物になるだけのエネルギーを押し出すのが面倒で、実際には彼の頭の中で、劇が一幕ばかり開演されたのみであった。そう云う訳だから、彼が転職の話を持ち出した時も、彼女との会話は始終穏やかに取り交わされた。彼女は励ましの言葉も素直に持ち出して、彼の決断を緩やかに後押しした。果たして全てが彼の予想通りであった。彼は満足な様子で彼女の励ましを素直に受け取った。会社の中身も、その会社の社長が女性である事も全て隠さず曝け出した。唯一つ、黒髪への印象を改めた事だけを彼女の前へ打ち明けなかった。彼の彼女は、長くはない黒髪の持ち主であった。


 打ち明けなかったのは、彼の心の内に矢張り二人の間に波の起こるのが面倒だと云う気持ちが大きく作用するからであった。けれども彼は、秘密を抱えているとは思わなかった。彼女へ対して済まないとも思わなかった。それは彼の愛の対象が、真実目の前の彼女へしか向いていないからであった。いくら現実に美しい対象を認めたとしても、実際に強い興味を惹かれたとしても、イコール己の愛の対象になり得るかと云えばそんなことは無かったからである。彼はそこまで不誠実な人間でも無かったし、どちらかと云えばこのまま二人の未来を順調に描き切って、一つ屋根の下へめでたく収まりたいと云う願望さえ持っていた。畢竟彼女への思い遣りが、彼の黒髪云々の新発見を黙らせたのであった。


 求人募集がなされていた訳では無かったが、彼は誠実な態度で会社へ己の希望を並べてみせた。突き詰めれば根底にどうせ働くなら―等という邪念も、もはや純粋無垢な人間でも無かったから在ると認めて良かったけれども、其処を白状するのは本人に向かってと云う事もあるがあんまり愚かな仕業であるし、結局真面目な方の彼が会社に注ぐ好奇心と意気込みとが女社長に伝わって、結果的に採用される運びとなった。会社自体はそれ程大きくない物の、伸び盛りで多少人手を増やしたく、求人を出すか否か検討している処であったのが、都合よく手を挙げる人間が寄って来た為に、これも一つの縁と捉えられたらしかった。

 彼は入社して直ぐに甘党の男と近付きになった。男が彼の新しい環境へ慣れるべく仕事の教育係を任された為であったが、彼はこれを単純に嬉しく思った。人懐こい笑顔を浮かべる、ワイシャツの袖を捲り上げていつでも快活に働くらしい男は、刈屋と名乗った。話してみれば尚心やすい人柄であるのも実感した。そして社長が言う程の猫背でも無い様に思った。試しに彼が、
「背が余程高いですね」と云うと、目尻に皺を寄せた刈屋は、
「バレーやってたから」と返した。
「そんなに高いと反対に困りませんか」
「うん、困る。それで猫背だったけど、社長に勿体ないって云われたから、また直している処だよ」
「へえ。確かに、姿勢良い方がかっこいいです」
 刈屋は照れたようにはにかんで、袖を更にもう一つ折った。

 彼は、彼にしては思い切った今回の人生の選択と決断を、働き始めて数か月が経った後、遅れて漸く褒めるに至った。いつの間にか稼ぐことよりも、仕事そのものへの興味を十分に持っている自分の存在に気がついて、妙にこそばゆいと思いながらも同時に誇らしいと思った。案外な心持ちで黙々と仕事に集中した彼は、そろそろ会社の中に於いてある程度の余裕を生み出すに成功し、仕事に集中するの外にも、もう一つ密かなるささやかな楽しみを持っていた。

 彼の元々の正直から云わせれば当然の成り行きでもあったが、彼の楽しみは端的に云って社長の観察にあった。と明かされて決して法外な、又悪質な物等では無く、男児が机上で妄想膨らませるような、乙女が枕に両肘載せるような、その実可愛らしい程度のものである。彼は己のデスクに腰を据えては、仕事の合間に、彼等と同じフロアの一角で常に忙しなく動かざるを得ない女社長の動向を観察していた。社長は相変わらず、全然隙の無い人間であった。後ろ処か前後左右死角無く見渡す広い瞳を持っている。自身の立派なデスクに大人しく腰を据える時間を中々作ろうとしない、恐ろしく活動家であった。けれども就業時間と休日の曖昧なのは許さない人であった。社員へも自分自身へもメリハリを大切にさせたい人であった。そして、初めて街の珈琲屋で推察した通り、潔癖と呼んで差し支えない奇麗好きで、毎日の掃除は勿論のこと、自分の物だけでなく社員全体の整理整頓にも厳しい人であった。おかげで彼もすっかりデスク周りの整理整頓が上達して、今では自宅にもその片付け習慣が浸透しつつあった。そして彼のこの変化を誰よりも喜んだのは、来年とうとう生涯を共にする意を誓い合った彼女であった。

 そう彼は人生に於いて山と谷とがあるのなら、若くして既に頂上へ登り詰めつつあるものかと自分の目にも他者の目にも映る程順調に、日々を充足の内に終える生活を送ることが叶っていた。こうまで思い通りに駒が進むと、反対に彼は不安であった。だが満たされる日々は何も彼一人が齎したわけでなく、例えば隣を歩く彼女が、或いは人生の指針を定めた先の会社の中で出会った、志を同じくする社員の連中とが、彼に対して望外に齎してくれた産物であった。それで彼は、確かに不安を抱きもしたが、どちらかというと如何なる山であろうとも谷であろうとも越えるだけの気概と勇気を胸に抱く気持ちの方が強かった為、現在にも未来にも漠然とではあるがありのまま幸せを感じる事が出来た。

 己の心持ちが幸せに満ち溢れた彼であったので、他人の幸せにも敏感に反応することが可能であったと云えた。それが彼を入社から数カ月を経て、未だ社長への興味を下火にさせる処か寧ろ積極性を増して観察させる所以である。

 彼は観察の中で、自分の入社当時と比べても、社長の気配が明らかに解れていると感じていた。当時、会社の中からこの社長を眺めることが可能になってみて、予想以上に自分を律する態度と行動とに、彼は幾度も驚かされる事になった。それは単純に人の上に立つ者の責任から来る物か、或いは彼女の性質から来る物か、或いはもっと他に彼の知る由もない深い事情が在っての事か、彼には判断が付けられなかったが、それにしても実直に過ぎるのではないかと、感心するよりも呆然とした程であった。ところが日を追うごとに、ただ張り詰めるばかりの弦が人の手に拠って少しずつ緩められ、まるで周囲と調和するべく調律されるかのように、社長の全身に纏う厳しい気配は、ただ厳しいのでなく、凛とした背筋を残したまま、何かしらの優しさが滲むようになったのだ。この変化は最早彼一人の感想ではなく、社員が等しく抱く安心であった。腕捲りの刈屋は彼に向かって「星乃が入った御蔭じゃないか」と調戯(からか)った。彼、つまり星乃はこれには苦笑いを浮かべた。若い女性社員は私生活の充実を予想した。星乃も実はプライベートの方面に想像を膨らませたが、あんまり不躾なので大概そうだろうで止めにしたのである。勤続の長い社員は何にも言わなかった。ただ社員間の安心だけを共有する積りらしかった。


 ある梅雨の日、オフィスの外は昼間でも墨を落としたような空模様でどんよりいつまでも暗かったが、フロアには天気と関わりなく灯りが煌々と、彼等の頭の天辺と綺麗に片付いたデスクとを照らしていた。星乃はパソコンを使う手を時々休めながら、例によって女社長の働きぶりを眺めていた。社長のデスクの上にはプライベートも含まれたスマートフォンが置いて在るが、就業中は外出の社員や取引先からも連絡が寄越されるため、時々視線を運ぶのが常であり、この時も画面が点灯したらしく、目線はスマートフォンへ落とされた。一度見て、手に取って、睫毛を微かに動かして、タップした。その瞬間、星乃は眼を瞠った。

 澄ました顔を崩さないか、頬を緩めても仕事向きの笑顔しか見せない女社長が、この時有り得ない程に優しく笑みを浮かべたのだ。ここが日々活動家の集まる忙しないオフィスだと、瞬く間に忘れるような、梅雨のじめじめとした鬱陶しい湿度も吹き飛ばすような、辺りを和ませる、あまりに自然な笑みであった。それも一瞬だけの仕草であった。他人の私生活を探偵するような真似はしたくないと思いつつ、それにしても鉄壁なあの社長を、あそこまで柔らかく笑わせられるのは一体何者だろうと、星乃は俄然注意深く瞳を社長へ注いだ。然し手早くスマートフォンを操作した社長は、あっさりそれをデスクの上へ手放して、素早く仕事へ戻ってしまった。もう頬にも口角にも先程の柔らかさは残されていない。星乃は相手が尚の事気になった。もしプライベートの方面からのものだとして、それなら男か女か、それともアニメか、俳優等という場合も考えられると思う。彼の彼女もスマートフォンでアニメ情報や贔屓俳優のスキャンダルに一喜一憂する可愛らしい一面を持っている為、社長も或いは配信ニュースの一文でも目に留まった可能性があると考えた。だがどれも彼の想像の域を出ない。席を立って社長の元へ押し掛けて、
「今会社では見せない笑顔を無意識のうちに曝していらっしゃいましたが、何を目にされたんですか」
 とまさか真正面から質問する勇気など到底ない。

 星乃は一旦それ以上の追究を諦めて、また己の仕事へ手を戻した。それから半ば意識的に、もう一度あの顔と出くわす機会はないものかと心密かに、大いに期待して観察するものの、やはり社長は一筋縄ではいかなかった。


 気が付けば彼が入社して半年以上が経っていた。長い夏の連日の猛暑を越えて、近頃漸くスーツジャケットの内側が快適さを取り戻して来た処である。星乃の努力は今頃になってもまだ報われないまま、彼の頭の上へ大きな疑問符を浮かべさしていた。彼もいい加減に詰まらぬ執着は止して、その分頭を彼女との式場探しやら新居の方へ持って行く方がよかろうと思い始めていた。

 そう云う秋晴れの在る日、社長が大きな手提げ袋を両手に出社してきた。早速刈屋が手伝って、社長のデスク迄運んでいく。社長は礼を述べるなり、袋の中へ手を入れて、食べないかと刈屋に袋の中身を差し出した。真っ赤なりんごであった。刈屋は顔を綻ばせて、好物ですと二つ喜んで受け取った。社長はそのままオフィス内でりんご配りを始めた。
既に自分のデスクで業務を始めていた星乃は、一部始終を目にしながら、それでも大人しく自席で手を動かすよう努めて、ただ耳と意識とは段々彼の方へ近付いてくる社長へ向けない訳にいかなかった。そしてとうとう社長は彼の席の横へやって来た。
「星乃くん」
「はい」
「あなたはりんご、食べないかしら」
 社長の手元へ首傾けると、まだりんごは沢山入っていた。星乃は顔上げると社長と視線を合わせて、随分沢山在りますねと笑った。
「ええ、貰い物なのよ」
 そう云って社長は困ったように、けれども何故か嬉しそうに笑った。星乃はこの瞬間、
「これだ!」と閃くように直感した。社長がたった今頭の中へ思い浮かべている人は、過日のスマートフォンのあの人と同一人物である。社長の心は今まさにその人で満たされているのだ。そうと気が付くと、星乃は直ぐにでも合っていますかと尋ねたくって仕方が無い。だが社長は重たいりんごを持ったまま彼の返事を待ってくれているのだ。星乃はそれと気が付いて慌てて返事を寄越した。
「僕も好きですが、彼女が凄く好きなんです、りんご」
「あらそう。それじゃ少し重いけど、幾つか持って帰るかしら」
「ありがとうございます。頂きます」
 星乃のデスクに並んだりんごは、どれも真ん丸と大きくて真っ赤であった。美味しそうですねと褒めると、社長は産地直送なのよと云ってまた笑った。そうか、この人にもこんな風に心を落ち着けて笑い合える人が傍に居るのだなと思うと、星乃は無性に嬉しくなった。丁寧に礼を述べて、彼は徐に立ち上がると、
「手伝います」
 と云って社長の手からまだ重たいりんごの袋を引き受けた。一緒に後の社員のデスクを回る積りである。社長は素直に礼を述べて、先へ立って歩き始めた。


 後ろ姿を追いながら、星乃は淡々と考えた。もしも自分に彼女から楽しい連絡が届いたら、心溶かしただらしない笑みを零すだろう。そう思うと、社長のは違う系統である。にやにやと云うより、包み込むよな優しい笑顔である。全体社長の向こう側に存在するものとはなんだろう。社長の傍に居るのは、一体どんな人なのだろう。星乃の謎解きは、まだまだ終わりそうもないのであった。

 彼はこの時ほど、この人の普段の顔が見てみたいと思った事はなかった。

                         おしまい


※読み切りよりみちは以下の作品もございます。


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