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短編「乙女と春の桜餅・SIDE乙女」


 初めまして。私はこの春から高校生になります、全国津々浦々、東西南北たくさんの新入生の内の一人なのです。新しいブレザーに、紺のチェックのプリーツスカート、それから長い憧れの紺色靴下と、胸元を正す一年生のリボンは赤色です。なんと素敵なお洋服でしょうか。麗しいセーラー服とお別れするのは、幾ばくかの寂寥感を伴う儀式のようでしたが、後輩と先生方々に盛大に送り出して頂いたことですし、いつまでも後ろを向いては居られません。私はうんと顔を持ち上げて、この度の春を朗らかに迎える事に致しました。

 なによりも嬉しいのは、幼いころから憧れていた、私の住まいの住宅街からもその勇壮な校舎を見上げる事ができます、あの坂の上の高校に無事合格した事なのです。私は先輩諸氏のプリーツスカートと紺の靴下とローファー眺めては、赤と青と緑のリボンの燦々と眩しい姿見詰めては、ずっとずっとあの坂を歩いて登校するのが夢でした。ああ、私も早くあのような出で立ちで、歩いて坂の上の門を毎朝通り抜けたい。そうなればどんなに心ときめくだろうと、赤いランドセル背負って膝小僧擦り剝きながら歩いた金曜日も、恐ろしく吠えるミニチュアダックスフンドの口元に慄いて、白いスカーフ思わず握り締めた夕暮れの下校時にも、ただずっと夢を抱いて、そして心密かに叶えたいという願望を持っていたのです。

 こう改めて申し上げますと、なんだか大袈裟にも聞こえますが、私は坂の上の高校へ通う為、何事にも根気強く取り組んできました。私が「行きたいです!」と右手を真っ直ぐ天へ伸ばした処で、私の日頃の行いが悪ければ、「いえ、結構!」とお断りされてしまうかも知れません。そんなことは、どうか起こりませんように、私はどうしても、あの高校へ通いたいのだから、頑張るのですと、神様にも手を合わせてお祈りしました。数学と地理とが、何時まで経っても苦笑い浮かべるような点数を頂戴してしまう至らない私でしたが、中学校の三年間は、風邪の病にも侵されず、皆勤賞を頂く事が出来ました。

 けれども私はたった一度だけ、学校をお休みした事があるのです。思い返すのは小学生の時分です。秋でした。
 私はそれまで一度も風邪で寝込んだことが無い、頭に超を頂いても良さそうな健康女子でした。けれども四年生の或る日、お昼休みの運動場で、同じクラスの男の子が、私は今でも名前を憶えていますけれど、彼の名誉を傷つける事態になってはいけませんから、念の為ここでは伏せておきます。その男の子が、大変活発な運動家で、私はその時どんぐりを探して下をきょろきょろ見詰めながら、まるで野ねずみのように歩いていたのですが、彼の元気よく上へ蹴り上げたドッジボールが、ぽーんと弧を描いて、狙いすましたように、私の頭の天辺へ降って来たのです。

 その時の衝撃といったら、両手に三十個は集まっていたどんぐりは全て足元に散らばって、私の両目からは驚きと痛みの涙が零れる始末、私は自分が今何処へ立って何をする為に生きているのか、全く分からなくなる程でした。今思い返せば滑稽で、自分の茫然自失振りが恥ずかしいばかりなのですが、当時の私は人見知りのお人形さんみたいなものだったのです。それで、ボールを蹴り上げた彼は、大慌てで私の方めがけて走って来ました。私の視界はぼやけていましたが、飛んで来たのかと思う程彼の駆けつけるのは速かったのです。そして「ごめん、ごめん」と言いながら、彼は私の頭を両手で一生懸命さすってくれるのです。私はずっと、お婆ちゃん譲りの長い黒髪で、それを当時は右と左と結んで登校していたのですが、その天辺を無造作に一生懸命撫でられたものですから、髪は時期に縺れてしまって、私は後で左右とも結び直さなければいけなくなったのです。けれど、そんな私の勝手な都合よりも、周りのお友達のことも気ならない様子で泣きべその私に謝り続けて介抱してくれる彼が、気の毒で、嬉しいような、やはり恥ずかしい様な、なにしろ同い年の、いつも同じ教室で過ごす男の子にこんなに親切にして貰った事等ありませんでしたから、私はもう痛みなんて何処かへすっ飛んでしまって、後は只恥ずかしい気持ちばかりが胸の中を占領しています。大丈夫ですよと言いたいのに、声が上手く出せなくて、私はじっと蹲って、めそめそしてしまいました。けれども涙はどうにか納まって、それで彼は私の俯く顔をしゃがむようにして覗き込んで、
「もう平気?だいじょーぶ?」と聞いたのです。私は急いでうんと頷きました。彼はそれでようやく解放されて、最後にもう一度ごめんねと謝ってから、ドッジボールを右手に抱えると、走って友達の元へ帰って行きました。私は一人、校庭の端っこで、散らばったどんぐりを一つずつ目で追っていました。

 その日は残りの学校生活をどんな風にして過ごしたのか、どうやって家に帰ったか、全然憶えていません。しかしその夜、私はぽんと高熱を出してしまいまして、翌日の学校は、熱は夜の内に落ち着いたようでしたが、大事を取ってお休みしたのです。結局、私の学業に於ける人生の内で、と申しましてもそれは未だ学びの途中ですけれど、その欠席が、最初で最後のお休みとなりました。
 そしてこの春、私もいよいよ高校生と云う背筋の伸びる立場となったものですが、今思い返してみると、何故あの晩高熱にうなされたのか、当時は考えようにも頭がいつまでもぼんやりとして、火照ったように熱を持ち、真相を見つける事は出来ませんでしたけれど、それらの全ての原因は、どんぐりでもドッジボールでもなく、彼の手の平にあったのではないかしらと思うのです。よく日に焼けたお顔にあったのではないかしらと思うのです。それからくりんと二重にも三重にもなる丸い瞳にあったのではないかしらと思うのです。あくまで、今にして思えば、ですから、もう私には、ほんのり甘い思い出です。

 随分と懐かしいお話を持ち出してしまいました。どうしてだろうと思いながら、私は今、机の上に並べた桜餅を見詰めています。今夜はいつまでも暖かい、春の夜です。こうぬくぬくとした風が頬に触れると、私は無性にぬいぐるみを抱きしめたくなります。私は、いつまで経っても自分のお部屋から抱き心地の良いウーパールーパーのぬいぐるみが手放せないでいるのです。今もこっちを向いて、私に手を伸ばさせようと誘いをかけてくるようです。

 私は一度えいと目を瞑って、学生鞄の中からフルートの初心者向け読本を取り出しました。私は高校へ入って初めて吹奏楽という世界へ仲間入りを果たしたのです。お友達にどうしてもと誘われて、その熱意に心打たれました。本当は私は合唱部へ入ろうと思っていたのですが、お歌を唄う機会は吹奏楽部へ入って後にも作れるそうで、実際に吹奏楽部の先輩の中には、コンクールの時だけ合唱部へ助っ人として馳せ参じる御方がいらっしゃるそうなのです。なんてヒーローが居たものでしょう。私もそのような、人の助けにもなって、思う存分お歌も唄える頼もしい学生になりたいものです。

 私がそれほどまでに合唱部に興味津々、隙あらば顔を釘付けにしたい位夢中になっているのには、一応それなりの理由があるのです。二週間ほど前のお話になります。入学したての私たち一年生へ向けて、体育館で全校生徒が一堂に会する部活動紹介行事が行われました。皆様工夫を凝らした演目で御自身の部活動を御紹介なされて、私はどのパフォーマンスにも瞳をしかと向き合わせて拝見させて頂きました。
 そして私には運命的な出会い、校内で同好会を除けば一番部員数の少ない合唱部の歌声披露の順番が巡って来たのです。女性七人に対して、男性三人。お一人は指揮者へ回られましたので、総勢九名で「赤とんぼ」をお歌いになられました。

 まずその声量に圧倒されたのです。歌声の重なりと生き生きとした命の物語をこの身に注がれた瞬間、私は感情の一切を先輩諸氏の歌声に惹きつけられました。男声は僅か三人でありながら、女声に決して劣らない声量で、のびやかな歌声を御披露なされて、私はとても感動したのです。とくに、すらりと背の高い、少し細身の、ネクタイのお色から拝察して一つ上の先輩のお声は、どこまでも緩やかに響いて、私は瞼の裏に茜色に染まる夕日を眺める様な心持ちがしました。
 私はこの皆様の歌声を聞いて、ああ、私も合唱部で一緒にお歌を一生懸命に唄ってみたいと、そう思ったのです。

 それから私は、登下校の坂道の途中で、校舎の中で、郵便ポストの傍で、桜の木の下で、幾度かあの素晴らしい歌声を御披露なされた先輩をお見掛けしているのですが、いまだ声をお掛けする勇気が出せませんでした。とても残念です。私は一日も早く、この胸の感動と、心からの御礼をお伝えしたいと、熱々のおしぼりのように心の内に巻き込んで思っていたのです。
 そうする間に吹奏楽部への入部が決まり、放課後は音楽室へ通う日々が始まりました。ある日私はお友達に別の御用がありましたので、先に一人で音楽室へ向かう事になりまして、教室から意気揚々と移動を開始したのですが、その道中、又してもあの先輩のお姿をお見掛けしたのです。先輩はお一人でした。私も一人です。御礼を伝えるのなら絶好の機会でした。加えて私には合唱部の助っ人要員になりたいと云う大それた希望も抱いていますから、それをお伝えしたく思います。私は廊下を歩きながらどうしようか、今思い切ってお声を掛けてみようかしらと何度も赤いリボンを見詰めました。両手に拳を握りました。けれども何故でしょう、どうしても勇気が出せないのです。

 不図気が付くと、知らない通路を歩いていました。この学校は大きいのです。私は一つ隣の棟の校舎へ移動して、三階へ上がるはずでしたのに、自分が今どこに立っているのか分からなくなってしまいました。私は顔を上げて、辺りをぐるり見回しました。誰か先生か生徒さんがいらっしゃれば、音楽室迄の道のりをお教え頂こうと考えたのです。すると通路の先に、掲示板の前で腰に手を当てて仁王立ちの、あの先輩がいらっしゃるではありませんか。今度こそ良い機会と捉えて、先ずは道を尋ねてみよう、それから段々に私の気持ちをお伝えできれば。と、私はゆっくり、ようやくにして先輩の居る方へ足を向ける事が出来たのです。

 声をお掛けするにはまだ少し遠い位置までやって来た時、先輩がくるり向きを変え、歩き始めてしまわれました。すたすたと、真っ直ぐに廊下を歩いて行かれます。私は同じようにすたすたと歩いて先輩を追い掛けるように歩きました。あんまり淡々と歩いて行かれるので、私は一旦諦めて出直そうかと思いました。けれども私が立ち止まった時、偶然にも先輩は足を止めて、窓の外へ顔を向けられました。雲を、眺めて居られたのでしょうか。私に判断することは出来ませんけれど、何しろ好機だと思い、私は再び歩き始めました。一息に距離を縮めようと意気込んだのですが、先輩は私が動き出すのと殆ど同時にまた歩き始めてしまわれたのです。

 結局私は背中を追い掛けるばかりで、その日も先輩へ御礼とお伺いを立てる事は叶いませんでした。ただ、迷子であったにも拘らず、背中を追い掛ける内に音楽室へ辿り着く事ができましたのが、不幸中の幸いでした。

 春の陽気はとんとん拍子に過ぎていきます。桜の花びらは、そろそろ風にそよがれては舞っています。ひらり落ちては生徒の鞄の上へ、自転車のサドルへ、足元の模様になって、私はいつも儚いような、けれども淡いピンクに染まる景色に心奪われて、町を歩くのが嬉しくて仕方が無い様な気にさせられるのです。
 そして今日は、部活動が早く切り上げられる日でした。私はこれは良い機会と、ずっと食べたくて仕方が無かった街の和菓子屋さんの、桜餅を買いに行く事にしたのです。あんまり陽気なので、私は下駄箱の処で髪を素早く束ねました。坂を下る時も、陸橋を渡る時も、何処からか舞い込む花びらが奇麗でした。

 私は、世界に和菓子程可憐で雅な美しいお菓子は無いと思う程、和菓子が大好きです。春はお花見団子も捨てがたいのですけれど、今日は桜餅の気分でした。桜餅を買い求めるのを楽しみに、私はいよいよ店の暖簾を視界に入れて、胸をときめかせておりました。お店の前に到着して、まずは表をしみじみ眺めます。いつ見ても素敵なお店の佇まいと惚れ惚れして、それから私はお店へ一歩近付きました。暖簾の向こうへの期待に胸が高鳴ります。その時でした。
「や、やあ」
 あの先輩が、暖簾の向こうから姿を現されたのです。私は驚きの余り、反対に思わぬ声が口元から勢い任せに飛び出しました。
「先輩。先輩も和菓子を買いに?」
「ん、ああ、春だからね」
「そうですね、春です!」
 他に理由など要らなかったのです。先輩も、春だから和菓子を買いにいらっしゃった。そう思うと嬉しくて、思わず共感してしまいました。少し元気が良過ぎたと、今では恥ずかしく思い出されます。けれども先輩は、たった今御自分でお買い求めになられた桜餅を、私にあげようと仰ったのです。私は先輩の顔をまじまじと見上げてしまいました。それにしても、一度も会話さえしたことの無い、先輩からしてみれば屹度きっと誰だかよく分からない下級生の一人でしかない私なのに、偶々和菓子屋の出入り口で出くわしたからという、それだけの理由で、桜餅を下さると云う事が、あるでしょうか。私の瞳が疑わしく思われたのか、先輩は慌てたように「健全」な桜餅であると仰られて、そのお顔は凛々しくて、そんな澄んだ瞳を向けられるのは私には勿体ない程と思いましたけれど、これはもうありがたく頂戴する方が、いち下級生として、潔く美しい振る舞いであると、私は思いました。

 素直に好物ですと打ち明けて、とうとう私は、先輩の手から桜餅を頂戴することにしました。嬉しくて両手を差し出すと、先輩は私のよりも大きくて奇麗な五指を備えた手から、紙袋を私の手に持たせて下さいました。この時私の嬉しい気持ちが押し出され過ぎたのか、先輩の指へ私の手の甲をぶつけてしまいました。触れた手の甲は途端に火傷したように熱くなりました。静電気でも走ったのでしょうか。先輩の方は、大丈夫だったでしょうか。

 居ても立っても居られなくなった私は、精一杯お辞儀して、紙袋を落とさぬ様に気を付けて、真っ直ぐお家へ帰りました。

 頂戴した桜餅を、台所でお皿へ移し替えて、美味しい玉露を淹れ、今こうして自室に運び、机の上に置いてみました。普段の私ならば食いしん坊発揮して瞬く間に平らげてしまう桜餅なのですが、今日は何だか、そんなに簡単に胃袋へ呑み込んでしまうのが、勿体無い様な気がして、ゆったりと、香りを楽しみながら眺めてみたりしているのです。桜餅は今日中に食べなくては美味しさが損なわれてしまいます。どうしたってあと数分のうちにはさよならです。でも。私は淡い桜葉へ鼻を近付けました。思い切り香りを吸い込んで、静かに愉しみます。

 明日も登校日です。広い校舎の中で、会えるかどうか、分かりません。会えるでしょうか。もしもまたお会いした時は、今度こそ勇気を出して、今度は二つになった御礼と、それからあの日の感動と、そうして真っ直ぐに右手を天へ上げて、合唱部へ、立候補のお願いをしようと、小さな忙しない心音に誓う、夜なのでした。
                           おしまい


※お読み頂きありがとうございます。この物語には対になった物語があります。合わせてお読み下さると一層お楽しみ頂けます。   いち


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