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他人がこう思ってるかも、なんて幻想で、 現実にあるのは「自分がどうしたいか」っていうことのみだ



今日、ちょうどこのことを書こうと思ってたところに、
それと関係あるような記事を読んだので、ますます書こうと思って。(でも話題が同じなだけで話は全く違うけど)
でもこれは、決して実のある話でも何でもない、
むしろちょっと愚痴が入った、
考えをまとめたり考える為の、ただの独り言。



去年のヤバかった時、Twitterを見るのを禁止していた時期があった。

私は、複数の立場からの意見を聞くと、それを「そういう考えの人もいるよな」「立場によって正義が違うのは当たり前のことだな」と、割と全てを受け入れるので人の間に挟まれるタイプの性格だ。
もちろん倫理的に悪いとされることに対しては、割とキッパリとした否定がある。
でもそういうの以外の微妙な問題に対しては「難しいなあ」と思うことが多い。
「当事者にしか分からないこと」があるのが痛いほど分かる。
外野が憶測で一部を切り取って批判するのは愚かだと思うし、自分はそうならないように、といつも言い聞かせる。
つまり、世の中の大体の複雑な話は、私にとっては単に白黒付けられない「難しい問題」なのだ。
それを「自分に関係ないからどうでもいい」と出来たら良かったんだけど
私はすぐに相手に感情移入するタイプなのでそうも行かない。
(ここが厄介というか手強い、とさえ思っている。)


去年、色々な立場の人の正義が溢れかえってて、
自分はどこを見ていればいいのか分からなくなった。
さらにそれに対してツリーにぶら下がる無駄な否定、罵倒、論点ずらし、
関係のない話、外野の罵り合い、根拠のない話題、憶測、
そこに埋もれてしまうマトモな人の反応、暖かい人たちの言葉。
その時は今よりもっとタイムラインは混沌としていて、
それぞれの正しさ、主張、苦しみの言葉が渦巻いてた。


限界にきたので、見なくなった。




で、何ヶ月もしたら回復して。
最近復帰してみた。


そしたら耐性がついたのか、
意見を引きで見られるようになって。
「白黒つけられない」は同じだけど、以前よりは感情移入をしなくなった。
(Twitterの人達が今の状況に慣れたから使う言葉を変えた、っていうのもあるけど)


ニュース関連のツイートのリプは今もだいぶ荒れてるけど、
派閥というか、発言のパターンが同じというか限られているように見えるし、
パターン別に分析することができる。
酷い言葉を見ても「はいはいそういう系ね」って思ってスルー出来るようになってきた。
ちゃんとした理論ではなく単に罵倒している人間は視野が狭くて可哀想だな、こんなみんな忙しいのに暇なんだろうなって思うようになった。(なんだその言い方は!!って思うやつもあるけど笑)
クソリプもネタに思えるようになってきた。
Twitterに対してそういう風に引いて見られるようになった自分に少し「良かったな」って思った。
なんかTwitter、昔の2ちゃんみたいだなーって思ったり。
(それでもTwitter見てたのは、自分の周りの人達がすごくマトモで、とてもいい人達だからだったんだけど。でも酷い言葉が全然違う所から急に飛んでくるんだよな。避けようがない)
もちろん治安はもう少し何とかした方がいいとは思うけど。
自分に言われてる訳ではないのにいちいちダメージ受けるからいつも大変で。



私は、いつも見えない誰かに怯え続けているし
ずっと他人軸で生きてきたんだなって思う。
でも他人がこう思ってるかも、なんて幻想で、
現実にあるのは「自分がどうしたいか」っていうことのみ。
「他の人にこう言われたらどうしよう」なんて、捨ててしまっていいのだと思う。
そう思っても言われたことなんてないし。
でもなかなか出来ない…。

ずっとそうやって生きてきたから、すぐに変えるのは難しいけど。
そうやって自分の思いをもっと尊重して生きていきたい。
もちろん、他の人への思いやりも大事にして。


なんで他の人の意見ばかり尊重して生きてきたんだろう。
「こう思われたらどうしよう」って思いながら生きてきたんだろう。
あんな悪口書いてる人たちは幻想だ。
今の私にはnoteがある、って思うと居場所があるようでとても嬉しい。



変わりたいな。もっと。

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