【短め短編小説】『山桜』《Bright & Hopefulなお話》(2121字)
「何時ぐらいに帰ってくるの?」
玄関で登山靴を履いていると、背後で母の声がした。
「今日は近場だから早いと思う。昼過ぎには帰るよ」
「そう、気をつけてね」
パジャマ姿の母は、そう言うと寝室に戻っていった。
月に1度か2度、気が向いたら俺は山に出掛ける。行くときは独りだ。普段は近場の1,000メートルほどの山、休みが取れれば1、2泊で日本アルプスにも出掛ける。
初めて山に行ったのは3年前の3月末だった。課長の中島さんが、仕事で失敗して意気消沈していた俺を誘ってくれたのだ。
入社して2年、会社にも慣れてすべてが順調に感じていた。気が緩んでいたのか。俺のミスで会社は結構な額の損失を負った。晴天の霹靂だった。厳重注意だけで済んだが、肩身が狭かった。
会社にいると針の筵に座っているようだった。皆が俺のことを非難めいた眼差しで見ている気がした。早く挽回しなければと気持ちばかり焦った。会社を辞めるという選択肢が常に頭の中でちらついた。
そんなとき、課長から山に誘われた。
「おお、北川、お前、今度の日曜は暇か? 暇なら山、登りに行くぞ」
俺は、唐突な誘いに戸惑った。課長と仕事以外の話をしたのはそれが初めてだった。
「課長、暇は暇ですけど、山なんて行ったことないです。登れるかな。登山靴もありませんし」
正直言うと、会社の上司と日曜日に出掛けるということにかなりの抵抗を感じた。できれば行きたくないというのが本音だった。
課長は、顔に笑みを浮かべたまま言った。
「大した山じゃない。衣塚山っていうほんの1,000メートルぐらいの山だ。初心者ルートで往復4時間。スニーカーで十分だ。あと飲み物と昼飯と折りたたみの傘があればいい」
もしミスなんかしないで順風満帆だったら、なんとか理由をつけて即断っていただろう。でも、会社で居心地の悪い思いをしていたからなのか、俺は断らなかった。
「はあ、じゃあ、ご一緒させていただきます」
当日課長は、最寄り駅まで車で来て朝5時に俺を拾ってくれた。課長は、取り留めのない世間話をしただけで、仕事の話はしなかった。6時には登山口脇の駐車場に着き、まだ薄暗い中、課長と俺は衣塚山を登り始めた。
初心者ルートの割に、登山道は随分と急峻だった。登山道と言っても、鬱蒼とした緑の中に、腰の高さほどの岩が階段状に連なっているだけで道らしい道はなかった。
俺は必死だった。手も足も使ってよじ登った。顔からぽたぽたと汗が落ちた。汗は目にも入った。ちょっと連続して登ったと思ったら、すぐ小休止を取った。
痩せてはいたが運動らしい運動をあまりしない俺は、骨や筋肉が軋で音を立てているような錯覚に囚われた。27歳の俺を尻目に、41歳の課長はほとんど汗もかかずに軽い身のこなしで登っていった。
大きな岩でできた階段と俺との格闘は続いた。小休止の頻度が上がっていった。ゼイゼイと息も荒くなった。
顔を上げるたびに、岩の階段の先で俺の様子を見ている課長の姿が目に入った。そして俺がもう少しで追いつくというところまで行くと、課長は背を向けてまた登り始めた。
全身を使って登山道とは名ばかりの岩場を一心不乱によじ登っているうちに、俺は目の前にある岩の階段のこと以外何も考えられなくなった。
仕事でミスをして以来感じていた、胸に何か詰め物をされたような圧迫感が消えた。喉が締め付けられるような緊張感からも開放された。
「もう岩場は終わりだ」
突然、課長の声がした。顔を上げると、緑の向こうに青い空が開けているのが見えた。
「すぐ稜線に出る。そうしたら緩やかな坂を少し登って頂上だ」
岩の階段ともうすぐお別れだと思ったら、急に体が軽くなった気がした。課長に遅れを取ることなく、後ろにぴったりとついて稜線に出た。
稜線は痩せ尾根になっており、両側は鋭く切れ落ちていた。西側には緑に覆われた低山が連なり、東側には麓に広がる町が見えた。稜線を10分も歩くと、衣塚山の頂上に着いた。
重なり合いながら眼下に広がる緑を頂上から眺めると、それまでの人生で経験したことのない心地よさに俺の心は踊った。春の風が汗まみれの頬を優しく撫でた。
わずか1,000メートル余りの山に登っただけなのに、何か大きなことを成し遂げたような達成感を感じた。
「北川、どうだ、いい眺めだろ?」
隣りで課長が笑っていた。
頂上では、コンビニで買った握り飯を食べた。久しぶりに心から「うまい」と思えた。
課長が持参したコッヘルとバーナーで湯を沸かし、紙コップにドリップコーヒーを淹れてくれた。うまかった。本当にうまかった。
課長は、俺を見ずに青空を眺めながら言った。
「まあ、あんまり考えるな。考えたらどうにかなることだけ考えろ。考えてもどうにもならんことを考えるのは人生の無駄遣いだ。どうにもならんことを考えそうになったら山にでも登るといい」
下山に使った谷道では、あちらこちらで山桜が咲いていた。
その後、俺には名誉挽回のチャンスが巡ってきた。単に幸運だったのかも知れない。でもお陰で、自分が納得するかたちで贖うことができたと思う。
あの日以来、俺は「どうにもならんことを考え」ないために何度も山に登った。中島さんが山に誘ってくれたのはあのとき一度切りだったが、部長に昇進した今も思い出したように声を掛けてくれる。
そして今日、俺は余計なことを考えないためでなく、山に行きたいから山に行く。衣塚山では、そろそろ山桜が咲いている頃だ。
【そらからのメッセージ】
この物語の「中島さん」は、100%私の想像の産物です。でも誰にでも「私の人生にいてくれてありがとう」と思う人がいると思います。あなたの「中島さん」は誰ですか? 桜の季節は人との別れと出会いの季節でもあります。こんなお話を書いてみたい気分になりました。
※登山の装備については、本作品内に言及のあるものだけでは不十分です。また単独山行は望ましいとは言えません。しっかり調べて、ご自分の体力・実力を考慮し、安全に十分配慮して登山を楽しんでください。
※「ショートショート」という言葉を使いたくなかったので、「短め短編小説」としました。原稿用紙3枚以上10枚未満のお話を指します。
※写真は山桜ではなく大寒桜です。悪しからず。
Copyright 2023 そら
*本作品は、小説家になろうにも掲載しています。
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