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【連載小説】『小さな悲劇に満ちたこの世界で』 5. 好奇心(3082字)

【これまでのお話】
プロローグ
1. 硝子のマリア像 2. 不器用な教え子
3. 弱い男
4. 都合のいい夫


5. 好奇心
 
 梅雨が明け、ギラギラとした夏の太陽が容赦なく照りつけていた。事件から3ヶ月が過ぎようとしていた。
 被害者の石川や容疑者たちの通話記録やメールの調べも進んでいたが、犯人の特定には結びついていなかった。3人の容疑者の犯行への関与を、完全に否定することも肯定することもできない状態が続いていた。
 犯行日前後に大学周辺でうろついていた不審者も特定に至った。しかし、犯行と結びつける証拠はなかった。新たな容疑者も現れなかった。
 大学では定期試験が終わり、夏休みに入った。特捜本部は、石川の大学内外での交友関係を再度、入念に洗い直したが、事件と関係のありそうな新たな人物は浮かばなかった。
 袴田と山口は、大学周辺および大学構内での事件当時の目撃情報の聞き込みを引き続き命じられていた。
 警察官が学内を歩き回ることをよく思わない大学関係者もいた。だが、事件が未解決であるためか、多くの者は安心できると歓迎した。
 大きな進展のないまま9月を迎え、新学期が始まろうとしていた。
 9月4日の午後、聖マシュー大学の講義棟の1つ、4号館の大教室は久しぶりに賑わっていた。秋学期を迎えるに当たり、非常勤講師のための説明会が行われていたのだ。
 大学は多くの非常勤講師を抱えており、入れ替わりも頻繁だ。新学期を前にこうした授業運営に関する説明会を設ける大学は珍しくない。
 袴田は、大教室の後ろの入り口から中を覗いた。200人以上は出席していただろうか。非常勤講師の数の多さに驚いた。
 説明会が終わったのは午後4時近かった。袴田と山口は、4号館で唯一開いている東口で、大学の警備員2名とともに待機していた。
 出席した非常勤講師たちが配布された説明文書の入った封筒を抱え、ある者は1人で、ある者は他の出席者と話しながら出てきた。
 心理学部の学部長、渡辺貞人の姿も見えた。渡辺は東口を出たところで立ち止まり、通り過ぎる何人かの出席者と挨拶を交わしていた。
 渡辺は東口を背に向けて歩き出そうとしたが、1人の女を呼び止めた。
「澤口先生」
 振り向いた澤口と呼ばれた非常勤講師は、落ち着いた口調で応えた。
「ああ、渡辺先生、お疲れさまです」
 黒い真っ直ぐな髪と穏やかな笑顔が印象的な魅力的な女だった。30代半ばだろうか。際立きわだった美人というわけではないが、何か特別な引力のようなものを感じさせる。そう袴田は思った。
 学部長の渡辺は、時機じきを得たりと言わんばかりに澤口に話しかけた。
「今日はお忙しい中、わざわざお運びくださりありがとうございます。調査のご協力もありがとうございました。石川先生があんなことになってしまって、先生にもご心配をおかけしたことと思います。プロジェクトの方はいったんお休みということになります。また情況が許すようになりましたら、ぜひよろしくお願いします。今学期も澤口先生は月火水にいらっしゃるんですよね」
 澤口は、疲労の色が顕著な渡辺の顔を同情するように一瞬眺めた。そして、ずいぶん年上の渡辺に、母親が幼い子供に話すかのごとく、ゆっくりと言い含めるように言った。
「先生、いろいろ大変ですね。心からお悔やみ申し上げます。早く解決するよう私もお祈りしています。調査のことはどうぞお気になさらないでください。空き時間に少し協力させていただいただけですから。今学期も同じ曜日ですよ。どうぞよろしくお願いします」
 澤口は、渡辺に会釈し去っていった。
 袴田はその澤口という講師が放った「お祈りしています」という言葉にはっとした。「お祈りしています」という言葉は、大人同士のやり取りの中では決して珍しい台詞せりふではない。
 しかし、袴田は澤口の口からその言葉を聞いたとき、聞いてはいけないことを聞いてしまったような罪悪感と、不思議な懐かしさを感じた。そして、たまらなくその澤口という非常勤講師のことが知りたくなった。
 ふと気づくと、澤口はずっと遠くまで行っていた。
「山口さん、すいません。ちょっと待ってて下さい」
袴田はそう言い残し、小走りに澤口のあとを追った。
 澤口は、大学の正門脇の非常勤講師用の駐車場でシルバーメタリックのアルトに乗り、運転して駐車場を出ていった。
 袴田は駐車場の端で、澤口の車が駐車場のゲートを通過し、守衛室の横を通り抜け、道路を左折するのを見届けた。
 澤口美羽は、学部長の渡辺と話しているとき、刑事らしき若い男に見られていることにすぐ気づいた。
 男が美羽を見つめることは珍しいことではなかった。しかし、その刑事が美羽を見つめる眼差しは、多くの男たちが美羽に向けるそれとは異なっていた。
 30前だろうか。警察官らしからぬ穏やかな表情を湛えた若い刑事の眼差しは、純粋で、人の心を隅々まで見通すようだった。
 その刑事が、駐車場まで追ってきていることにも気づいていた。美羽は車に乗り込み、バックミラー越しに、見えなくなるまでその美しい眼差しを見ていた。
 袴田は、澤口が駐車場を去るとき、彼女から自分に注がれる視線の重みを感じた。
 根拠のない衝動に駆られ、澤口という非常勤講師のことを調べ始めた。大学側が提供した石川の仕事上の人間関係のリストに澤口美羽の名前を見つけた。
 澤口美羽は、5年前から1、2年生に教養科目の英語を教えていた。
 また事件までの約1年間、他の48名の非常勤講師とともに、石川が中心となって進めていた心理学部の「パーソナリティと職場における幸福感」という研究プロジェクトに、被験者ひけんしゃとして協力していた。
 このプロジェクトが、被害者の石川修と澤口美羽の接点だった。2人の間には何も問題がなかったか、あるいは少なくとも大学側は問題があったことを把握していなかった。
 袴田は、学部長の渡辺から、プロジェクトの詳細を聞き出した。石川と心理学部の専任講師、経営学部の准教授の3人が、49人の聖マシュー大の非常勤講師を含む329人の被験者を対象に実施していた。
 パーソナリティと仕事に関する記述式アンケートのあと、3人の専任教員が手分けして何人かの被験者をインタビューするというプロジェクトだった。
 渡辺から提供された被験者リストには、被験者の住所や連絡先などの基本情報が載っており、インタビュー済みの被験者の実施欄に日付が入っていた。
 インタビューが済んでいない被験者が37人いた。年度替わりの忙しい時期で、インタビューが中断された。
 中断前の最後のインタビューは3月12日で、石川を含む3人全員がインタビューを実施していた。インタビューは、ゴールデンウィーク明けに再開される予定になっていたという。
 澤口美羽の実施欄はブランクのままだった。つまり、石川は澤口美羽をインタビューしていないということだ。
 袴田は、学部長の渡辺に、被験者の中に石川ととくに懇意こんいにしていたと思われる者がいたかどうか尋ねた。渡辺は不快感を覆い隠そうとしながらも、石川が誰かと親しくしていたとしても渡辺は知りえない可能性があることを認めた。
 袴田は、澤口美羽が単に同じ大学に勤める非常勤講師で、石川が関わったプロジェクトの大勢の被験者の1人でしかないことにがっかりした。
 自分でもそれが理不尽な失望であることを自覚していた。捜査で浮かび上がれば容疑者だ。容疑者でないことに失望するなんて非情ではないか。
 大学で見て以来、澤口美羽のイメージはずっと袴田の心にみ着いていた。
「恋にでも落ちたか」
袴田はそう思って、可笑おかしくなった。
「恋でも何でもいいか」
袴田は、尋常ではない好奇心に従うことにした。澤口美羽という人間を調べ上げる決意をした。(つづく


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