ITベンチャーOLの「本当にあったオチのない話」


コツコツコツコツ 
コツコツ コツコツコツ

インテグレードのネイルカラー92番。
ほんのり色づく薄レッドの指先で、画面上の言葉を弾く。

@it.aiko_『鼻血が出たので遅刻します』

勤怠のチャットに投稿を落とすと、すぐに同期チャットが動き出した。

@it.mika_『また鼻血〜?』
@it.yuki_『いいから早く来い。サボリ魔。』
@it.ryo_『872』
@it.aiko_『いやほんと、わたし鼻弱いから。すぐ出ちゃうから。』

渋谷駅南口にある小さなドトール。
道路に面したカウンターで、堂々とアイスココアを一口。

あまーい。うまーい。

どのカフェにも大体メニューにココアはあるけれど、なかでもドトールが一番美味しい。チョコ感の強いなめらかな口溶けがたまらない。

レースの袖をめくって時間を確認する。
新調したばかりのアニエスベーの腕時計はミルクティーカラーの合皮ベルトに大きな文字盤が特徴的で、……んもう、本当に可愛い。
見るたびにわたしの心を明るくしてくれるお気に入りアイテムだ。

しかし可愛い見た目をして、短針と長針の先端についたハートマークが現実を突き付けてくる。針の先は「9」と「6」。わたしが勤めるIT企業の始業時間だ。

1分1秒、いや0.01秒。ほんの少しでもいいから勤務時間を減らしたい。
遅刻という烙印を落とされても、サボリ魔だと言われても、行きたくないもんは行きたくないのだから仕方がない。

鼻をひとかみして、血も涙もないそれを一瞥する。

……仕方がない。出勤してあげよう。


ドトールから代官山方面に向かう長い坂道を登れば、会社だ。
車が5台は入れそうな広いエントランスを進み、エレベーターで5階へ。

ガラスが大好きな社長がこだわって選んだ無駄に重いガラス扉を開くと、ツヤツヤとした黒タイルの社名が出迎えてくれる。見るたびに「北欧製なんだ」と自慢気に笑う社長の顔が頭に浮かんできて、なぜか少しイラッとする。

受付にはワイヤーで3Dに組み立てられた無駄におしゃれな「WELCOME」オブジェ。その隣には本物の毛皮を使用しているらしい魚を咥えたクマの置物も鎮座している。頭を撫でてみると意外とカッシリしている。本物のクマもこんな感じなのだろうか。

「おはようございまぁす」

ワンフロアのオフィスに小さく言葉を落として、そそくさと席に向かう。

ピカチュウのマスコットを並べた自席についてMacの電源をON。
とりあえずGoogle Cromeを開いて、ブックマークしているGmail、Slack、タスク管理に使用しているスプレッドシート、Googleカレンダーを開く。さて、今日は何するんだっけ。

◆13:00~14:00 SEO short mtg

◆15:00~15:30 サマリー共有

◆17:00~18:00 ABテスト・パーソナライズ会議


横文字ばかり並んだカレンダーに失笑。どうしてみんなカタカナで語りたがるのか。

一度でいいから『検索エンジン最適化 短時間会議』とか、『概要共有』とか、『対象物比較実験・最適情報の設定会議』みたいな感じで、日本人魂を爆発させた会議設定をしてやりたい。いつか絶対、やってやる。

「アイちゃん。見てみて、リンツのチョコレートだよ~」

内向きにくるっと巻いた茶髪に、花柄のスカートをふわふわ揺らす、女子の権化ことマーケのサクラ先輩だ。

椅子の代わりに使っているバランスボールに座り、今日も素晴らしいバランス力を保っている。先輩は500円玉ほどもある大きな包み紙を開いて、大粒のチョコレートを口に放り込んだ。

「え、リンツのリンドールですか?」
「そうそう~。あたしリンドール大好きなんだよね。この前ね、社長に食べたいって言ったら大量に買ってくれたのー。あっちに置いてあるよ」

フロアの奥、無駄に洒落ついた使われていないバーカウンターの上にあるお菓子コーナー。いつものラインナップに加えて、たしかにリンドールらしき山が見える。

「アイちゃんも取ってきなよ〜。ミルクもイチゴも抹茶もキャラメルも、全部美味しいよ」

ふむ。

朝からココアを飲んだけど、チョコレートはまた別だ。食べたい。


アレクサが小さな音でCafé musicを流すバーカウンターに足を運ぶと、珊瑚のような模様が入ったガラス製の大きなお菓子入れに大量のリンドールが転がっていた。

わお。いつもはカントリーマアムやおせんべいばっかりだから、嬉しい!
ホワイトチョコやオレンジ、シトラスなど変わった味もあるみたいだ。迷う。

どれにしようかと模索していると、ぺたぺたと気の抜けた足音が後ろから聞こえてくる。年中無休ビーサンで出勤するエンジニアのヤマザキさんだ。

緑のアディダスジャージにダメージの入ったジーパン。そしてビーサン。逆にお洒落なのかもしれない。
ヤマザキさんはリンドールに見向きもせず、迷わずカントリーマアムのバニラを3個も手に取った。

「ヤマザキさん、チョコレート食べないんですか?美味しいですよ」
「……いや、"カントリームマアム"派なんですよね」
「え、何派ですか?」
「……"カントリームマアム"派です」
「え、え?ヤマザキさんいま、"カントリームマアム"って言いました?」
「……はい」
「えっ。カントリーマアムですよ。"ム"が一つ余計だから」
「……いや、"カントリームマアム"です」
「いやなんで?パッケージ見てくださいよ、カントリーマアムだから」
「……へえ」
「ええ……?いまどういう感情ですか……?」

不思議人間ヤマザキさんの背中を目で追いながら、イチゴ味のチョコレートを口に放りなげる。うん、うまい。

「おいサボリ魔。掃除の時間だぞ、手伝え」
「あ、りょかい」

スキニーをスラリと履きこなす172cmの同期、ユキちゃんに頭を小突かれる。

20名規模のITベンチャーに勤めていると、大抵の雑務は新卒であるわたしたちの仕事だ。
毎日オフィス内の掃除とゴミ捨てをする。キッチンとトイレは業者さんがキレイにしてくれるから、ありがたい。

チョコレートをもぐもぐしながら、とりあえず目についた埃でも拭こうと辺りを見渡すと、壁にかけられた絵画が目に入った。
大きなキャンバスに、油絵で一輪挿しの花が描かれた作品だ。縁にたまってしまった埃をティッシュそっとなでてみると、恐ろしいほど埃が取れた。
有名な絵なのだろうか。同期のデザイナーであるミカちゃんは『埃を被せるくらいなら飾るな』と見るたびに怒っていた。

今度はすぐ後ろにある休憩スペースの丸いガラステーブルを拭いていく。
ガラステーブルはお洒落だけど指紋がつきやすいのが難点だよね。ベッタベタと人の指紋がついたテーブルは正直、気持ち悪い。

「なーにーこーれーーーー!」

掃除機をかけていたエンジニアの同期、リョウちゃんの悲鳴だ。
振り返ると、埃にまみれた灰色の謎の物体を掴んでいた。

「きたなっ。なに、くつ下?」
「うん。まただよ。絶対ハダラーだよ」
「ハダラーだね」

通称ハダラー。同期の間でだけ呼ばれているあだ名で、よく会社に寝泊まりしているセールスマネジャーの呼び名だ。本人曰く、脱ぎ癖があるらしく寝ている間に無意識で靴下を脱ぎ、裸足になってしまうらしい。

「アイちゃん。わたしに慈悲はないからね。捨てますよ」
「うん、いいと思う」
「てか今日ハダラーの誕生日って知ってた?」
「うそ、知らない。この前タナオの誕生日やったばっかじゃん……」

出ました。小規模なITベンチャーならでは、誕生日会。
社員の誕生日を大事にする社風は決して悪いものではないけれど、その準備をすべて新卒に押し付けるのはよくないと思う。

5000円の予算を握り、全員に割り振れるホールケーキを毎回被らないように購入する。しかも裏でコソコソとロウソクに火をつけて、誰も電話を取っていないタイミングを見計らって電気を落とし、お決まりの『ごぉぜんれいじをすぅぎぃ〜たぁら〜』で登場するのだ。大学生なの?勘弁してくれ。

一人ひとり行うものだから、誕生日の人が多い月はまーじで面倒くさい。
つい数日前も、タナオの誕生日を祝ったばかりだ。会社から一番近いケーキ屋で購入してしまったから、今日は駅の方まで行かないといけないかもしれない。

ちなみにタナオとは、これまた同期の間で呼ばれているあだ名でマーケ兼経理の先輩だ。何かというと雑用を押し付けられていて、『会社の棚卸しをさせられている』というユキちゃんの名言から、その名が付いている。

まあ、誕生日を準備する側はアレだけど、社長は誕生日の社員に1万円分のギフトカードを手渡しし、デザート付きの高級ランチに連れて行き、家に帰れば大きな花束が届けられているサプライズを仕掛けるような人だから、祝われる側はそんなに悪い気はしないけど。


掃除を終えて自席に戻る。
時計の針は9:50を過ぎようかというところ。

くそう。全然時間経ってないやん。昼はまだか。


とりあえずデータ分析でもしよう。
Google AnalyticsとSearch consoleを開いて……。
そういえば、このまえ営業でやってきたSEOコンサルタントがsearch consoleのことを『サチコ』と呼んでいた。どこの女だよって思ったのは私だけじゃないはず。IT業界では『サチコ』の呼び名は普通なのかな。

それにしても、IT業界はカタカナが多すぎないか?
会議名もそうだけど、何でもかんでも横文字にして話してくるものだから、ついに単語帳を作ってしまった。

電車のなかで捲るのだけど、CVRが何の略称か未だに答えられない。もっと母国語を大事にしようよ。日本人じゃん。

『我々のケイパビリティはー』なんて言われても、『ケバブ』に聞こえておなかすいちゃうだけだし、『MECE』という言葉を聞くたびに『ミッフィー』が頭に浮かんでくる。

しまいには『このあいだ食品メーカーのPLとアプリで出会ったんだけどさ。そのメンズがデートをリスケしてきて〜。好みにコミットできるように低温調理の鉄板ステーキのお店、スケジュール空けてアサインしたのにー』なんて、プライベートですら話についていけないこともある。IT業界で活躍するみんなは、本当にすごい。

カチャカチャカチャ ターン!
カチャカチャカチャカチャカチャ ターン!ターン!

強めにエンターキーをタイプする上司をこっそり睨む。
ブツブツと今日も独り言が絶好調のご様子だ。

「……ブツブツ……か?きた?きた?きたこれ、きたのたけし……!」

きめえ。
そして今日も鼻毛が出てる。きたねえ。


はあ。つまらなくもなければ、楽しくもない。
IT業界はたぶん、カタカナを愛せる人じゃないとやっていけないんだな。いやまあ、IT業界は言い過ぎか。

マーケティング分野にいる限りは、数字が恋人。
Tableauとか使いこなして、データ分析美味しいモグモグな人は良いんだろうな。

……いかんいかん。こんなときはチャットだ。同期だ。

@it.aiko_『だれか~早めにランチ行こ〜』
@it.mika_『パスタの気分』
@it.ryo_『838』
@it.aiko_『@it._ryo さすがにパスタとは読めんよ』
@it.ryo_『@it.aiko (´・ω・`)』
@it.yuki_『ごめん今日むり!帰りにセブンのカフェラテ買ってきて!!』
@it.aiko_『@it.yuki_ あいよ!』


まあ、仕事がなんであれ。

「憂鬱な気分も晴らしてくれる楽しい人たちに出会えた会社」って思えば、この会社に勤めてるのも悪くないって思えるな。


ITベンチャーOLの「本当にあったオチのない話」(完)

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