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【読書記録】『生きるとはどういうことか』 #1

養老先生の『生きるとはどういうことか』を読んだ。

これまでも養老先生の本を読んできた。この本はタメになることが多かったので、引用しながら思ったことを書いていく。

現代人は自分が本質的に変化しないと思っている。むしろ変化してはいけないと思っているらしい。でも自分が変化しなければ、発見はない。だから現代人にとって、人生は面白くないのではないかと疑う。

P17

自分の意識上では、「いつまでも変わらないな」と思っていることが多い。年齢を重ねれば、考え方も改まるだろうと漠然と期待していたが変わらない。そう感じる。しかし、物事の見方が変わった。社会に出て、学校教育で行われたことはここにも現れているとか、物事を少し包括的に見られるようになった。

私自身も大部分は変わらないなと思っているが、過去の発言が今の自分の考えと同じか?と言われると怪しい部分もある。

しかし、SNSを見ると、過去の発言と今の発言を比較して真逆なことを言えば、すぐに炎上する。

粗探しをする人こそが自分は変わらないと思っているのではないだろうか。それか、人の矛盾点を突きつけて論破することを楽しんでいる。私はそう思う。

そして、それに晒され続けた人も自分の矛盾点を無くそうと「自分は変わってはいけない」そう思い込むのではないだろうか。

ワープロやパソコンでは、文章を書かないという作家がいる。それはよくわかる。身体感覚なのだから、キーボードを打つのと、ペンや筆を使うのでは、まったく感覚が違ってしまうのである。それなら文章も違ってしまうであろう。

P186~187

これが書かれたエッセイを読んで、身体感覚とはリズムのようなものと捉えた。非常によく分かる。ペンで書いている時とスマホで書いている時とでは、一文字一文字の重みのようなものが違うように感じる。ペンの方が書くスピードも遅いので、重みがある。なので、一字一句を書くのに苦労する。スマホのようなサクサク感はなく、リズムは遅い。

実際にスマホで書いている文章とペンで書いてた文章を見比べたことはないが、違って読めるのだろうか。スマホで文章を書く機会はこのnoteだっり、ラインだったりと第三者へ向けてが圧倒的に多く、ペンで書く文章は自分向けのものが多い。

誰へ向けた文章か?でも文章が違ってくるように思う。そこも見返してみれば現れているのだろうか。

はたまた、他人の文章を読む時も読みやすい文章と読みにくい文章があることに触れている。読みやすいかどうか?もリズムであると言っている。

つまりは、読まれる文章というのは、多くの人がノリノリになれるリズムで書かれていると解釈できる。

このnoteは自分のためでもあるが、世界に公開しているので第三者にも読みやすくして書いているつもりである。

今後のフォロワーの推移を見ていけば分かる話だが、読みやすいリズムに乗れる文章ならばフォロワーは増えていくだろう。もちろん、内容に理解を示せたり、発見があるか?も重要だが。

自力で解いた問題の解法は、まず忘れることはない。忘れても、考えれば、かならずまた解ける。解法の教わった問題は、そうはいかない。かならず解法を忘れるのである。
(略)算数だって、ちゃんと身につく。ただし、自分で考えされすれば、である。解法を忘れないのは、自転車の乗り方、泳ぎ方を忘れないのと同じである。こういうことは、いったん身についたら、もはや忘れることはない。身体が記憶するからである。
世間がそれを単に「頭の問題」と思うようになって、もう何十年になるだろうか。頭じゃあない、身体のことなんですけどね。

P192~193

この文章は2008年に書かれたものだ。この時点でこの考え方は何十年も前と言っているので、バブル崩壊前くらいから始まっているのかもしれない。

この話は自分の中で「分かった!」という感覚に似ている。仕組みを理解して「おそらくこう動かしたらこうなるだろう」と予測を立てて動かしてみるとその通りになる。

こういうことなんじゃないかと、思う。書かれている自転車の乗り方や泳ぎ方も「おそらくこう動かしたら進む」と勝手に身体が思い出してその通りに動かしてみると、自分の予測に反しない動きをする。

自分の考えを書いてみると、結局は「自分の予測に反しない」という頭の話になっているのかな?とも思う。

というふうな説明は、一般性がない。そう私は思ってきた。どういう意味で一般性がないのかというと、なかなか理解してもらえないからである。このあたりが、ヒトの脳の面白いところである。私自身の脳は右の説明で、けっこう納得するところがある。ところが、私以外のヒトがどういう説明ならば納得するのか、そこが私にはわからない。当たり前で、私の脳は他人の脳ではないからである。

P54~55

何の説明か省かせてもらったが、自分が一般的だと思っていることや「これなら誰でも分かるだろう!」と思っていることが理解されないと中々辛い。

「これなら誰でも分かるだろう!」が理解されない時、私は自分が外れている側の人間だと思う。周りの人は納得していることでも自分だけが理解できずにはてなが浮かぶことが多い。

多くの人は「これなら誰でも分かるだろう!」が理解されない時は「おまえおかしいんじゃないの?」と相手を疑うことが多いのではないだろうか。

大学の研究室にいた時、先生の話は理解できないけれど、同期の話は理解できたことが多々ある。そんな時は度々、先生に「なんであれで理解できるのか意味がわからない」と言われた。そんな先生がこのエッセイを読んだらどう思うのだろうか?と少し気になる…

自分にとっては、このエッセイを読んで「ああ、自分は他の人よりも理解できるポイントがずれているんだ」ということに対して自信を持てた。そういう人間なのだと。

心理が好きだということは、たぶん自信がないのである。自分がどうだとか、他人がどうだとか、それをたえず考える。ところが心理とはとらえどころのないものだから、考えれば考えるほど、不安になる。心理を考えたいと思う心理が、いまではふつうの心理になっているらしい。

P59

誰かと会話すると「おそらくこんなことを言うだろう」と相手の言葉を予測しながら会話することが多くなった。この予測こそが他人がどう考えるのかを、考えている証拠だと思う。

以前に読んだ『思考の穴』でも考えすぎることは良くないと書かれていた。

単に自分が不幸になるだけだと。



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