【読書記録】『生きるとはどういうことか』 #1
養老先生の『生きるとはどういうことか』を読んだ。
これまでも養老先生の本を読んできた。この本はタメになることが多かったので、引用しながら思ったことを書いていく。
自分の意識上では、「いつまでも変わらないな」と思っていることが多い。年齢を重ねれば、考え方も改まるだろうと漠然と期待していたが変わらない。そう感じる。しかし、物事の見方が変わった。社会に出て、学校教育で行われたことはここにも現れているとか、物事を少し包括的に見られるようになった。
私自身も大部分は変わらないなと思っているが、過去の発言が今の自分の考えと同じか?と言われると怪しい部分もある。
しかし、SNSを見ると、過去の発言と今の発言を比較して真逆なことを言えば、すぐに炎上する。
粗探しをする人こそが自分は変わらないと思っているのではないだろうか。それか、人の矛盾点を突きつけて論破することを楽しんでいる。私はそう思う。
そして、それに晒され続けた人も自分の矛盾点を無くそうと「自分は変わってはいけない」そう思い込むのではないだろうか。
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これが書かれたエッセイを読んで、身体感覚とはリズムのようなものと捉えた。非常によく分かる。ペンで書いている時とスマホで書いている時とでは、一文字一文字の重みのようなものが違うように感じる。ペンの方が書くスピードも遅いので、重みがある。なので、一字一句を書くのに苦労する。スマホのようなサクサク感はなく、リズムは遅い。
実際にスマホで書いている文章とペンで書いてた文章を見比べたことはないが、違って読めるのだろうか。スマホで文章を書く機会はこのnoteだっり、ラインだったりと第三者へ向けてが圧倒的に多く、ペンで書く文章は自分向けのものが多い。
誰へ向けた文章か?でも文章が違ってくるように思う。そこも見返してみれば現れているのだろうか。
はたまた、他人の文章を読む時も読みやすい文章と読みにくい文章があることに触れている。読みやすいかどうか?もリズムであると言っている。
つまりは、読まれる文章というのは、多くの人がノリノリになれるリズムで書かれていると解釈できる。
このnoteは自分のためでもあるが、世界に公開しているので第三者にも読みやすくして書いているつもりである。
今後のフォロワーの推移を見ていけば分かる話だが、読みやすいリズムに乗れる文章ならばフォロワーは増えていくだろう。もちろん、内容に理解を示せたり、発見があるか?も重要だが。
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この文章は2008年に書かれたものだ。この時点でこの考え方は何十年も前と言っているので、バブル崩壊前くらいから始まっているのかもしれない。
この話は自分の中で「分かった!」という感覚に似ている。仕組みを理解して「おそらくこう動かしたらこうなるだろう」と予測を立てて動かしてみるとその通りになる。
こういうことなんじゃないかと、思う。書かれている自転車の乗り方や泳ぎ方も「おそらくこう動かしたら進む」と勝手に身体が思い出してその通りに動かしてみると、自分の予測に反しない動きをする。
自分の考えを書いてみると、結局は「自分の予測に反しない」という頭の話になっているのかな?とも思う。
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何の説明か省かせてもらったが、自分が一般的だと思っていることや「これなら誰でも分かるだろう!」と思っていることが理解されないと中々辛い。
「これなら誰でも分かるだろう!」が理解されない時、私は自分が外れている側の人間だと思う。周りの人は納得していることでも自分だけが理解できずに?が浮かぶことが多い。
多くの人は「これなら誰でも分かるだろう!」が理解されない時は「おまえおかしいんじゃないの?」と相手を疑うことが多いのではないだろうか。
大学の研究室にいた時、先生の話は理解できないけれど、同期の話は理解できたことが多々ある。そんな時は度々、先生に「なんであれで理解できるのか意味がわからない」と言われた。そんな先生がこのエッセイを読んだらどう思うのだろうか?と少し気になる…
自分にとっては、このエッセイを読んで「ああ、自分は他の人よりも理解できるポイントがずれているんだ」ということに対して自信を持てた。そういう人間なのだと。
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誰かと会話すると「おそらくこんなことを言うだろう」と相手の言葉を予測しながら会話することが多くなった。この予測こそが他人がどう考えるのかを、考えている証拠だと思う。
以前に読んだ『思考の穴』でも考えすぎることは良くないと書かれていた。
単に自分が不幸になるだけだと。
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