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誰に向けた内容なのか?

先日、岡田斗司夫の切り抜きを見た。

口下手には「口数が少ない人」と「口数が多い人」の2種類いるという。

口数が少ない人は、言葉づかい、話し方に気をつかいすぎる。考えすぎて言葉が出てこない。そういう人は普段の3~4倍話すことを心がけると良いという。また、気をつけるべきことは、正しく伝わるかは自分で考えずに相手に委ねることが大切と言っている。別に支離滅裂になっていてもいい。

反対に、口数が多い人は話すことを減らすのが大切。至って単純だが、難しく、1/10程度に減らせと言っている。口数が多い人は具体例が多すぎて何を話しているのか分からなくなることが多いそうだ。あれこれ話すことが思いついても黙っていることが大切なようだ。

また、口下手な人は内容を包括的に話しすぎるそうだ。アニメやドラマなら時系列順に話してしまう。

動画内では言われていなかったと思うが、この例は口数が多すぎる人の話だと思った。面白かったシーンへつながる背景をあれこれ話してしまい、何を話しているのか分からなくなる。

この例で言えば、逆に口数が少ない人は、あれこれ頭で考えてしまって、物事が抽象的かつ飛び飛びになってしまうのではないだろうか、と思った。

では、どうするのか?

自分が印象に残ったワンシーンを熱烈に話せばいい。

ということだった。後は聞き手がツッコんでくれるのでそれに合わせて話せばいいという。

今、私はどうしても全体の内容を理解したい本を読んでいる。そして、理解した内容をまとめてnoteに投稿したいと考えている。

これまで「読書感想文」の名目で読んでタメになったことをぼちぼち書いているのだが、これからやろうとしていることはまさに口下手な人がやる包括的な内容を話そうとしている、に当たるのではないか?と思った。

つい先日、noteでたまたま読書感想文に関する記事を読んだ。

読書感想文のコツとして、全体を書かないことが挙げられている。全体を書くことは運動会の感想でプログラムの焼き回しを書いているのと一緒だと。同様に、読書感想文では、あらすじの焼き回しにあたる。そうではなく、あなたが思ったことの細部が知りたい。

これは切り抜きで見た、口下手な人がやっていることと、その解決方法と同じ構造になっていると偶然ながら発見した。

つまり、今、私がやろうとしていることは第三者に向けた投稿ではなく、自分に向けた投稿なのだと気づいた。位置づけは自分の理解度を知るための投稿。 

たくさんスキを貰いたいなら避けるべき投稿であろう。自分なりの解釈を含めた事実の列挙はプログラムのハイライトでしかない。

noteを自分のアーカイブ的な使い方を含めて使っているなら、別にそれでも問題ない。しかし、誰かに向けて書くという意思を込めて投稿しているのなら、やってはいけない投稿だなと思った。

口数が少なくあれこれ考えてしまう人の例で考えれば、ひたすらに思ったことを書けばいいことになる。聞き手に判断を委ね、勝手に拾ってもらう。

しかし、これを文章に適応させるのは難しい。というのも、冗長でよく分からない文章は読んでもらえない。つまり、聞き手が途中で聞くことを放り出してしまうからだ。

こういった文章は第三者ではなく、未来の自分へ宛てて書いているという意識がいいのではないだろうか。
(未来の自分はほぼ第三者ではあるが、)

自分なら書いたことはいつか見直す。その時の自分が何かしら意味を拾ってくれることを期待して。

自分の投稿がどっちに位置しているのか?を意識することで、スキに囚われず投稿できると思った。

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