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読みやすさと自分らしさのハザマで

島田潤一郎『長い読書』を読んだ。

今回で、3本目の記事。それだけに学ぶことが多い本。

「リーダブルということ」というエッセイで特に印象に残ったのは、「読みやすい本」に対する批判的な視点。読みやすさを追求した結果、表現の豊かさが犠牲になり、複雑なものが単純化されてしまう危険性があるという指摘。

読みやすい本というのは、読みやすさに力点をおいているからこそ、読みやすいのである。そこでは、言葉は往々にして意味の通じる早さという観点から取捨選択されており、さらに言えば、 厳密に言葉をつかうというよりも、意味の幅の広い言葉をつかうことで、読書という行為を窮屈にさせないという工夫がなされている。
(略)
文章は読まれなければ意味がないというのはひとつの正論だとは思うが、読まれるという目的のために、多様なものを十把一絡げに捉えたり、本来は複雑なものをひどく単純なものに見せて書いてしまうのであれば、それはもはや要約という技術の話ではなくて、センセーショナリズムに閉したなにかではないか。

P186-187

「読みやすいのは書いている本人が配慮しているから当たり前」だが、「読みやすさ」を追求することが、必ずしも良い結果をもたらすわけではない。

確かに、読みやすい文章は、多くの人に受け入れられやすい。しかし、そのために表現の幅を狭めたり、内容を単純化しすぎることで、文章の奥深さや豊かさが失われる危険性がある。

noteもそうだが、SNSには「読まれるために」というメソッドがありふれている。そんなことを書く私も、ChatGPTに文章を添削してもらっている。

長く使ってると、「そのメディアの潮流」、「そうしなければいけなんだ...」と流されてしまう。

「郷に入れば郷に従え」とは言うが、後から「そういう郷だった…」と暗黙の了解で従い、結果的に流されていることがある。

抗っている部分もあるが、受け入れた方がプラスに働く場面もある。

時たま、話題のnoteが議論を呼び、あちこちで議論される。こうなったことが無い(そもそもそんな経験をするのはごく少数)ので、想像はできないが、手に負えない状態になるのだろう。その心理的負荷に耐えられるのかは心配になるが、議論されることには興味がある。

「実は裏側はこうだった」とか、「こんな関連事項があるよ」とか、「もっと詳しくは」とか、浅くも深くも広がる。

『書くことで世界を縮める』で書いたが、読まれるために文章を削って…削って…って行き着いた先がChatGPTでも書けるような文章になってしまった。

本書では、「豊かなイメージ」を「紋切型の文句」で置き換えると書いている。

「読まれるために」という言葉が重要で、読まれないためなら、一度物事を抽象化するために簡単にすることもありなんじゃないかと思う。それがだんだんと、「簡単にしたら読まれるようになった。だから簡単に」とズルズルずれていくのは危険。

難しいんだろうけど、ちょうどいい塩梅を狙うことが必要だと思う。

「単純化すれば読まれるんだろうけれども、自分らしさ、自分にしか表現できない言い回しをカットするまではしない」という考え方。

ChatGPTに添削してもらうと、自分の内面というか、考えをめぐらせた過程をバッサリカットして簡潔に添削された文章が返ってくることが多々ある。

それを「え、ここまで内容を単純化できるんだ!」と受け止めることも必要だが、「誰にでも書けてしまうような内容じゃないか?」と、批判的な目で見ることも重要だと思う。

そこに至るまでの思考過程を残してこそ、その人らしさが表れる。

「この人はこういう順序で物事を考えるんだ」と。

情報以外の具体例として、その人なりの物事の考え方の道筋を示すことが読者にとっても読んでいて楽しい文章になるんじゃないか。

著者は、時代ごとの文章の流行についても触れている。

文章にも流行というものがある。古い本を紐解けば、あるいは二〇年前の雑誌を開いてみれば、 当時の文章といまの文章がいかに違うかに驚く。 しゃべり方にだって流行がある。九○年代の若い女性の話し方といまの女性の話し方は違うし、 八〇年代の知識人たちといまの知識人たちの話し方はまるきり違う。たまにテレビで流れる昭和の映像を見て、ぼくはそのことに驚く。要するに、いまの時代にびったりとあった文章がリーダブルなのだ。そこに書かれている内容もまた、我々にとって身近なことについて書かれているわけだから、読みにくいわけがない。 いまの時代を知りたいと願うとき、ぼくはそうした本を読む。けれど、それは同じ時代の流れのなかで、その流れに身をまかせながらものを見るということであり、結局はなにをも見ることができていないのではないか、と思う。 ものを見るために必要なのは、その流れから然るべき距離を置くということであり、そのためにはいまの時代と離れた言葉で書かれた古典を読むことが有効だと思う。

p187-p188

「読みやすさ」を追求する現代の文章が、時代の流れに乗ることで一時的に受け入れられるが、それが本質を捉えているかどうかは疑問が残るということを示している。

私が考える「読みやすさと自分らしさのハザマ」とは、まさにこの点にある。

つまり、読みやすさを求めるあまり、流行に流されてしまい、結果として自分自身の声が失われる危険性がある。

しかし、一方で、読みやすさを無視してしまうと、読者にとって理解しづらい文章となり、伝えたいことが伝わらなくなる。

私はこのバランスを探りながら、自分の考えを書いていきたい。

時代性に迎合せずに自分らしさを保つためには、常に自分の考えを意識し、それをどう表現するかを慎重に考える続ける必要があるのだろう。

ChatGPTの助けを借りつつも、自分の思考過程を大切にし、単に「読みやすい」だけでない、「豊かなイメージ」を書いた文章を追求していきたい。

こうして書いてみて、文章における自分らしさとは、思考過程を書き表したものだと気づいた。

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