人の子はみな3ヶ月早産で生まれてくる。だから親も完璧でなくていい。

新生児とは生後28日未満の子のことを指し、乳児とは生後28日から満1歳までの子のことを指す。そして、満1歳から就学前の子は幼児にあたる。
私の子はひょいひょいと伝い歩きはできるものの、まだ一人で立って歩くことはできない。赤ちゃんと呼ぶには大きくなったものの、幼児といえるほど人間らしくはない。それなのに、もう乳児は卒業なのかと思うと寂しさを覚える。

2021年の冬に第一子を産んで、明日で一年になる。
一年前の今頃は、どんどん強くなっていく陣痛の激しい痛みに、身動きもできず、ただ耐えていたことを思い出す。
出産後間もなくは、もう二度と経験したくないと思っていたのに、一年も経つとどんな痛みだったか忘れてしまうのだから不思議なものだ。
それほどまでに、我が子は愛おしい。

けれど私は、妊娠中不安で仕方がなかった。
自分のような人間が子供を育てられるのか、また、子供が生まれれば子育てに時間を奪われ、自分の人生はなくなってしまうのではないかと。

妊娠がわかったのは、2021年の4月のことだった。
当時の私は仕事を辞めたばかりで、精神的に不安定だった。
産婦人科に行って妊娠を告げられたあと、私は既に結婚して二児の母である姉に会いに行くことにした。出産はどこでするべきか、産後はどの程度母親の手を借りなければならないかなど、相談するためだった。

姉の家に向かう途中、地下鉄に乗った。その日は各大学の入学式があり、電車内には明るい髪の色にスーツ姿の若い男女が大勢いた。彼らの明るい笑顔、自信に溢れた姿を見ていると涙が溢れた。
彼らはこれから大学生活を送り、就職し、恋愛をして結婚をする。そんな素晴らしい日々は、私にはもう過ぎ去ってしまったのだと。

妊娠によるホルモンバランスの変化のせいでナーバスになっていただけだと、今ではわかる。けれど残念なことにその後も、私は子育てに対して明るいイメージをもつことがなかなかできなかった。妊娠中は、お腹が大きくなっていくのとともに不安も膨らんでいく一方だった。

しかし、それはまったくもって杞憂だった。案ずるより産むがやすしということわざがあるが、まさにその通り。
不安というのは、こうなったらどうしようという恐怖心からくるものだと私は考えているが、実際にそうなってしまうより、想像している時の方が怖いというのはよくあることだ。

出産を終え、子供を育てる毎日の中で実感するのは、親の方こそ子供から無条件に愛されており、人間的に成長させてもらっているということだ。

確かに乳児を育てていると、自分一人の自由な時間はなくなるし、妊娠中から行動も制限される。アルコールをはじめ色々なものが食べられない上、体型も崩れる。私は何故か視力まで落ちた。

けれど出産を終え、子供に初めて乳を吸われた瞬間に、私はこれまでの人生のすべてが報われた気がした。この小さな生き物に必要とされている、その事実が、自分が生まれてきた理由なのだと。

そう感じたのは単に生物的な本能によるものかもしれないが、私は子供を産む前から、「命」というものをなによりも尊いものだと考えていた。
間違いも沢山犯してきた自分の人生に対し、新たな命には罪も穢れもなく、間違いなく正しい存在だと思えた。
そんな存在から必要とされて、これまで感じたことのない安堵と充足感が私の心を満たしたのだ。

子供と一緒にいること、幼い人間を育てるということは、人生において他にはない幸せな経験なのだということを、私は子供を産んで初めて知った。
そしてその時になってようやく、子供と私、二人で一つだった9ヶ月の妊娠期間は、かけがえのない時間だったことに気づいたのだ。


子供の成長はあっという間だとよくいうが、それはまったくその通りだった。
出産前後読み漁った育児書には、人間の子供は他の動物に比べ3ヶ月早産で産まれてくるとあった。
というのも、人間は頭部がぎりぎり産道を通れる大きさの時に産まれてくるのだが、大脳の発達を優先しているために、その時期では身体的にはまだまだ未熟な状態なのだ。

確かに、シマウマなり牛なりの赤ちゃんは産まれてすぐ自分で立って、親の後を追って走ることさえできる。それに対し、人間の赤ちゃんのなんとか弱いことか。
立ち上がるどころかまともに手足を動かすこともできない。できることといえばけたたましく泣くことだけ。

けれどそんな私の赤ん坊も、一ヶ月が経つ頃には、なんとなく微笑むようになったかと思うと、いつの間にか首が座り、寝返りができるようになった。
それから、ハイハイや掴まり立ち、伝い歩きができるようになり、最近では両足を踏ん張って数秒間一人で立てるようになった。
動物なら生まれてすぐにできることだが、人間の赤ちゃんはそれらを一年間かけて少しずつできるようになっていく。
それでも成長があっという間に感じるのは、それができなかった頃には、もう二度と戻ることができないからで、その日々が懐かしく愛おしいからだろう。

そうして子供の成長を見守り、時に手を貸してやることは、子供よりもむしろ自分の成長が促されていると感じることがある。

まだ言葉を話さない子供と接することは、時に忍耐を必要とする。
私はどちらかというと感情的なタイプで、沸点の低さも液体窒素並みだ。(ちなみに、液体窒素の沸点は-196℃。常温の環境でも常に沸騰していることになる)
そんなだから自分でも嫌になるほど完璧主義が板についていて、すぐ精神的に参ってしまう人間だった。

ところが、子育ては「できない」状態からスタートする。
最初はミルクも飲めない、離乳食も食べない。夜はなにをやっても泣き止ませることができず、夜泣きが2時間続くこともあった。

手掴みで物を食べさせたり、ストローでお茶を飲ませたり、なにか新しいことを始める時、そこにはいつも「子供のために」という思いがある。にもかかわらずうまくいかない。
これまでの私であれば、自分になにか原因があると決めつけ自己憐憫に浸っていただろう。実際、最初のうちはそうだった。

まだ0歳ではあるが、自我の芽生えとともに私の思いとは反対の行動をする我が子。夜泣きによる睡眠不足と相まって、気持ちに余裕のない日々が続いた。イライラして大きな声を出してしまうこともあった。
このままではいけない。子供を預けて働きに出よう。段々とそう思うようになった。

ところが、子供を預けようと真剣に考え始めた私の心には意外にも寂しさが芽生えた。
子供を預けて働きに出れば、子供から離れて精神的に楽になる部分もあるかもしれない。けれどそれは、今目の前にいるこの子と共有できる時間がぐっと減るということだ。
保育園に預けて、その後は小学校に入学して……どんどん自分の手を離れていくんだろう。それは自然なことだし、その成長を留めることはできない。
そう考えた時、私は気がついた。妊娠中と同様、子供と一日中一緒にいるこの時間。
息苦しささえ感じてしまっていたけれど、この毎日もまた、かけがえのない時間なのだと。

新生児の頃、腕の中で眠る我が子を見て胸に込み上げた後悔を思い出す。
この子と二人で一つだった時間をもっと楽しく過ごせばよかった。不安にばかり目を向けず、もっとゆったりした気持ちで、二度と戻ることのできない時間を大切にすればよかった。

私はまた同じことを繰り返すのか。


それからの私は、昨日までの自分とは違い心に余裕をもって子育てと向き合うことができるようになった。
オムツ替えを嫌がられても、うまく眠れず泣き続けられても、そんな我が子の幼い姿が愛おしくてたまらなくなった。

それまでは、一日三回の離乳食やお風呂、寝かしつけ、赤ん坊の世話の合間に行う家事に追われ、慌ただしくも変化のない毎日の繰り返しの中で、子育てが文字通り「面倒を見る」ことになってしまっていた。

けれど、子供と一緒に過ごせる時間が思っているよりも短いことに気づいて、一回一回面倒に感じていた離乳食も、自分はゆっくり頭も洗えない子供とのお風呂も、今しかない貴重な体験だと感じることができるようになった。

その後は、子供が自分の思い通り行動せず、できないことが当たり前の毎日でも、段々と気持ちにゆとりをもって子供と接することを覚え始めた。

できないのには、子供なりの理由がある。無理を通そうとするのではなく、どうやればできるのか、どんなことならできるのかを試行錯誤する。

そうして取り組む中で、子供の姿を見守っている自分の心の穏やかさに気がついた。
自分の子供が相手だからこそ、粘り強く向き合ってこられた。子供を育てているつもりで、自分の方こそ成長させてもらっているのだ。


人の子はみな3ヶ月早産で生まれてくる。できないことばかりだから、親に助けてもらわなければ生きてゆけない。それでも、子供が新生児だった頃私はよく思った。

人間というのは、生まれた瞬間が一番完璧なんじゃないか。最初は生きるためだけに生きているのに、地上の穢れに触れるうちに段々と余計な感情や欲に振り回されて生きることになるんじゃないのか。

少し話が飛躍してしまったが、きっと、親が思う「完璧」は子供にとっての完璧とは違うのだろう。
いずれにせよ、私たちは完璧な人間ではないのだから、完璧な親になろうとしなくてもいいのだ。
完璧な親になろうとする時、人は子供にも完璧な子供でいることを強いてしまうから。

子育てが始まって一年。あっという間だったが、まだまだこれから先は長い。
言葉を話すようになり、少しずつ親の手を離れていき、思春期になる頃には、また違った目で我が子を見て、違った気持ちで子育ての思い出を振り返っていることだろう。

ひとまずは、一年間走り抜けてきた自分に「お疲れ様」と労いの言葉をかけよう。そして我が子には、ここまで無事に成長してくれたこと、それになにより、私と夫の子供になってくれたことにありがとうと言いたい。

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