未崎幾夜

自己の一部を紹介した記事にて、自己の一部を公開いたしました。 ◉放送大学 心理と教育コ…

未崎幾夜

自己の一部を紹介した記事にて、自己の一部を公開いたしました。 ◉放送大学 心理と教育コース 2005年卒 教養学士取得 ◉2級ファイナンシャルプランニング技能士 2023年7月取得 実務経験ありません。 スキ1つでも(勇気をもって)つけてくださった方、ありがとうございます。感謝。

最近の記事

NO MATCH NO LIFE -5

箱の中で眠っていた、私に集められたマッチ。 30年の時を経て、お披露目しています。 第5回は、お食事よりの飲食店のマッチ、第2弾です! いかがでしたか? 今回は飲食店というより、喫茶店、パブ(夜はお酒が飲めるカフェ)が中心となりました。 次回は、特に気に入っているデザインのものをご紹介したいと思っています。 今回は現存のお店のもの幾つかありました。 全て20年ほど前のものですが、今みても、いろんなデザインに魅了されます。 投稿に間があいてしまいがちですが、手持ちのもの

    • NO MATCH NO LIFE -4

      箱の中で眠っていた、私に集められたマッチ。 30年の時を経て、お披露目しています。 第4回は、お食事よりの飲食店のマッチ、第1弾です! 下の段 次回は、お食事よりの飲食店のもの第2弾をご紹介したいと思っています。 今回、改めてマッチについて検索し、正しい部分名称がわかりましたので、今まで火薬、と表現していたものは頭薬、擦って火をつける板のような部分は側薬、と表記するようにいたします。 まだまだいろんなデザインのマッチがありますので、懐かしい、と感じる方も、この昭和文

      • NO MATCH NO LIFE -3

        箱の中で眠っていた、私に集められたマッチ。 30年の時を経て、お披露目しています。 第3回は、居酒屋、バーと思われる飲食店のものの第2弾です! 次回は、お食事よりの飲食店のものをご紹介したいと思っています。 懐かしい、と感じる方も、この昭和文化を初めてご覧になる方も、 興味を持って楽しんでいただけると嬉しいです!

        • NO MATCH NO LIFE -2

           箱の中で眠っていた、私に集められたマッチ。  30年の時を経て、お披露目いたします。  第2回は、主にお酒を提供するタイプの飲食店のものと思われるものです。   今回のご紹介は以上です。 楽しんでいただけましたでしょうか。 軸の色や火薬の色を選ぶと単価は高くなるのかしら、などと余計な想像をしてしまいます。当時はまだバブルの影響が色濃く残っていた時代でしたので、宣伝費と思えば、お値段はあまり気にしなかったかもしれませんね。 次回は居酒屋、バーの第2弾です。 当時のバブル

        NO MATCH NO LIFE -5

          NO MATCH NO LIFE -1

           身の回りにマッチをみかけなくなってから、もうどれくらい経つのだろうか。 昭和の時代、なんだってあれだけ煙草を吸いたかったんだってくらい、どこでも煙草が吸えた。例えば?いやホント思いつく所ほぼどこでも。そういえば、都内の電車やバスに乗っていると車内アナウンスで、お煙草はご遠慮ください、というのがあった。地方では喫煙可能だった電車やバスがあったらしい。バスも観光バスは確か喫煙可能だった。  子どものときは、喫茶店でコーヒー飲みながら煙草を片手に読書するのが大人だと思っていた。映

          NO MATCH NO LIFE -1

          自己(の一部を)紹介

           noteの記事を読ませていただいた時、その投稿者のプロフィールを読みにいく自分がいる。その記事を発する方の人となりを知りたいと思うのは自然な事なのかもしれない。私はなるべくフラットな目線で私の記事を読んで欲しかったので、あまり自己情報をさらしたくなかったのだが、もしかしたら、私の記事に目を通してくださった方が、私の人となりを多少は知りたいと思うかもしれないという推測の元、自己(の一部)を、この佳き日に、公開することにした。  幼少期は1970年代の大規模団地で過ごす。普通

          自己(の一部を)紹介

          立ち止まって、はじめたこと

           病気になって、1年の抱負や展望を失った上に、やめなければならないことにまで気付かされて、イジケてパズルを解いたりして時間をやり過ごしていたが、体調が回復してくると不思議なもので、カーテンの隙間から差し込む夏の太陽の陽射しを、もうそろそろ浴びてもいいんじゃないかという気になった。  最初は、終わりに向かって始めるべきこと、を始めなきゃ、という気持ちだった。時間がない、気分が乗らないなどを言い訳に放ったらかしてあるものが幾つもある。それらを今後(恐らく10年くらいかけて)捨てた

          立ち止まって、はじめたこと

          やめてから、はじめるまでのあいだ

           20数年ずっと走ってきたが、ちょっとペースが早すぎです、と咎められたので、歩かざるを得なくなった。処方箋1回飲めば治癒するような病気ではなく、しばらくの療養を余儀なくされた。考えようによっては、一時期憧れた専業主婦の生活になったわけだが、しかしそれと療養生活は違った。心細くて不安がち。やまほどあるロルバーンのノートを眺めては、子どもたちに何を書き遺すべきか考えては泣いたりしている。違うな。何か違う。そんなふうに時間を過ごすのは、何か違う気がする。  性分なのか、休み方がわか

          やめてから、はじめるまでのあいだ

          立ち止まって、考えたこと → やめたこと

           昨年、思いがけず病気になった。始めたばかりの仕事も辞めなければならなかった。非正規のパートタイム労働で、就業したばかりの疾病は、会社側も扱いにくかったであろう。何の手当もないし、契約更新の保障もできない。いや、ゴネれば、契約ぐらいは伸ばしてもらえたかもしれないが、それは結局、自分に負荷をかけることになるような気がしたから、潔く辞めることにした。  そうゆう、全ての時間を止めて療養するのは人生初めてのことだった。緊急帝王切開で子どもを産んだ時だって、傷に万全の麻酔をしながら

          立ち止まって、考えたこと → やめたこと

          鑑賞記 アレグリア シルク・ドゥ・ソレイユ

           アレグリアを観る機会を得た。  平日の昼間、独りで出かけた。  何年ぶりか覚えていないくらい久しぶりに乗るゆりかもめ。初めて乗った時は上から遺跡が見えたっけ。今は汐留のビルのガラスがペラペラと光ったり消えたりしている。  こうして独りで出かけると、恋人でも親でもなかった数十年前の自分に引き戻され、当時の若さゆえの不安や孤独までも想起してしまって、たちまち心細くなってしまう。いや、私は大人になれたし、親にもなれて、ちゃんと生きてる、そう言い聞かせながら、青と黄色のテントへ向か

          鑑賞記 アレグリア シルク・ドゥ・ソレイユ

          Thank you, dad ♡

           数十年前、短大生だった私は、授業の一環として、アメリカで2週間ホームステイをした。  最低限の英語は教えられていたし、聞き取りもだいたいの意味は理解できる程度だったが、当時の私は今でいうコミュ障で、人見知りや卑屈など生来の性格もあいまって、お世辞にも、明るく元気な学生、というようには振る舞えなかった。  しかし、ホストファミリー、正確にはホストペアレンツは私を様々な場所lに連れて行ってくれ、私は本当に楽しかったので、私が私なりに楽しんでいることは伝わっていたと思う。  ある

          Thank you, dad ♡

          操られ人間、ときどき心地よし

           人生で何度めかの〝お年頃〟がきて、心臓がバクバクいいだした私が、始めに起こした行動は、医者にいく、のではなく、スマートウォッチを身につけること、だった。この心臓のバクバクがいかなるものなのか、そのスマートウォッチで心拍数が測れるというので、まずは自分で確かめてみたかったのだ。  近代初の緊急事態宣言下の新宿で、マスクでも体温計でもなく、何に役立つのかよくわからない高級品は、それでも品薄であった。まだ多くのアプリはなく、メインは運動と健康管理に特化したアプリであった。運動、と

          操られ人間、ときどき心地よし

          朝焼けのピンクは一瞬

           建売で買った家の、私が寝ている部屋には天窓がある。敢えてそこを寝室と言わないのは、その部屋が寝室に想定されて作られていない気がしているからだ。隣家と2方隣接していて、一方はクローゼット、一方は換気程度の小さな窓、そして天井に天窓があって、それが思惑通りの明かり採りになっている。日中は真上から部屋を照らして十分にその役割を果たしてくれていて、夜は街灯などの影響は受けないので良いのだが、問題は朝、夜明けとともに明るくなってしまうことだ。  確かに勝手な話で、日中にその恩恵がなけ

          朝焼けのピンクは一瞬

          心臓バクバクの前と後

           自分の年齢を過信する、というのは、何歳くらいから上のことを言うのだろう?自分より若い人が多い職環境にいて、比較的その若い世代よりに見られてきた私は、身体の変化に鈍感だったし、曲がりなりにも不調が加齢のせいだなんて思ってもみなかった。  2〜3ヶ月仕事から離れて専業主婦をした後、運良く採用された週5日勤務のパートに出た時だった。朝から自分や子どもの昼食を準備、それとは別の朝食を準備、急いで食べてから身支度と、慌ただしく動いていると、時々、心臓がバクバクした。駅へ向かう坂を、

          心臓バクバクの前と後

          眠れない夜の、幾つか

           幼少期から、眠れないという経験はあった。それはおそらく、泣くという方法で表現されていたかもしれない。就園就学しはじめて、本から見、耳から聴き、誰かに伝えようとして、少しずつ言葉を知っていくと、やがて考えることができるようになる。すると、何らかの原因で眠れない時、日本の、いや、海外ドラマなんかで観る外国の家庭でも、子どもはある時間になると布団に入れさせられるから、そうしてパジャマを着て布団に入っていても眠れなくて、そんな時は掛布団を睨んだまま、もやもやと考えはじめる。  楽し

          眠れない夜の、幾つか

          生活と、新生活

           物心ついた時には一つの住まいに家族5人で住んでいた。始めの住まいは風呂なしの2Kで、乳幼児だった私にもベランダに設置された簡易風呂に入った記憶がある。その後の3DKの団地では、引越初日に洋式トイレの使い方を父親が説明したくらいだから、だいたいの時代背景はわかっていただけるだろう。3DKとはいえ、末子の私に個室の余裕はなく、リビングと位置づけられた6畳和室に置かれたテレビの横に学習机があった。夜になると、姉兄が9時からのテレビドラマに釘付けになっている横で、就寝時間となった私

          生活と、新生活