見出し画像

やめてから、はじめるまでのあいだ

 20数年ずっと走ってきたが、ちょっとペースが早すぎです、と咎められたので、歩かざるを得なくなった。処方箋1回飲めば治癒するような病気ではなく、しばらくの療養を余儀なくされた。考えようによっては、一時期憧れた専業主婦の生活になったわけだが、しかしそれと療養生活は違った。心細くて不安がち。やまほどあるロルバーンのノートを眺めては、子どもたちに何を書き遺すべきか考えては泣いたりしている。違うな。何か違う。そんなふうに時間を過ごすのは、何か違う気がする。
 性分なのか、休み方がわからない。それとも肯定感の低い生い立ちのせいか、何もしないでいることに罪悪感がある。しかしながらやはり、療養なのだから、何もしないのが正解なのかも。リビングの真ん中に座り込み、日差しが右から左へ動くのを眺めて1日を過ごしても、一向に療養されている気がしない。無理にでも何かしないと。前向きな何か。1日に1つでいいから不用品を見つけ出して捨てる、とか。いやいや捨てるのは一瞬でできる、遺すには時間がいる…。考えれば考えるほど、動けなくなった。
 私は自ら、思考を停止させるか、別の何かでごまかす必要性を感じた。ひょっとして、それを人は気分転換と言うのかな。
 最も身近にあって常に新しいもの、それはもう数十年も愛読している新聞。欠かせない夕刊。この、朝と夜のお届け物は、時間を錯誤させず、時代を錯誤させず、知識を錯誤させない。そして(今まではスルーしていた)土曜日夕刊のクイズコーナーに取り組むことによって、気分転換をする、という時間を意図的に持つことができるようになった。大袈裟でなく。そう、だって、ポットでお茶を飲むこともしなかった私が、ひと息つくことを学んだのだ。
 そうなると毎週土曜日の夕方が待ち遠しくなった。間違え探しとか、複雑な絵の中から特定キャラクターを探し出すものとか、漢字をあてはめたり、数字を追って線で辿ったり、簡単なものから時間がかかるものまで、なるべく真剣に取り組むようにした。そのうち物足りなくなって、他の曜日の紙面に掲載される数独にも取り組みだした。数独は適度に頭を使った感があって、解けると満足感があった。そうやって私はいつのまにか、気分転換の時間と僅かな自尊心と身体の療養を積み重ねることができたのだ。
 今日1日にできることが増え、明日の1日を思い描き、1週間後の生活に予定を入れられるようになって、私の療養は終わりへ歩みはじめた。新たな道を進もうとするときはいつでも、過去に後ろ髪引かれながら(それが悪い過去だとしてもなぜか)、見えない未来に恐怖も抱きつつ、ただ進むしかない。迷ったり立ち止まったりすると、2度と一歩も足を前に出せなくなりそうだから、新しいことも、あまり考えすぎないで、始めてしまおう。
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?