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眠れない夜の、幾つか

 幼少期から、眠れないという経験はあった。それはおそらく、泣くという方法で表現されていたかもしれない。就園就学しはじめて、本から見、耳から聴き、誰かに伝えようとして、少しずつ言葉を知っていくと、やがて考えることができるようになる。すると、何らかの原因で眠れない時、日本の、いや、海外ドラマなんかで観る外国の家庭でも、子どもはある時間になると布団に入れさせられるから、そうしてパジャマを着て布団に入っていても眠れなくて、そんな時は掛布団を睨んだまま、もやもやと考えはじめる。
 楽しいこと、愉快なことを考える時もある。遠足や旅行が楽しみだ、とか、好きな食べ物を食べられる、とか、欲しかったものを買ってもらえる、とか。でも眠れない時、その時はたいてい暗い部屋の中で一人か、呼んでも起きないくらい寝入っているきょうだいがいるくらいで心細く、自然に恐れや不安を感じていることを考えてしまう。今火事になったらどうしよう、とか、泥棒が入ってきたらどうしよう、とか。そして、どうしよう、の答えを見つけようとする。まず助けを呼ばなきゃ。しかし耳をすますと、家族がテレビを見て笑っている声が聴こえる。呼んでも聞こえないかもしれない、それなら床を足でならしてみようか?それとも急いで家族の元まで伝えに行く?でもそうしたら同じ部屋で寝ているきょうだいが置いてけぼりなって死んじゃうかもしれない。もし、火事じゃなくて泥棒なら?気づかれないように助けを呼ばなきゃならないし、自分だけ逃げたらやっぱりきょうだいが置いてけぼりになって泥棒の人質になっちゃうかも。そうしたら自分だけ助かっても、ずっと「きょうだいを置いてけぼりにした人」だ、そんなの嫌だ、どうしようどうしようどうしよう…1人パニック、布団の中で汗をかくほど暑くなっているが、怖くて顔を出せない。
 そうやっていつの間にか寝入っていたのだと思う。
 大人になってからも、たくさんの眠れない夜があった。数十年前は、テレビが消えてしまう時間があった。画面が俗にいう「砂の嵐」になる。午前2時半頃から5時頃まで。眠れない夜に、一番音や光が必要な時間に、消えてしまう。砂の嵐をつけておくと、砂がムニュムニュ動いている画面もザーという単調の音もかえって怖くなり嫌だったから、やむを得ずテレビは消すことに。あとはカーテンの隙間がミッドナイトブルーから限りなく透明に近いブルーに変わるまでの間、静寂のどまん中に放り込まれる。相当の時間、物音ひとつしない時がある。そうなると、何か聞こえないのも嫌だが、何かを聞き逃すのも嫌だと思ってくる。だから、唯一音を出してくれるラジオも聴けなくなる。布団にくるまり、耳だけ澄まして静寂の中の小さな亀裂に誰よりも早く気づこうとする。

 ハイエイジの大人になった現在も、眠れない時はある。疲れ過ぎて眠れない時、お酒を飲んでも眠れない時、ただなんとなく眠れない時。しかし、もう静寂と戦うことはない。いつの頃か眠れない自分自身のいなし方も身につけている。それは眠ることがわかったのではなく、自分のことがわかったからだ。
 眠れない時は無理に寝ようとしない、不安になることは考えない、妄想でいいから楽しいことを考える。または、楽しくなることを妄想する。
 こんな些細なことで私は眠れない夜を受け入れられるようになった。

 そもそも現代は眠らない世界、光や音が消えることはない。眠れない夜、は、もうすでに死語なのかもしれない。

追記 現代は眠らない世界になったと思っていたが、通信障害という名の暗闇に襲われることがあるようだ。眠れない夜、に別の意味の注釈が必要になるかもしれない。

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