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優生学の劣性

この世の支配者達の思想の一つに「優生学」というものがある。

優生学(eugenics)とは、知的かつ優秀な人間を創造するために、優秀な人間の子孫を増やし、劣等な人間の子孫を減らしていくという考え方だ。

優生学は文明発祥時から、すでに王族貴族等の宗教支配者達の間に共通理解としてあったもので、彼らは近親婚により優秀で高貴な「血」を守ってきた。国家間の混血は、エジプトのファラオとミタンニの王女など、王族同士の間で主に政治的な政略結婚として行われてきたのである。

優生学が初めて用語として用いられたのは、イギリスの遺伝学者でありダーウィンのいとこにあたる、フランシス・ゴルトン(後1822-1911年)が最初であるとされている。彼は人の才能は遺伝によって受け継がれるものであると主張し、家畜の品種改良と同じように、人間にも人為選択を適用すればより良い社会ができると論じた。

しかしこのゴルトンの主張は、これよりも遥か以前の古代ギリシャの哲学者プラトン(前427-前347年)の著書「国家」の中ですでに記されている。余談だが、プラトンが熱心な太陽神崇拝者であったことは秘密教義研究者の間では有名である。

国家は、プラトンの師であったソクラテスが国家の名において処刑されたことを契機として、プラトンが国家そのものを原理的に問うた哲人統治の思想が記された書だが、その中に下記の記述がある。

以下引用ー

'「グラウコン、互いにけじめもなく交わるということは、一般に何ごとにせよ他の無秩序な行為と同じように、幸福な人々の国においては、敬虔なことでもないし、支配者たちにしてもこれを許さないだろう」

「それは正しいことではありませんからね」と彼。

「したがって明らかに、われわれは次の措置として、結婚をできるだけ神聖なものとすることになるだろう。しかるに神聖な結婚とは、最も為になる結婚がそれであろう」

「まったくそのとおりです」

「それならいったい、どのようにすれば最も為になる結婚となるだろうか?次のことをひとつ、答えてくれないかね、グラウコン。というのは、ぼくは君の家に、猟犬や血統のよい鳥がたくさんいるのを見ているからだがね。ゼウスに誓って、そうした動物たちの結婚と子供つくりのことに、何か注意してみたことがあるかね?」

「どのようなことをでしょうか?」と彼はたずねた。

「まず、その動物たちはみな血統の良いものばかりだといっても、そのなかでもとくに優秀なのがいくらかいて、それとわかってくるのではないかね」

「ええ」

「では君は、全部に同じように子を生ませるかね、それともできるだけ、最も優秀なのから子をつくるように心がけるかね」

「最も優秀なのからです」

「ではさらに、いちばん若いのからかね、いちばん年取ったのからかね、それともできるだけ、壮年の盛りにあるものたちからかね」

「壮年の盛りにあるのからです」

「そのようにして子づくりをしないと、君の鳥たちも犬たちも、種族として、ずっと劣ったものになって行くと考えるわけだね」

「ええ、たしかに」と彼。

「では馬については」とぼくはつづけた、「またその他の動物については、どう思うかね。どこか違う点があるだろうか?」

「違ったら不思議でしょう」と彼。

「おやおや!」とぼくは言った、「親しい友よ、そうするとわれわれの国の支配者たちたるや、何とも大へんな腕利きでなければならないことになるね――もし人間の種族についても事情は同じだとしたら」

「むろん同じです」と彼は言った、「しかしどうしてそのように言われるのですか?」

「ほかでもない、彼ら支配者たちは、どうしてもたくさんの薬を使うことを余儀なくされるからだ」とぼくは答えた、「医者の場合でも、薬を必要とせずに養生法だけで治ってしまうような身体を扱う場合なら、それほど大した医者でなくても間に合うとわれわれは考える。けれども、薬を与えなければならない場合になると、もっと勇気のある医者が必要であることをわれわれは知っている」

「そのとおりでしょう。しかし、それでどうだと言われるのですか?」

「こういうことだ」とぼくは言った、「おそらくわれわれの国の支配者たちは、支配される者たちの利益のために、かなりしばしば偽りや欺きを用いなければならなくなるだろう。われわれはたしか、すべてそうした手段は、いわば薬として役立つものであると言ったはずだ」

「ええ、そしてそれには正しい理由がありました」と彼は言った。

「そこで、いま問題の結婚と子づくりにおいては、君が正しいと言うそのことが、どうやら、少なからざる役割を果すことになるだろう」

「どのように、でしょうか?」

「これまでに同意された事柄からして」とぼくは答えた、「最もすぐれた男たちは最もすぐれた女たちと、できるだけしばしば交わらなければならないし、最も劣った男たちと最も劣った女たちは、その逆でなければならない。また一方から生まれた子供たちは育て、他方の子供たちは育ててはならない。もしこの羊の群が、できるだけ優秀なままであるべきならばね。そしてすべてこうしたことは、支配者たち自身以外には気づかれ
ないように行なわれなければならない――もし守護者たちの群がまた、できるだけ仲間割れしないように計らおうとするならば」

「そうするのがいちばん正しいやり方です」と彼は言った。

「それでは、われわれは何らかの祭典と供犠の式を法に制定して、そうした儀式のなかで花嫁と花婿をめあわせることにしなければならない。そしてわれわれの詩人たちには、そのようにして行なわれる結婚にふさわしい讃歌を作らせよう。他方、結婚の数については、これをわれわれは支配者たちの裁量にまかせることになるだろう――彼らが戦争や病気やすべてそれに類することを考慮しながら、これらの人々の数を可能なかぎり一定に保つように、そしてわれわれの国家ができるだけ大きくも小さくもならないようにするためにね」

「正しい措置です」と彼。

「そうなると、思うに、何か巧妙な籤(くじ)が作られなければならないだろう。そうすれば、それぞれの組合せが成立するときに、先述の劣ったほうの者は自分の運を責めて、支配者たちを責めないことになるだろうからね」

「ええ、たしかに」と彼は言った。"

(引用:プラトン著,藤沢令夫訳「国家(上)」458E-460A,p406-410,岩波文庫,1979)

ー引用以上

これがまさに優生学思想である。

優生学は21世紀に入っても支配者達の間で脈々と受け継がれているが、これをもとにして世界人口を調整することは、彼らにとって正義であり善なのである。地球の管理者としての使命と責務でもあるという考えだ。

私は「どの人間が生きて、どの人間が死ぬべきか」を、人間が決めること自体に疑問を感じる。

その優劣(生死)の基準が優生学に基づく「知性」であるとするならば、自分で真実を調べることのできない情報弱者は削減の対象となってしまう。

これは無知は罪であるという思想であるが、これはソクラテスの言である。さらに以前では王族や司祭の思想で、「知識の独占」による支配と秩序管理の思想継承だ。

この基準が大衆の間に流れ込めば、先に知っている人がすごいとか、偉いとか、知らない人はバカだとかダメだとかいうエリート能力主義になって、また人が人をさばき始めるのである。

これがそのまま差別なのだが、人の価値は知性によって本当に決まるのだろうか?

私個人的には、能力を比べ合って優劣を競い合う世の風潮や評価システムには昔から飽き飽きしている。

あなたがたに「劣等」というレッテルを貼られた人の気持ちがわからないのか?と思う。人の気持ちや命の価値がわからない人が、果たして本当に優秀なのだろうか。

能力を高くしてエリートにならないと自分の存在価値を認められない社会や、人からの評価を得るために人の顔色を気にして頑張り続けるという背伸びした人生は本当に窮屈だ。

優劣の階層制度に縛られるのに疲れた人がこの日本にも沢山いると思うが、私はここからの真の解放があることを聖書によって知った。

人はみな神の作品であり、いのちそのものに価値があることを知った。

何かが出来ても出来なくても、人よりも多く何かを知ってても知らなくても、人の役に立てても立てなくても、自分という存在自体に価値があるということを神は教えてくれているのだ。

このことに心から安心して生きていける人が増えることを願う。

日本人が神の道を思い出し
再び世界に平和を作り出す者となる日が本当に待ち遠しい。

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"さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。"
マタイの福音書 7章1~5節 聖書 新改訳

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