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【科学者#074】生涯体調不良に悩まされ続けながらもドップラー効果を発見した科学者【クリスチャン・ドップラー】

自分の体調に苦しみながらも研究を続けた科学者は何人か紹介してきました。

例えば、第45回目で紹介したオーギュスタン=ルイ・コーシーは困窮した生活により病気がちになり、健康面に配慮しながら研究を続けます。

また、第65回目で紹介したルネ・デカルトは生まれたときから健康状態が悪く、規則正しい生活をしていたのですが、最後は女王のためその生活習慣を崩され亡くなってしまいます。

実はコーシーやデカルトのように、健康面に難がありつつ研究を続けた科学者がいます。

今回は、生涯体調不良に悩まされ続けながらもドップラー効果を発見した科学者であるクリスチャン・ドップラーを紹介します。


クリスチャン・ドップラー

名前:クリスティアン・アンドレアス・ドップラー
  
(Christian Andreas Doppler)
出身:オーストリア
職業:物理学者・数学者・天文学者
生誕:1803年11月29日
没年:1853年3月17日(49歳)


業績について

ドップラーの業績で一番有名なものといえば、ドップラー効果だと思います。

これは、音波や電磁波などの波の発生源が移動したり、または観測者が移動することにより、波の周波数が実際とは異なる値として観測される現象のことをいいます。

ドップラー効果の例としては、救急車が近づくときは音が高く聞こえ、救急車が遠ざかるときは音が低く聞こえる現象になります。

ドップラーは1842年に、速度と周波数の関係式を導き出します。

その後1845年に、オランダ人の科学者で気象学者であるクリストフ・ボイス・バロットが実験を行います。

実験内容は、列車に乗ったトランペット奏者が決められた音(Gの音)を吹き続け、それを絶対音感を持った人が聞くというもので、結果は音程が変化していることが証明されます。

生涯について

ドップラーの祖先は石を切り出したり,それを細工したりする職人である石工でした。

1674年にオーストリアのザルツブルクで事業を成功させ、ザルツブルクの川の近くのハンニバル広場に立派な家が建てられます。

ドップラーは、小さい頃から健康状態は良くなく虚弱体質だったため、石工にはなれませんでした。

その後は、ザルツブルクの小学校に通い、卒業後はオーストリアの都市であるリンツの中学校に進学します。

両親はドップラーの学力に対して不安がありザルツブルク大学の数学教授に相談します。

そして、1815年に設立されたばかりのウィーン工科大学で数学の勉強をするように勧められたので、1822年に入学しドップラーはそこで数学などで優れた成績を収めます。

1825年にはウィーン工科大学を卒業し、その後はザルツブルク大学で哲学の講義を受け、さらにウィーン大学に進学し高等数学、力学、天文学を学びます。

1829年にはウィーン大学を卒業し、その後はウィーン大学の高等数学と機械学の教授の助手に任命され、4年間で4つの数学の論文を発表します。

1833年3月23日にはプラハの工業中等学校に教授職として志願するのですが、採用されるまで長い時間がかかります。

そのため、採用されるまでの18ヶ月間を綿の紡績工場の帳簿係として過ごすのですが、この時期はドップラーにとってとても辛い時期になります。

1835年3月には工業中等学校からオファーがあります。

さらに1836年から1838年までプラハ工科大学で週4時間高等数学を教えるようになります。

1840年6月28日には王立ボヘミアン協会の準会員に選出され、1843年には普通会員に選出されます。

1841年3月には、プラハ工科大学で実用幾何学と初等数学の教授職に就きます。

しかし、1844年までにはドップラーの健康状態は悪化していきます。

実はドップラーの授業は生徒たちから不評でした。

生徒たちからはドップラーの評価が厳しいと不満が出たことで、ドップラーは懲戒処分されそうになります。

ドップラーは完全に無実であると懲戒処分の撤回を要求し、1844年末までには撤回されます。

しかし、1846年までに授業に戻れるほど体調は回復することがありませんでした。

1850年1月17日には、ウィーン大学の物理学研究所の初代所長に任命されます。

1852年11月には、この頃にはさらに健康状態が悪化し、温暖な気候の方が体調も回復するのではないかと考えヴェネチアへ旅行します。

しかし、1853年3月にはさらに体調が悪化してしまい、この月の17日には亡くなってしまいます。


ドップラーという科学者

ドップラーの交友関係としては、ベルナルト・ボルツァーノという科学者と交流があります。

ベルナルト・ボルツァーノ

1842年にボルツァーノがプラハに移ってきて王立ボヘミアン協会の数学部門の書記になります。

ドップラーはボルツァーノがプラハに移ってくる前から交流があったのですが、2人はより親密な関係を築いていきます。

それから、ドップラーは1836年に結婚しており、少なくても3人の息子と2人の娘がいました。

さらに、教え子の中には第56回目で紹介したグレゴール・ヨハン・メンデルがいました。

ドップラーは幼少期から健康状態が悪く、生涯にわたって体調には悩まされつつも、さらに懲戒免職になる危機を乗り越えながらも、偉大な業績を残してくれました。

今回は、生涯体調不良に悩まされ続けながらもドップラー効果を発見した科学者であるクリスチャン・ドップラーを紹介しました。

この記事で少しでもドップラーについて興味を持っていただけると嬉しく思います。


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