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【科学者#006】正しい医療でも医学界の権力者たちに迫害された放浪の医者【パラケルスス】

旅好きな人は多いと思いますが、定住しないで一生の大半を旅している人となれば極端に減ると思います。さらに、職業が医者となるとほとんどいないのではないでしょうか。今回は、そんな旅をしながら医術を極めていった放浪の医者パラケルススについてです。

パラケルスス

パラケルスス

名前:パラケルスス(Paracelsus)
出身:スイス
職業:医者、化学者、錬金術師
生誕:1493年11月11日
没年:1541年9月24日(47歳)

ちなみに本名はテオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムと言い、パラケルススはペンネームみたいなものです。

業績

まずは、パラケルスス以前の医学の話からしたいと思います。

人間が飲む薬は、主に生物の体から作られたものだけで、鉱物からのものはごくわずかだけでした。
いくつかの生物由来の何種類かの薬を混合したものが、万病の治療薬としてあらゆる病気に投与されていました。
これを変えたのがパラケルススです。

パラケルススは医学に錬金術(化学)を導入し、酸化鉄や水銀、鉛、銅などの金属の化合物を医薬に取り入れました。
つまり、従来の有機物のほかに無機物を薬に加えていきます。
このことから、パラケルススは『医化学の祖』と呼ばれています。

パラケルススは、多数の成分を含んだ万病薬の無差別な使用をやめて、その病気に合わせた医療をするべきだと主張しました。
しかし、これは多くの医者から激しい憎悪と反発を買います。

さらに悪いことに、パラケルススは激しい気性の持ち主で、歯に衣着せぬ発言などがあり、性格にかなりの難がありました。
それにより、さらに反発を買ってしまいます。

パラケルススは他にも、梅毒や鉱山病(鉱山の労働者の職業病)や、精神病などの様々な研究を行いました。


生涯について

誕生~23歳

誕生から23歳までをパラケルススの修業時代と言われています。

父親は修道院の医師で、化学がよくできて、自然界の科学に興味を持っていました。
そんな父親からパラケルススは医学や化学、自然哲学などを教わりました。

1510年頃バーセル大学に入学し、その後フェラーラ大学(イタリア)の医学部に入学しています。
1515年頃、医学の博士号を得て大学を卒業します。

パラケルススは22歳のときに、シュヴァツの鉱山で一年ほど働きます。
そこで、化学や冶金の知識を広く身につけます。

ちなみに冶金とは、鉱石から金属を採取・精製・加工して、金属材料・合金を製造することをいいます。


23歳~33歳(1516年~1526年)

23歳から33歳までが、パラケルススの第一次遍歴時代で、大旅行時代になっており、様々な場所を訪れています。

オーストリア(ウィーン)
フランス(パリ、モンペリエ)
エジプト(アレクサンドリア)
イタリア(パドヴァ、ボロニア)
スペイン(グラナダ、サラマンカ)
ポルトガル(リスボン)
スコットランド
オランダ
デンマーク
スウェーデン
ドイツ
ロシア(モスクワ)
トルコ(コンスタンチノープル)

各地で軍医として医療を施すなどをして、路銀を稼いだり生計を立てていたのではないかと言われています。
他にも、南ドイツ地方の鉱泉を調査したり、各地で学生を集めて医術を教授したりもしました。
(鉱泉:医学的見地から治癒成分を含んだ湧き水のこと)

1526年にはストラスブールで市民権を獲得しています。


1527年~1528年

短い期間なんですが、バーゼル大学教授時代です。

出版社のフローベンが推して大学教授になります。
当時の大学はラテン語で授業を行っていましたが、パラケルススは特別にドイツ語で講義を行っていました。

パラケルススがなぜ約1年で大学を去ったのかというと、様々な問題行動があったからでした。

当時医学の教典とされていたアヴィケンナ(980年 - 1037年)の『医学典範』(いがくてんぱん)を火の中に投じて、化石となった正統医学の代わりに、自然観察と実戦経験を重んじる医学を取り入れるべきだと主張します。

さらに、従来の薬の調剤法全般を改正するように市当局に申し入れます。

こういった少々過激なことや繰り返していたので、世間や大学側から「医師会の異端児」「学生を迷わせるのも」として大学から排除すべき人物などと言われてしまいます。

最終的に、ひとつの訴訟事件に敗訴したことがきっかけになり、パラケルススは大学を去ることになります。


大学教授後~48歳

大学を去ったパラケルススは第二次遍歴時代に入り、様々な国を訪ねます。

バーゼル(スイス)

コルコル(現フランス)

エスリンゲン、ニュルンベルク(ドイツ:フランケン地方)

ザンクト・ガレン(スイス)

スチロール地方(原オーストリア西部イタリア北部)

サン・モリッツ(スイス)

ウルム、アウグスブルク(ジュヴァーベン地方)

ウィーン

フイラッハ(故郷)

シュヴァーベン、バイエルン

ウィーン

ザルツブルク

パラケルススは、主にスイス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリアの各地を旅します。

その中で、これまで得た知識を記述した本を出版しようとします。

しかし、医学部の根強い反発がありなかなか出版できませんでした。

パラケルススが、なぜ大学を辞めてから色々な旅に出たかというと、ひとつは自分の医学への反対勢力の迫害から逃げることと、もうひとつは常に新しい体験を求めたからだと言われています。

金持ちの諸侯たちが侍医の手当てでは治らずに、パラケルススの治療で治り謝礼をはずんだこともあり、医術の腕前はその当時でかなり高かったことが分かります。


パラケルススの最後

1541年にパラケルススはザルツブルクで病死してしまいます。

遺言状で、すべての財物および所有物の相続人として、俸給も蓄えのない貧しい人、悲惨なん人、生活に困っている人々を指定すると記しました。


パラケルススという科学者

パラケルススは以下のような言葉を残しています。

どこに行っても私は熱心に探求し、医師からだけでなく理髪師、婦人、妖術師、錬金術師、修道院の人たち、下層民、上流人、愚かな人たちから真の医術の経験を集めた。そして、ある田舎では、そこで古くからおこなわれてきた医術のほうが複雑な混合薬を用いる学者の医術よりむしろ優れていることを知った

ちなみに、この当時の理髪師の仕事は剃髪、骨折、髭剃、脱臼、刺絡、創傷など、現在の日本の理髪師とはかなり仕事が異なります。

パラケルススは性格がに難があり、色々な人に喧嘩を売っていたのですが、それでも多くの経験で得た知識と技術は素晴らしいものだったと思います。
パラケルススにも問題があったかもしれませんが、もし周りの医学者が聞く耳を持っていたのであれば、当時の医学はもっと良くなっていたのかもしれません。

権力に真っ向から立ち向かい、屈せずに自分の道をすすみ続けた医者パラケルスス。
そんな彼の真っすぐな医療が現代の医学につながっていると思うと、パラケルススの医療が歴史に埋もれなくて良かったなっと思います。

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