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【科学者#034】ボーアのものとで学び科学者としての精神を広めた日本の現代物理学の父【仁科芳雄】

現在日本出身のノーベル物理学賞受賞者は12人いるのですが、そんな日本の物理学に多大なる影響を与え、自由な議論の場をつくり科学者に必要な精神を育て上げ、日本の素粒子物理学を世界水準にまで引き上げた科学者がいます。

その科学者は、第27回で紹介したニールス・ボーアの講演を聞き、そしてボーアのもとで5年間自由で活発な精神風土を学びました。

今回は、ボーアのものとで学び科学者としての精神を広めた日本の現代物理学の父仁科芳雄を紹介します。


仁科芳雄

仁科芳雄

名前:仁科芳雄
出身:日本
職業:物理学者
生誕:1890年12月6日
没年:1951年1月10日(60歳)


業績について

仁科さんの業績の中で、日本の物理学に影響を与えたものと言えば、サイクロトロンの建設ではないかと思います。

サイクロトロンというのは、イオンを加速するための円形の加速器のひとつになります。

1937年の最初の小型サイクロトロン

このサイクロトロンによって様々な研究を行い、日本の量子力学の研究のレベルが飛躍的に向上しました。

ちなみに、仁科さんが1937年に最初に作製したサイクロトロンは、大きさは27インチ(約68.58㎝)でアメリカ以外で建設されたものとしては2番目になります。

さらに1943年には2番目のサイクロトロンができるのですが、1945年8月15日の終戦とともに日本のサイクロトロンの運転は停止しました。

その後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、2台のサイクロトロンは東京湾に投棄されてします。

当時日本には他のところにもサイクロトロンがあったのですが、全て軍事利用するかもしれないと勘違いされGHQによって破壊されています。

しかし、このGHQの破壊行為はアメリカの物理学者たちから批判されました。


生涯について

仁科さんは岡山県浅口郡(アサクチグン)里庄町(サトシヨウチヨウ)浜中で生まれます。
9人兄弟で、3人の兄と4人の姉と1人の弟がいました。

1905年に岡山中学校に入学し、1910年には成績が優秀だったため試験をせずに旧制第六高等学校の理科甲類に合格します。

1914年には、東京帝國大学の工科大学電気工学科に入学します。

その後、1918年には理化学研究所(理研)の研究生になり、さらにこれに合わせて東京帝國大学大学院で物理学も学びます。

1920年には理研の研究員補になります。

その翌年の1921年には2年間のヨーロッパ留学が決まり、ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所でアーネスト・ラザフォードのもとで1年間学びます。

1922年にはドイツのゲッティンゲン大学に移り、その頃にデンマークのニールス・ボーアの講演を聴きます。

ボーア

そして、物理学の新しい分野に興味を持ち、1923年3月にボーアに留学の希望をするという手紙を書き、その年の4月にコペンハーゲン大学のボーア研究所に移ります。

ここでは5年半過ごすのですが、この時のちに人工放射能に関する共同研究を行った分析化学者の木村健二郎さん(1896ー1988)と一緒だった時期があります。

仁科さんは、この時ボーアのもとで学んだ自由で活発な精神風土をのちに日本にもたらします。 

1727年11月からは、ボーアの計らいでドイツのハンブルク大学で学び、アメリカの物理学者のイジドール・イザーク・ラービ(1898-1988)と親友になります。

ラービ

1928年には、オスカル・クライン(1894-1977)と共にコンプトン散乱の有効断面積を計算してクライン=仁科の公式を導きます。

クライン

そして、同じ年の1928年12月21日に日本へ帰国し、理研の長岡半太郎研究所に所属します。

1929年2月3日に親友の妹と結婚した仁科さんは、同じ年に第32回で紹介したヴェルナー・ハイゼンベルクとポール・ディラックを日本に招きます。


1930年11月には東京帝國大学より理学博士号を受け、翌年の1931年7月には理研最年少の主任研究員となって仁科研究所を立ち上げます。

そこでは量子論、原子核、X線、宇宙線などの研究を行います。

1937年4月にはボーアを日本に招き、同じ年には27インチの小型のサイクロトロン(核粒子加速装置)を完成させます。

この装置を使い、ウラン237の存在を発見したり、ウラン235の対称核分裂を発見します。

そして、1939年2月には200トンの大型のサイクロトロンを完成させます。

しかし1945年4月13日に東京大空襲があり、理研の大部分の施設が被災してしまいます。

東京大空襲

仁科さんの家も被災しため、理研の研究室に居住を移すことになります。

1945年8月6日には、広島市に新型爆弾が投下されると8月8日に政府調査団の一員として現地の被害を調査しに行き、原子爆弾であると断定します。


同じ年の8月9日には2発目の原爆が長崎に投下され、5日後の8月14日に現地調査を行い原子爆弾であると確認します。

この時、大型のサイクロトロンは被災を免れ運転を続けていたのですが、8月15日の終戦と共に停止します。

そして、大小2台のサイクロトロンは連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、軍事利用されると思われ東京湾に投棄され破壊されます。

ちなみに仁科さんは、アメリカの科学技術が進んでいることから太平洋戦争には反対していました。

その後1946年11月には理研の所長になるのですが、1948年2月に理研は解散してしまいます。

次の月の3月には株式会社科学研究所が発足し、仁科さんは初代社長となります。



仁科芳雄という科学者


1950年11月29日、仁科さんは肝臓がんで体調を崩します。

そして翌年の1951年1月10日に60歳で亡くなてしまいます。

肝臓がんに関しては、放射線の研究や原爆投下直後に調査し被爆したものではないかといわれています。

ボーアのもとで自由で活発な精神風土を学び、その学びを日本の研究所で実践し、仁科さんのもとから有名な科学者が育ちました。

ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎さんもそのひとりになります。

さらに、湯川秀樹さんがボーアに批判されたときには擁護してくれたりと、多くの物理学者が仁科さんから影響を受けたといっても過言ではないと思います。

今回は、ボーアのものとで学び科学者としての精神を広めた日本の現代物理学の父仁科芳雄を紹介しました。

この記事で少しでも仁科さんに興味を持ってもら嬉しく思います。

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