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12月。
アルバイトを終えて帰宅した陽菜は、22度に設定したエアコンの風が流れる室内で今夜もノートに向かっていた。
壊れた電動ハブラシみたいな鈍い音が時折エアコンから鳴り響いている。
雑音の原因は不明だが、この部屋のエアコンは冬場に限って妙な排気音を出すのだ。
実際にはもう馴れたものなのだが、夜の静寂の中では際立って聴こえる雑音は集中力の妨げになる。陽菜は今夜もイヤホンを耳にペンを執っていた。
ノートに綴られたもののうち既にもう幾つかの小説は完成していて、短編集という形に落ち着きそうだと陽菜は自認していた。
ひとつひとつの物語が一般的な短編小説として長いのか短いのか分からないが、それでもどれも一生懸命に考え出した文字達の集合体は陽菜に代え難い達成感を与えていた。
様々なアイディアや調べた事象などが執筆した小説と一緒になっている為に使用しているノートは数えて三冊目になっており、現在綴っているものは6編目の物語だった。
誤字や思案の度に消した文字達の残骸は、ノート横、テーブルの隅に黒々とした山を作っている。
「ゴム山」と呼ばれたそれは小学校の頃に陽菜が考えたもので、当時はクラスメートの男子によくからかわれた。(これは何と聴かれればそう呼ぶだけで実際にその塊には名前なんて無い。)

「せんせー、ひなちゃんがあそんでまーす。」
「こいつまた机にへんなのつくってんぞー。」
指先で押し固めた真っ黒なゴム山の斜面に、吊り上った目と意地悪な口がヌっと出てきて、あの頃のクラスメート達の言葉が陽菜に向かって飛んでくる。
陽菜はその妄想を黙らせる様にゴム山の表面に指の腹をグッと押し込んだ。
山は巨大なシャベルでえぐられたように滑稽に形を変える。
陽菜にとってゴム山を作る行為は至極自然なものだったし、机の方々に消しカスを散らしたままにしておくのが、なんとなく陽菜には許せないことだった。
そうしたくない理由とか、そうする目的みたいなものは自分には分からないが、とにかく純粋に陽菜はそれが嫌だった。
床に撒き散らした挙句そのままなんてもってのほかだ。
授業終了のチャイムが鳴り、黒板の前の先生がなにかしらを喋って教室を出てゆく。
からかってきた男子は授業の後、掃除もろくにしないですぐに校庭に飛び出していった。
「こうやって山にすれば、捨てるときも簡単なのに。」
ゴム山を掴んで屑篭に向かうたび、陽菜は幾度もそう思った事を思い出す。

ノートの上で再び書き損じた文字を消しゴムで消してから、陽菜はゴム山にそれらを寄せ集め指先でまとめる。
テーブルの上で遊ばないでこうしてまとまっている状態を見ると、やはり安心する。ノートとペンと消しゴム、と、ゴム山。そう。これだ。
このまとまりがなんだか落ち着く。陽菜はしたり顔で微笑んだ。
ゴム山は、私はずっとあなたの味方ですよ。というようにちんまりと佇んでいる。
幼い頃についた習慣というのは中々抜けきれず、不思議と残ってしまう。
このゴム山もそうだが、落ち着くために時々するアルマジロのポーズも陽菜の中で根付いている習慣だ。
今はうるさく言われる事も無く、誰にも迷惑をかけてないし(そもそも小学校の時から迷惑かけてるつもりなんてなかったけど)こういった習慣たちは、ある種自分らしさだと純化させ陽菜は納得している。
執筆している物語の進み具合に比例するように大きくなるゴム山は、小説とは違う目に見えた別の成果みたいに陽菜には微笑ましくも感じられるものなのだ。
文脈の節目が訪れ、陽菜はノートの上にペンを置くと、そばに置いてあるマグカップに手をつけた。
白い湯気が立つその中身は、デビからもらったネパールのお茶だ。
先日の缶コーヒーのお礼にとコンビニのカウンターでいただいたものなのだが、淹れ方が分からずにしばらくキッチンに放置していたのだ。

突如訪れた急な寒波で冷え込みが激しくなった帰り道にやられ帰宅した陽菜の目に、シンクの横に立てかけられた茶葉がなんとなく目に入った。
「そういえばデビさんからもらってたんだった。。」
陽菜はエアコンのスイッチを入れてからそれを手に取る。
大きすぎる袋の外装には、多分紅茶という意味合いの巨大なサンスクリット文字、その下に広大な茶畑とこちらに向けて手を振る笑顔の男女の写真がプリントされていた。空気が抜かれて真空状態の袋を開けてみると中には大量の茶葉がそのままの状態で入っていた。
お菓子の様な小箱に入ったパックのものしか馴染みがなかった陽菜には、袋の中のそれらは乾燥ワカメにしか見えず、早々に面倒だからやめようかという思いが押し寄せてくる。
乾燥剤のようなものも見受けられず、(開けたら最後)という事を理解した陽菜はとりあえずケトルで湯を沸かしマグに茶葉を入れてお湯を注いでみた。もう開けてしまったのだし、本当はもっとちゃんとしたやり方があるかもしれないけど仕方がない。
コラフで産地や焙煎方法の違う豆を丁寧に扱っている立場の陽菜は、模索しながらお茶を淹れる作業にどうしようもない違和感といたたまれない感情を抱いた。
しかし、陽菜のそうした鈍重な感情とは裏腹に糸くずのような茶葉達は湯の中でゆっくりと開き、優しく色づき始めた。
すぐに豊かな香りが湯気と共に立ち上ってきて陽菜は驚く。
「えー、、これ、結構いいかも。」
読めもしない文字が並ぶパッケージを手に、しげしげと眺めながら陽菜は言葉をもらした。
当たり前のことだがコラフで日々働いている陽菜にとって、珈琲とは異なる種類の些細なことが大きな驚きや刺激に変わる。
日本で売られている個包装のパックの物は、高校生の時に背伸びして買ってみたが人工的な香りがするそれとは明らかに違う。
パッケージの表に印刷された写真を眺めて陽菜は茶畑の豊かな緑を想像した。
珈琲の燻した香りも好きだけど、紅茶もいいな。
数分前には考えられなかった高貴な表情をしながらマグカップを持つ陽菜は、そんな事を思った。
エアコンからは相変わらずヴーという排気音が持続的に鳴り響いている。
さきほどの帰り道から痛感していた事だが今夜はとことん冷えるだろう。
湯気の上がるマグカップに口を付けながらなんとなく窓辺のカーテンを開けると、夜の闇の中でちらちらと雪が降り始めていた。



「―――と、いう訳で。あいつはショーセツを書いてるんだ。若造、わしもなかなかだろ。」
仙台で一番の繁華街、国分町の支那そば屋の席でクボは自慢気に言った。
店内に備え付けられたテレビからは、男性レポーターが今夜の市内の天気予報を淡々と読み上げている。
「んー、でもでも、クボさん、それってクボさんがキッカケっていうよりは、りささんがキッカケって感じが自分にはするっす。だって歌聴いてから書き始めたんすよね?」
クボの正面に座っていたタチバナくんが、椅子に座りなおし改まって言った。黄金色の頭髪が揺れる。
「あたしが、、キッカケなのかな。前に話した時、あの子はクボさんのルーツがどうたらとか言ってたけど。影響ってことでいうならやっぱクボさんも一枚噛んでんじゃない?てか、あたしあの子が小説書いてたの知らなかった。」
タチバナくんの隣に腰掛けていたりさは取り出していた煙草の先をテーブルに打ちつけながら言った。
歴史を感じさせる茶色い壁に貼られた禁煙の貼り紙をりさは横目に見つめている。国分町の飲食店の中では珍しく、この店は全席禁煙のようだ。
「ちょっとあたし煙草吸ってくる。」
普段からほとんど絶え間なく煙草を吸っているりさは、背もたれにかけていたジャケットを手にすると徐に席を立ち外に出て行った。ガラララという扉の音と共に冷えた外気が店内へ吹き込んでくる。厨房内の湯気が揺らいだ。
新しい炭酸飲料を飲む女性アイドルがロック調の音楽と共にテレビに映り、タチバナくんは目線だけを画面に向けている。
「若造、どうだ。うまかったろ。」
タチバナくんが顔を向けると、クボは卓上にそなえつけられていた楊枝を口に咥えながら、よからぬ事をたくらむ悪代官みたいな顔をしていた。
「あぁ、はい、うまかったっすね。前にクボさんここによく来るって言ってたじゃないすか。それマジ納得です。俺ってこう見えて意外にビビりなんでこういう込み入った場所にある店って、あんま一人では来たくないんすよ。なんかワルイ人とかいそうじゃないすか。なんでまあ今日は連れてきてもらえて良かったっす。偶然すけどりささんとも話せたし、あとクボさんも豚足もらえたみたいですしね。え、ってか足って食えんすか。足っすよねそれ。」
クボからの問い掛けにタチバナくんは少し前のめりになりながら言葉を返した。光沢のある黄土色の木製テーブルには、空になった三人分のどんぶりと、飲みかけの瓶ビールが雑然と置かれている。

コラフでの勤務を終えたタチバナくんは出待ちしていたクボにつかまり、夏場に行けなかったクボ行きつけの支那そば屋に付き合わされることとなった。
道すがら偶然りさと出くわした二人は、今夜の寒さに路上ライブを早めに切り上げようとしていた彼女も誘い三人でこの支那そば屋へ落ち着いたのだった。
今夜の寒さに、地元柄なんとなく雪の気配を感じたタチバナくんは、早々に帰宅して暖かな部屋ではっちゃんの生配信を見るつもりだったが、クボのおかげでこうしてりさと直接会話する機会にめぐまれた事に内心ほくそえんでいた。
しかしながら当のりさは陽菜から聴いていた「うまい棒の人」とか「宇宙人」といった人物像のクボの方に興味があり、やはり今回もタチバナくんは一人でどこか暴走気味なのであった。
「ちょっと失敬。」
クボはそういい残しトイレへ向かった。
焼き豚の芳ばしい香りが流れてきてタチバナくんは厨房の方へ顔を向ける。
テーブルのすぐ横に位置する厨房の奥では、店主らしい初老の男性が険しい顔をしながら巨大な鍋の中の液体を棍棒のようなものでかきまわしている。四角い顔立ちに割烹着と小判帽がよく似合う。
店主と同じ格好のアルバイターとみられる年の若い従業員は、カウンター席のそばで何かしらの仕込み作業をしているようだった。
壁面には木札に書かれた品書きがぶら下げられていて、タチバナくんはなんとなくそれらを流し目に見た。
チャーシューお持ち帰り可能という手書きの貼紙は見つけることができたが、豚足の文字はどこにもなかった。

ガラララという音がなり入れ替わりで外で煙草を吸っていたりさが店内に戻ってくる。再び外の冷気が店内に吹き込んだのと同時に、強い語気の吠えるような挨拶が厨房から響く。初老の男性はどうやら新規の客と勘違いしたようだ。カウンターの若い男性は目線だけをりさに向けると軽く微笑んで会釈し目の前の作業を再開させた。
「捕まったんだね。」
寒そうに体を震わせながら座席に手をかけたりさは言った。
言葉の意味が分からないタチバナくんはりさの顔を見つめ、更にその視線の先が見つめているテレビ画面を眺めた。
何かの事件の関係者だろうか。画面にはこちらを真っ直ぐに睨みつけるカマキリの様な顔をした男性の写真が中央に映され、アナウンサーが原稿を神妙な顔で読み上げている。
「えー、逮捕されたのは指定暴力団泰律会構成員、田口直毅容疑者24歳で泰律会の構成員は幹部の男を含めた複数人が未だ市内に潜伏している可能性があり宮城県警は警戒を強めています。――」
仙台市内では先月からコンビニ強盗や空き巣、金庫泥棒など物騒な事件が増えていた。最近警察車両を目にする事もなんとなく増えたし、この店が建つ国分町界隈も道すがら見回りをする警官が目に付いた。
タチバナくんは先日コラフで店長に見せられた新聞記事を思い出す。
遠くの土地で起きた抗争から流れ着いた彼らは、見知らぬ土地での生活や活動資金の為にきっと犯罪を犯すだろう。自分の様にまともに働いているなんて考えられない。彼らが市内で多発している全ての事件に関わっているという事実は無いが、タチバナくんは頭の中でカマキリ男が真っ黒な店内で金庫破りをしている風景を自然と想像してしまうのだった。
怖い。素直にそう思った。
誰かが店を出たのだろう。厨房から感謝を伝える咆哮が響き、タチバナくんは現実に引き戻される。画面から目線をそらし、なんとなく触れるように片手に持っていたグラスの水を飲み干した。カチャン、と、溶けかけた氷の音が鳴る。
りさはテーブルの瓶ビールを空いていたグラスに注ぐ様な所作を一度してからそのまま瓶に口をつけた。





「えっ 本当ですか!ありがとうございます。なんだか、信じられない。」
携帯電話を持つ指先に自然と力が入る。陽菜は中崎からの言葉に笑みをこぼしていた。
GOISHIの記事が載った地方紙の中には小枠ながら不定期で掲載されていた小説があり、作品を執筆していた人間が体調を崩した旨を聴いた中崎は陽菜へ代打という形で執筆した小説の掲載を薦めていたのだ。
こんな機会は滅多にない。私の作品で大丈夫だろうか。細々とした不安はあったが、このチャンスを断る理由は陽菜には無かった。

「そういう訳なので露木さん、これから私が言う住所に書きあがった原稿を送っていただけませんか。ノートの原本かコピーで結構です。パソコンでの文字起しはこちらで行いますので。」

「わかりました。中崎さん、ありがとうございます。今夜はもう遅いので明日には送らせてもらいますね。」

「ありがとう。いや突然の電話でこんな急な話をすまない。でも、この話を聴いたときに真っ先に露木さんの顔が浮かんでね。担当の人間は私に依頼したそうにしていたが、今回の話はいつもノートを持ち歩いている露木さんにこそぴったりだ。こちらこそ、了承してくれた事、感謝だよ。」

「いえ、とんでもないです。かえって光栄な事ですし貴重な機会をありがとうございます。」

陽菜は中崎から原稿の送り先を聴き、再度お礼を言って電話を切った。
数分前までは考えもしなかった状況だ。
陽菜は嬉しさの余り携帯を手にしたままベッドに体を投げた。
私の小説が新聞に載るんだ。すごい。これって、、すごい。
布団の上でごろごろと体を転がした後、陽菜は仰向けに大の字になる。
見上げた天井は四月に見た時と全く同じなのに今の陽菜には何処までも透き通る無限の青空の様に見えた。
「わたし、やりたいこと、みつけた。」
陽菜はその澄み切った天井の一点を見つめて再び言葉にせず胸の奥でゆっくりと想った。
デビさんの働くコンビニで封筒と切手、原稿のコピーをしてこよう。
ポストは、、店内にあっただろうか。中崎への言葉とは裏腹に陽菜は明日までじっとしていることができなかった。
体を一気に起こしベッドから立ち上がると床に投げっぱなしだったコートを手に壁際に置かれたトートバッグへ歩み寄る。
中崎へ送る最初の原稿は一冊目のノートに綴った物語にしようと思い立ったためだ。今夜の内にポストに投函すれば間違いなく明日の朝一番に回収されるだろう。とにかく早く届けたかった。
バッグに手をつけて陽菜はすぐに異変に気付く。
一冊目のノートが、無い。
普段から必要なものしか入れていないバッグは、くまなく探そうにも探しようがないほどがらんとしていた。
もしかしたら。
思い立った様に立ち上がった陽菜はベッドの上の携帯を手に電話をかけた。
「。。。はい、もしもし」
「あっ、お疲れ様です、アルバイトの露木です。」
「あぁ、陽菜ちゃん。お疲れ様、どうしたの。明日のシフト?」
電話の相手はコラフの店長だ。翌日の仕込み作業でアルバイトが帰った後もお店に残っている事があった事を思い出しダメ元で陽菜は電話をかけたのだ。
「あ、あの、お店に忘れ物したかもしれなくて、今からそっち行ってもいいですか。明日まで待てなくて。」

「あぁそうなの、いいよ。そういう事なら大丈夫。待ってるよ。入り口の灯りだけ付けとくから。って、、うわぁ、、陽菜ちゃん外すごいよ大丈夫かこれ。」
話の途中で店長は落胆するような力ない声を漏らした。
陽菜は店長の言葉に流されるように窓の外を見ると数時間前に見た時よりも市内は一面銀世界に変わっていた。点在する家々の屋根にはすっかり雪が積もってしまっている。
「大丈夫です。まだたぶん地下鉄も動いてると思うので。」

「そっか、わかった。気をつけておいでね。だめだと思ったら連絡してね。」
店長はきっと窓のそばで外の雪景色を眺めながら話しているのだろう。なんだかうわの空といった力ない口調で電話を切った。






自費出版の経費などを考えています。