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サスライに少しばかり疲れの見えてきたイタリア語教師です。ここには何を書こうかな...

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最近の記事

森から来て、砂漠へと退く人々

 きっかけは第96回アカデミー賞のセレモニーだ。授賞式で助演男優賞のロバート・ダウニー Jr と主演女優賞のエマ・ストーンが、壇上でベトナム生まれのキー・ホイ・クァンと、マレーシア生まれのミシェル・ヨーを、それぞれに無視したと話題になっていた。個人的なことを言えば、アイアンマンの依代に思い入れはない。けれどエマ・ストーンは大好き。だから嫌な気分になる。  しばらくツイートを追いかけた。プレゼンテーターだったミショエル・ヨーが「オスカー像をエマの親友のジェニファー・ローレンス

    • 言葉が蔑ろにされるとき家が焼け落ちる

       FBでこんな投稿に目が止まった。  銘はカール・クラウスとある。ウィーン世紀末文化の代表のひとりだから、本来はドイツ語のはず。そのイタリア語訳だけど、なるほどと思ったので以下に訳す。  思想の自由があっても、思想がなければどうしようもない。ぼくが今評伝を読んでいるイタリアの女優アンナ・マニャーニも同じようなことを言っている。魂があっても中身がなければ、財布があってもお金が入っていない貧乏人と同じ、じつに哀れだと。大切なのは魂に何を持っているか。つまり、どんな気概を、どん

      • 中立性と無関心な人々

         友人がフェイスブックの投稿で、ダーチャ・マライーニのインタビューに触れる機会があった。飛び込んできた言葉は「neutralità」(中立性)。報道の中立、政治的な中立、芸術の中立など、まるでそれが正義であるかのように語られる言葉なのだけれど、マライーニはこの言葉を一刀両断。そんなものは存在しないという。我が意を得たり。いかにその部分を訳出する。  イタリア語を記しておく。  おためごかしに中立性を問われるのは芸術家だけじゃない。テレビ・タレントも、学者もそうだし、聖職者

        • アディアフォラと4つの星

           最近友人から「アディアフォラ」という言葉を教わった。ウェーバーは『古代ユダヤ教』でユダヤ人が外の世界に関係するときの「アディアフォラ」という態度をとると指摘しているらしい。アーレントも「反ユダヤ主義」でユダヤ人の「無世界性」と言っているという。非常に示唆的だ。  これについて考えてみる。アディアフォラ( ἀδιάφορα )は「無関心なもの」という意味で、道徳的法則の外にあるもの、つまり道徳的に規定されていない行動、道徳的に禁止されていない行動を示すためにストア哲学によっ

        森から来て、砂漠へと退く人々

          あけまして...

           「あけまして…」と来たら「おめでとうごうざいます」と続けるべきところ、今年は少し考えさせられた。元日の初詣の帰り道に能登半島の地震の報が入り、翌日には羽田で日本航空(JAL)516便と海上保安庁の航空機が衝突、テレビは報道一色となり、いつもとは少し様子の違う三が日となったからだ。  正月気分は吹き飛び、だからといって何ができるわけでもない。何かしなければと思うものの、何もできない。そんなもどかしさ。考えてみれば、ロシアのウクライナ侵攻のときも、イスラエルのガザ攻撃にも、そ

          あけまして...

          人権を踏み躙るペッシェカーネ

          まずは伊勢崎賢治さんの記事の引用から。 ようするに「おまえらに殺されたから、おまえらを殺してやる」という復讐の理屈の前に立ちはだかるのが、世界人権宣言の「人権」という理解でよいのだろう。日本人だけの人権を守るのではない。あらゆる人間が個人として生きる人権が侵されてはならないということ。だって、これがないと「悪いやつを殺すのだから、多少の犠牲はやむ得ない」という理屈が通ってしまう。そうなると、復讐が復讐を呼ぶ。イスラムによる「無明時代」(ジャーヒリーヤ)への逆戻りだ。 こう

          人権を踏み躙るペッシェカーネ

          イタリアからのニュースレター

          先週、購読しているコッリエーレ・デッラセーラ紙のニュースレターで、イタリアの若き経済学者クララ・マッテイ(1988年生れ)のことを知る。日本の斎藤幸平(1987年生れ)と同世代。どちらもマルクスやグラムシを読み、資本主義が所与の自然ではなく矛盾に満ちた人工物だと批判、背後に隠れるイデオロギーを暴き出そうとする。 斉藤さんもマッテイさんも、著書を読んだことがない。読めるとき読もうと思うのだけど、コッリーレ紙の記事がうまくまとめてくれている。経済には疎いのだけど、この期に及んで

          イタリアからのニュースレター

          愛とは距離をとること

          ナポリのインスタグラマーで、ちょっと注目されているのがサラ・ペネロペ・ロビン。最近知ったのだけど、なかなかキレのある発言をしてくれているし、なかなかのパフォーマーでもある。 その最近の投稿でシモーヌ・ヴェイユを引いていた。パドヴァ大学を卒業する直前に元カレに殺されてしまったという女性の殺人事件に触発されたもので、イタリアでは女性たちが殺された女性への追悼と、繰り返されるフェミサイド(女性殺し)への抗議の声があがっているのだが、サラは「愛とは距離をとること」なのだというヴェイ

          愛とは距離をとること

          なぜなのか、おしえておくれ、なぜなのか?

          月曜日に、アレッサンドロ・ストラデッラのオラトリオ『洗礼者ヨハネ』を聴いた。知り合いに招待されて、ユミさんと出かけたのだが、これがすごくよかった。どこがよかったのか。備忘のため記しておく。 まずは東京文化会館の小ホールがよい。古楽器の響きが自然に増幅されて、なんだか体がぼうっとなる。始まって少しするとヨガでもしているような気分。冒頭で譜面台が落ちてドキリとしたのだが、そこはみなさん慣れてらっしゃる、みごとに収めて流れるような演奏へ。 字幕がよい。せっかく美しく響くイタリア

          なぜなのか、おしえておくれ、なぜなのか?

          戦場の愛おしいもの

          この記事によれば、昨日(2023年10月24日)の国連安保理会合で、グテーレス事務総長はハマスの攻撃を正当化はできないとする一方、「パレスチナの人々は56年間にわたり、息苦しい占領下に置かれてきた」と指摘、「ハマスの攻撃が理由なく起きたわけではないと認識することも重要だ」とした。これに対して、イスラエル エルダン国連大使は「事務総長はすべての道徳と公平性を失ってしまった。事務総長はテロを容認して正当化している」と批判したという。 ぼくはイスラエル大使の「すべての道徳と公平性

          戦場の愛おしいもの

          人為と善悪とあわいの舞い

          連休は清水で薪能を見る。イスラエルからの不穏なニュースを気にしながら、天女が舞い降りたとされる三保松原へ。席は舞台から2列目の僥倖。 陽の落ちる時を計るかのように始まる「羽衣」。地謡が響き、笛が鳴り、鼓の刻みが時の流れを変えれば、異世界への入り口が開く。ただし、その向こう側へにゆくには、天女の「いや疑いは人間にあり 天に偽りなきものを」という言葉を飲み込んで納得せねばならぬ。 そうなのだ。「疑いは人間にあり」なのだ。人は、人の間にあって、疑い惑う。ぼくらはいつだって「もし

          人為と善悪とあわいの舞い

          人の声とオノマトペア

          ミケーラ・ムルジャが「femicidio」について語る映像を見た。シェアしようとしてコメントを書いているうちに消えてしまった。もったいないので、少し思い出して以下に記しておく。 ムルジャは言う。「フェミチーディオ femicidio」(女性殺し)という言葉に最初のころは反感があったと。「フェミチーディオ」とは、「フェミン」(女性)「チーディオ」(殺し)の意で、「女性が女性だからゆえに殺される事件」のことを言うのだが、そんなことはこれまで知られていなかった。ところがよく調べて

          人の声とオノマトペア

          《どこまでも地べたを行く》ために

          NHKの朝ドラ『らんまん』のことを書く。今週の「愛玉子(オーギョーチ)」が面白かったからだ。 時は日清戦争(1894-95)が終わるころ。台湾統治が始まり、国力と学問が結びつき、学問は名誉と結びつく。留学から帰ってきた学者たちは、留学先での差別的な扱いをトラウマとして抱え込んでいる。そんなとき、日本政府は英国との不平等条約の部分的な解消に成功(日英通商航海条約 1984.7.14)、これを機に日清戦争へと舵が切られる。そして戦争の勝利。日本人であることが劣等意識となっていた

          《どこまでも地べたを行く》ために

          未来の時制による追悼演説

          以下に訳出するのは、キアラ・ヴァレーリオによるミケーラ・ムルジャの追悼演説だ(2023/8/12)。場所はローマのポーポロ広場にあるサンタ・マリア・イン・モンテサント教会、通称は「芸術家たちの教会」。 ミケーラ・ムルジャ(1972-2023)、享年51歳。作家、劇作家、ラジオのパーソナリティ。癌を患っていたと言う。ぼくが彼女のことを知ったのはパオロ・ヴィルツィーの『見渡すかぎり人生』(2008)。この映画の原作がムルジャの『Il mondo deve sapere (世界は

          未来の時制による追悼演説

          キョウチクトウとオレアンドロ

          詩人 森山恵の「花の話法」を読んだ。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という田村隆一をひっくりかえして、夾竹桃が言葉にひろわれてゆく。キョウチクトウはイタリア語でオレアンドロ(Oleandro )。そういえばチェレンターノの歌にこんな一節があった。 庭にあるオレアンドロとバオバブのあいだにアフリカの面影を探ろうとしたのは、幼い頃のチェレンターノ。夏のヴァカンスシーズンで人影のない都会にひとり残され、子どもの頃のようにアフリカを夢見るのだけれど、おめあてのライオンは見つから

          キョウチクトウとオレアンドロ

          戦後に関するふたつのニュースレター

          コリエーレ紙のニュースレター。仕事がら購読しているのだけど、これがいつも面白い。いろいろ教えてくれる。今日はさしあたり2つの記事が気になった。 1つはトーマス・マンのこと。ヴィスコンティの映画を調べると避けて通れない作家だけれど、彼の反ナチズムは興味深い。曰く「その政治はいわばグロテスクの政治であり、大衆的な不随意的発作にあふれ、まるで遊園地のような歌声がひびき、ハレルヤが叫ばれ、モノトーンなスローガンをマントラのように繰り返して、ついには誰もが口に泡を吹くようになる」(u

          戦後に関するふたつのニュースレター