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中立性と無関心な人々

 友人のフェイスブックの投稿で、ダーチャ・マライーニのインタビューに触れる機会があった。飛び込んできた言葉は「neutralità」(中立性)。報道の中立、政治的な中立、芸術の中立など、まるでそれが正義であるかのように語られる言葉なのだけれど、マライーニはこの言葉を一刀両断。そんなものは存在しないという。我が意を得たり。いかにその部分を訳出する。

 芸術は中立的ではありません。中立性なんてものは存在しないのです。人はそれぞれ自分の考えを持っています。求められるのは明快であること(la chiarezza)、大切なのは隠し事がない(trasparente)ことです。
 芸術は世界の外側にあるのではない。世界の中にある。自分の理念があり、自分の信念を持つ。それは言わなきゃだめですよ、言わなきゃだめなんです。なにか義憤にかられることがあるなら、批評すべきことがあるのなら、それはやらなきければならないのです。
 そもそも偉大な芸術家はみんな〔そうしてきた〕。少し現実離れしていると言われるレオパルディでさえも、政治的な立場を取り、モノを書くときはとても批評的でとても厳しかった。「田舎から来た少女」だけの詩人ではありません。
 ですから芸術家は、なんらかの形で、〔政治に〕関わりを持つ(partecipare)べきなのです。有名になればなるほど、自分の考えを表明する義務が増すのです。けれどもそのときには、決して言葉の暴力に訴えないこと、これが大切です。。

拙訳

 イタリア語を記しておく。

       L’arte non è neutra. La neutralità non esiste, ognuno ha i suoi pensieri. E quello che si chiede è la chiarezza, no? L’importante è essere trasparenti. Ma non è che l’arte sia fuori dal mondo, è nel mondo.
       E quindi ha le sue idee, ha le sue convinzioni, e deve dirle, deve dirle. E se c’è un’indignazione…, una critica da fare, la deve fare.
       Guardi che poi tutti i grandi artisti per fino Leopardi, che viene definito una persona un po’ fuori dalla realtà, invece no, prendeva posizione ed era molto critico e molto severo nei suoi scritti, non è solo «la donzelletta che vien dalla campagna».
       Quindi credo che gli artisti debbano, in qualche modo, partecipare e più sono conosciuti più hanno il dovere di dire la propria, ma senza… ecco, la cosa importante: senza violenza verbale.

https://www.facebook.com/reel/6919946641466511

 おためごかしに中立性を問われるのは芸術家だけじゃない。テレビ・タレントも、学者もそうだし、聖職者も、コンビニのバイトさんも、みんな同じ。社会問題や政治の話を始めると、とたんに顔をしかめられる。選挙は行くべきだけれど、政治は語るなというわけか。

 そういえば、むかしむかし、公共放送で講師をやったときにも「政治活動をしないでください」と言われたことがある。そのときは笑ってられたのだけれど、あのときの自分には腹がたつ。イタリア語を教えるのだって政治的なのだ。だいたい、中立的なイタリア語なんてありえないじゃないか。そうそう、思い出したからついでに記しておくが、テキストの表紙にレインボーカラーの旗を掲げた店の写真を使おうと言っていたら、責任者が血相変えて飛んできて、「あれはだめ、あれは "政治的な旗" だから」というので急遽さしかえになったことがある。あのとき、そういうものなのかと思った自分にも腹がたつ。

 どうしてレインボーからがだめななのか。当時はもっとダイレクトに「〇〇ですから」と言われたのだけど、それは記すまい。ただ、性的マイノリティーをサポートするシンボルであるレインボーは、たしかに「政治的」であるとしても、だからダメだと言うこと自体に、どうして「おかしいじゃないか」と義憤を感じられなかったのか。

 この「おかしいじゃないか」というのが、ダーチャ・マライーニの言う「indignazione」(義憤)なのだろう。これは動詞「indignare」(憤慨させる)に由来し、さらには形容詞「indegno」(ふさわしくない)に遡る。「in-degno」とは、否定の接頭辞「in-」に「degno」(ふさわしい)が続いたもの。高貴な人間に使われ「貴族らしさ」や「男らしさ」などの意味だったものが、次第に「人間らしさ」つまり「人の尊厳」(dignità)のことになってゆく。

 そう言う意味で「indignazione」(義憤)というのは、人の尊厳を損なうような行為のことなのだ。それはたとえば、あのときレインボーカラーを掲げる店の写真を、「政治的だ」と非難して覆い隠したこと。そこでは「中立性」の名の下に、LGBTQのようなマイノリティーが人の範疇から外され、それ以外のマジョリティーの尊厳だけが守られる。この「中立性」は、LGBTQを人の範疇から外に追いやり、人としてのLGBGQ の尊厳を傷つける。あのときのぼくは傷つけていたことに気がついていなかった。自分もまた「中立性」のなのもとに、あの「indignazione」に加担していたのだ。

 だから、今頃になって自分の愚かさに腹がたつ。それにもまして腹がたつのは、おためごかしの「中立性」。この「中立性」を錦の御旗にしている連中にも腹がたつ。たとえば報道。報道には知り合いもいる。まじめにやっていると信じている。けれども、「報道の中立性」なんてのを掲げる羽織ゴロもごろごろいるわけだ。だからいい加減に、この中立性なんてのをしっかり批判してもらいたい。

 さもないと、報道だけじゃなくて、政治家や官僚までもが、この中立性を持ち出してくる。政治家や官僚は、そもそも政治的な仕事をしているはずなのに、じぶんは中立なんですと舌を出しながら、過去を反省するなんて政治的なことはやめてくれとか、こんな政治的な記念碑は撤去すべきだとか、歴史的に中立の事実を検証するのだという「おためごかし」の政治と政治的な圧力をしかけてくることになる。

 そもそも、ぼくらはみんな生きている。生きる人は政治的に生きるしかない。ぼくらは政治的な存在なのだ。ぼくらが政治的に生きている場所が世界なのだ。だからハイデッガーは「世界内存在」(@ハイデガー)と言った。ぼくらは世界を語りながらも、その世界のただなかにいるしかない。世界の外にはいられない。世界内存在としてしか存在できないのだ。

 その同じ世界の、同じ空の下、中立の名のもとに、ミサイルの雨が降り注ぐ。中立の名のもとに悲鳴があがる。中立の耳栓でぼくらの耳にとどかない。あるいは遠すぎて聞こえないふりをしているだけなのか。万一聴こえてもテロリストのプロパガンダなのだと中立的に言い聞かせてしまうのか。

 そしてあの、どす黒く固まる前に赤く流れ落ち続ける体液もまた、あの「中立」という名の「無関心」(indifferenza)が覆い隠す。隠されているのは、ぼくらの世界内存在性なのだけれど、それもまたぼくらの世界なのか。それがぼくらの世界なら、ぼくらはこの世界から逃げ出すことができたのか。否。どこかに逃げ込むことができたのか。否。ただ、忘却の霧のなかで、もはや正義もなく、強さもなく、知恵もなく、中庸もない、真っ白な霧のなかにいるのだろうか。

 かつてキング・クリムゾンが「スターレスにしてバイブルのような黒」と謳ったけれど、ここは黒くはない。真っ白のなかに輪郭をぼかしてしまう「中立性」と呼ばれる場所。そこに蠢くのは「無関心な人々」。ダンテが地獄や煉獄の素材をとった場所と人々のことである。