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人為と善悪とあわいの舞い

連休は清水で薪能を見る。イスラエルからの不穏なニュースを気にしながら、天女が舞い降りたとされる三保松原へ。席は舞台から2列目の僥倖。

陽の落ちる時を計るかのように始まる「羽衣」。地謡が響き、笛が鳴り、鼓の刻みが時の流れを変えれば、異世界への入り口が開く。ただし、その向こう側へにゆくには、天女の「いや疑いは人間にあり 天に偽りなきものを」という言葉を飲み込んで納得せねばならぬ。

そうなのだ。「疑いは人間にあり」なのだ。人は、人の間にあって、疑い惑う。ぼくらはいつだって「もしかしたら」という己の言葉に絡め取られ、身動きがとれなくなってしまう。動けないから疲弊し、消耗し、困窮し、堕落し、朽ちてゆく。思うにそれが、古来、悪と呼ばれてきたのだろう。

『釈名』によれば【「悪」は「扼」(ヤク)である。物を扼困する(=しばりつける)のである】とある。「扼」は「手」によって「厄」(つつむ)。かつて「車」を引いた馬や牛は、轅(ながえ)の先端部分の「軛」(くびき)に繋がれた。「車」の「厄」が「軛」として家畜の自由を奪った。ならば、人の自由を奪うものは何か。「手」の「厄」としての「扼」すなわち「悪」。それは人がその「手」で「扼え」(おさえ)つけること。閉じ込めること。そこで自由を奪われ、そこに困窮してゆくこと。だから、閉じ込められたその場所は「悪」(いずくに)、そう問うこともできる。

そんな「悪」に対する「善」には、「よきもの」としての「羊」が見える。その「羊」が「我」の冠となれば「義」となり、「大」に形容されると「美」と読める。その「羊」が「言・言」と響き合うとき、それは「譱」(ぜん)となり、今では簡略されて「善」と記される。なるほど「善」とは、「よき言葉」がもたらす喜ばしいもの。一方の「悪」は、同じ言葉に押さえつけられ、困らされるときのもの。善も悪も、いずれにしても、その由来は人為にある。

しかし、だからこそ「羽衣」の天女が告げるように、天には偽りがない。人の為せる偽りが、善になりそこなえば悪となって、その人を捉えて困窮させる。その困窮を前にして、天人は舞う。その舞いを前にしてぼくらは、羽衣をひろった漁師とともに、何かに触れる。「羽衣」とはそういう物語だ。

天女の舞いに、僕らは何に触れたのか。「舞」の字を読んでみれば、「無」を冠して、「舛く」(そむく)とある。舞うときに「舛く」のは手や足なのだろう。ふだんの足遣いとは違う足遣いをする。両の手もまた、ふだんとは異なる動きをする。「ふだん」に「舛く」ことは、人がしばしば陥る「錯舛」(サクセン)から離れることに通じる。だから「無」を冠するのかもしれない。いずれにせよ、そんなふうに「舞」の字を読めば、なにゆえ舞いが心地よく楽しいのか腑に落ちる。天女の舞いは、人為によって押し込められた窮境の「いずこ(悪)」を見定め、その閉塞に叛き、人智のあわいを開く。なにせ天の舞なのだ。

そんな舞台に、おもいがけず娘が目を輝かせる。世のあわただしさに疲れきっていた彼女が、ことのほか雄弁になって言う。これは映像化できない。アニメでは表現できない。『犬王』(2022)を例に出して言う。あの舞い、あの歌はあまりにも今の時代に寄りすぎだった。呼吸があわただしい。足運びが忙しすぎる、と。ぼくも『犬王』には違和感を抱いていたっけ。ポップな平安時代というのは、どこまでも現代の色眼鏡で見たものなのだ。それはそれでよいとしても、だ。

けれども、三保の松原で見た「舞」は、ぼくらの眼差しをずらす技があった。いつのまにかぼくらを人為の世界から遠ざけてゆくのはあの呼吸と足運び。それらは統制されながら気配を消し、気配を消しながら立ち上がり、行き交い、沈黙し、上昇し、下降する。

さらには言葉。言葉の響きは、その音節をどこまでも延ばしながら、一語一語のの到来を遅らせ、手垢のようにこびりついた意味を洗い落としながら、意味と無意味のあいだに「あわい」を開く。なるほど「演」は「延」なのだ。流れるような演舞は、そこに呼び出された地霊とともに、ぼくらの目の前で、あの幽玄へ延びてゆく。

ぼくらに垣間見えるのは、人の世のかつての暴力や怨念。そのおぞましいものは、彼方より舞い戻ると、目の前の舞台に舞い、舞いながら何処かへと帰ってゆく。その距離と延長のなかで、ふと自分の息を感じるとき、ぼくらのなかではきっと、閉ざされていた何かが少しだけ開く。そういう仕掛けだったのだ。友人のふとした言葉でその気になった妻の誘いで、擦り切れる寸前まで仕事にへばりついていた娘とともに、またしてもおぞましい戦禍の知らせを耳にしながら、ぼくはそんなふうに感じていた。

三保の松原での「薪能」を見ようと清水に向かったとき、あの「ハマスが二千発以上のミサイルをイスラエルに打ち込む」の報にふれたぼくには言葉がなかった。けれども言葉にしなければ、そう思いながら見た舞台に大いに触発され、この文章を書いている。人の世の善と悪を起源をたどってみれば、どちらも人為。そういえば、修行をして聖(ひじり)となるか天狗となるかは紙一重だという、そんな解説が、その夜のもうひとつ演目『車僧』(くるまぞう)に寄せられていたっけ。

嗚呼、まったく。何が正しいいとか、正しくないとか。悪いとか悪くないとか、結局のところわかりゃしないわけなのだ。それでも、前に進むしかない。きっとそういうことなのだ。

そう思いながら、その夜に食べた清水の寿司はうまかった。