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サボとミュールとサボタージュ:あるいはモレッティの新作『チネチッタで会いましょう』をめぐって

サボはスリッパのように靴ではなく世界観のひとつだ。それも悲劇的な世界観なのだ。
I sabot sono come le pantofole che non sono delle scarpe ma una visione del mondo. Una tragica visione del mondo.

Battuta di Giovanni ne "Il sol dell'avvenire" (2023)

11月公開の『チネチッタで会いましょう』のなかの一節だ。「サボ」(i sabot)は映画のなかでは「ミュール」と訳されている。たしかに、バルボラ・ボブローヴァの履いているのは、赤くてエレガントなヒール付きのミュールだ。ジョヴァンニ/モレッティは、打ち合わせの席でボブローヴァがそんなミュールを履いているのを見て言う。「サボじゃないか!」(Ah, i sabot! )。

ファッションのことはよくわからない。けれどイタリア語の記事を読むと「サボ」(i sabot)と「ミュール」(Le mules)もほぼ同義語で使われるようだ。

ミュールは、サボとも言われるが、フラットな底に1、2センチのヒールがあったり、高くて7センチまでのヒールのあるものを言う。
Le Mules, detti anche Sabot, possono avere il fondo piatto con tacchetto di 1 o 2 cm al massimo oppure un tacco un po’ più alto fino a 7 cm.

https://www.amarilli.biz/tag-prodotto/mules-donna/

 このサイトにはボブローヴァが履いているような高いヒールのあるサボが掲載されている。商品名には「赤サテンのサボ」(SABOT IN RASO ROSSO)とある。なるほど、ジョヴァンニがミュールをサボと呼んでも不自然ではない。けれど、どうしてミュールではなくサボだったのか。

 ミュールもサボも、どちらも踵の部分がオープンでスリッパのようなもので、室内用ではなく外出するためのもの。いわば「外出用のスリッパ」(Ciabatte per usicire)というのが謳い文句。

 日本ではエレガントな靴としてはミュール(Le mules)が一般的で、サボはどちらかといえばごつい感じがあるようだ。

 なるほど、Le mules の語源はラテン語の「calceus mulleus 」 (赤い靴)に遡る。calceus は「靴」、mulleus は「mullus」(赤い鰡〔ボラ〕)のような赤ということで、古代ローマでは裁判官が履いたという。

 ローマ教皇も履く靴にも赤いものがある。フランス語ではそれを「教皇の外出用の靴」を「Mules papales」(教皇のミュール)と呼ぶ。教皇の靴は、イタリア語では文字通り「scarpe pontefici」(教皇の靴)だから「靴」(scarpe)なのだけど、フランス語は「靴」(chaussures)ではなく「ミュール」(Le mules)を使う。そこには遠く遠く「鰡(ボラ)の赤」(mullus)の名残がある。

 教皇ならば「ミュール」は外出用なのだけど、フランスでは一般的に女性の室内履きのことだったらしい。それは同時に、ある種のエロティシズムを纏うものだったはずだ。そのあたりのことは「ミュール小史」と題されたこのサイトを参照してほしい。フランスの宮廷においてポンパドール夫人やマリー・アントワネットが履いたミュールや、フラゴナールの『ぶらんこ』(1767年)のなかで宙を跳ぶピンクのミュールなどの意味を、おもわず想像してしまう。

フラゴナールの『ぶらんこ』(1767年)

 だからなのだろうか。ナンニ・モレッティはボブローヴァの赤いミュールを、ミュールではなくサボと呼ぶ。それはもともと、一本の木から掘り出した木靴のことであり、もともとは農民や労働者たちの履き物だった。オランダではクロンペン(klompen)と呼ばれ、イタリア語ではゾッコリ(zoccoli)と呼ばれたものを、フランス語ではサボ(sabot)と呼んだのだ。

 だからサボは木靴のことでもある。モレッティは、スリッパのようなサボが表す世界観が嫌いなのであって、木靴が嫌いなのではない。むしろ「オランダの木靴」(zoccoli olandesi)には特別な思い出がある。高校を卒業して映画を志した1973年の夏ごろ、イタリアでは白いオランダ風サンダル(zoccoli olandesi)を履いて颯爽と闊歩する女性たちが現れた。『僕のビアンカ』(1984年)のなかで、そんな女性たちの世界観への共感を表明していたのだし、おそらくはモレッティも観たはずのオルミの『木靴の樹』(1978年)の木靴(zoccoli)は、まさに木靴を履いて歩くことが表す世界観を描いていたのだ。

 問題なのは「ゾッコリ」(木靴)ではない。室内ばきのミュールやスリッパと混同された「サボ」の世界観なのだ。それはフランス語のサボはサボタージュに通じる。それは「木靴(サボ)を叩きつけて何かを壊すこと」だった。やがて「労働者が真面目に働かない」ことから、さらには「革命を目的にして工場の機械を破壊する行為」を指し、さらには「軍事的に占領された地域の市民が占領軍の施設や列車などに仕掛ける破壊工作」(レジスタンスのサボタージュ)へと連なるサボ….

 その意味で、モレッティのジョヴァンニは、ボブローヴァのミュール/サボに自分の映画製作へのサボタージュの予兆を見たのかもしれない。実際、バルボラ・ボブローヴァが演じる同名の女優は、ことあるごとにモレッティの演出へのサボタージュを繰り返す。サボ/ミュールを履いてきたことから始まり、脚本を深読みした恋愛感情を表してみたり、覚えるべきセリフを即興的に言い換えてしまったりするのだが、そのたびごとにモレッティ/ジョヴァンニの演出に抗うような理由を持ち出してくる。曰く、私の解釈では… 曰く、カサベテスの即興的な演出だったら…

 なるほど、だからミュールではなくサボだったのかもしれない。ボブローヴァや、その他の人々のささやかなサボタージュによって、ジョヴァンニの構想は少しずつ崩されてゆき、最後の最後に決定的な改変を迫られることになる。その感動的な改変の予兆のひとつが、彼女の赤いサボだったのだろう。