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人の声とオノマトペア

ミケーラ・ムルジャが「femicidio」について語る映像を見た。シェアしようとしてコメントを書いているうちに消えてしまった。もったいないので、少し思い出して以下に記しておく。

ムルジャは言う。「フェミチーディオ femicidio」(女性殺し)という言葉に最初のころは反感があったと。「フェミチーディオ」とは、「フェミン」(女性)「チーディオ」(殺し)の意で、「女性が女性だからゆえに殺される事件」のことを言うのだが、そんなことはこれまで知られていなかった。ところがよく調べてみると、明らかに女性が殺される事件が統計的に多くなっている。これはどういうわけかというので、こうした社会現象の傾向を言い表すものとして「フェミチーディオ」という表現が生まれたと言うわけだ。

今でこそ誰もが使う言葉になったものの、当初はしたり顔の知識人からの反論があったという。曰く、そんな言葉は必要ない、なぜなら「オミチーディオ omicidio 」(人殺し)という言葉の「オモ」=「人」には、男性と女性の双方が含まれているのだから、と。これは「ブラック・ライヴス・マター」に対して「オール・ライヴス・マター」というのと変わらない。大切なのは黒人の命だけじゃない、すべての命が大切なのだ、という主張は、それだけ見れば正しいように見える。しかし、ここでそれをことさら言い募ることで、どうしてこれほど多くの黒人が権力に殺されているのかという現象が隠されてしまう。

もちろん「オール・ライブズ・マター」という表現に飛びついた人のすべてに悪意があったとは思わない。確実にあったのは、認知バイアスとしての「公正世界仮説」だ。これは、この世界は公正にできているから、公正に反する現象には意味があるはずであり、結果的にはすべて公正であるはずだという認知バイアス。この認知の歪みによって、実際に起こっている黒人への暴力は、暴力一般へと薄められ、その特異性を一般性へと解消されながら、結果的になかったものにされてゆく。

「フェミチーディオ」、「ブラック・ライヴズ・マター」そして「ミー・トゥー」などはすべて、それまでにもあったけれど、言葉として認知されていなかった現象に名前を与えている。それがある種の痛みを伴うものであるというのは、それが身体的なものであるからであり、人間の声が響いているからだ。

生きた人間の発する「声」(voce)は、その人間が生きる「受苦」(passione)に「呼びかける」(vocazione)。この呼びかけによって「受苦は共有される」(compassione)。だからこそ新しい現象には痛みが伴い、それゆえ揶揄される。たとえばサウロ(大きなもの)は、この痛みによってパウロ(小さなもの)へと改名する。写真技術によって職を失いつつある画家の痛みから生まれた光の絵画は、まるで印象で絵を描いたようだと揶揄されることで、みずからの名前を持つ。

力を持たぬ人は、地面(humus )にひれ伏すように生きることで、謙譲の精神(umiltà)という倫理を得て、人(umano)となる。その人が集まり目を射られて服従するのが「民」ならば、イタリア語の民(popolo)は、ラテン語の populus (民)から poles (膝の裏側)へと遡り、ginocchio (膝)とならんで一族 gens と男らしさと生殖 generazione の賜物としての集団となる。

しかし、このポーポロは、まさに膝の裏のように、普段は姿を見せることがない。それでもひとたび、革命のような政変が起これば、通りに溢れかえってホッブスのリヴァイアサンのような異様と力を誇示、王を追い落として新たな権力を得ると、どこかに消えてゆくことになるのだ。

こうして、僕らの言葉は、言葉なきものに「人の声」(voce umana)でもって「呼びかける」(appellare)ところからに立ち上がる。「普通名詞」(caso appellativo)とは「何かのものに呼びかけるような場合」(nel caso in cui si appella a ql.co. / ql.cu.)に使われるものにほかならない。ここで起こっていることは、アガンベンにしたがえば、「オノマトペア」(onomatopea)と呼ぶことができるのだろう。ふつうオノマトペアは擬態語・擬声語と訳される。体を「ゴシゴシ」あらったり、犬が「ワンワン」吠えることなどがそうだが、実のところ体を洗うときの音は「ゴシゴシ」ではないだろうし、犬だって常に「ワンワン」と吠えるわけではない。ただ、ぼくらはそういう現象に、そんなふうに呼びかけながら、「名」(onoma)を「作る」(poieo)。それが「オノマトペア」だ。

だとすればぼくらは、いつだって子どものように、ワーワー、ギャーギャーとワイワイ声をあげて、まだ名前のない「痛み」(passione)に、自分の声で呼びかけてゆかなければならない。ヴィーコはそれを「詩的想像力」と呼んでいたはずだ。もちろん「詩的」とは「ポエジア」であり、名前を作るあの「オノマトペア」という言葉に含まれる名前を作り出す働きのことだったはず。

ぼくらの生は日々あたらしい。新しい生を生きる身体は、新しい受苦に声をあげる。ぼくらの声は呼びかけ、呼びかけられたものが姿を表すとき、新しい名前がぼくらのもとに落ちてくる。落ちてきたものを拾いながら、ぼくらはまた新しく生きる。そういうことなのだと思う。