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あけまして...

 「あけまして…」と来たら「おめでとうごうざいます」と続けるべきところ、今年は少し考えさせられた。元日の初詣の帰り道に能登半島の地震の報が入り、翌日には羽田で日本航空(JAL)516便と海上保安庁の航空機が衝突、テレビは報道一色となり、いつもとは少し様子の違う三が日となったからだ。

 正月気分は吹き飛び、だからといって何ができるわけでもない。何かしなければと思うものの、何もできない。そんなもどかしさ。考えてみれば、ロシアのウクライナ侵攻のときも、イスラエルのガザ攻撃にも、そんな「もどかしさ」を感じていた。

 それはきっと、誰かが誰かを殺したとか、どこかで火事があったというニュースにも感じていたもののはず。あちらには悲劇に壊された生活があり、こちらには悲劇を免れた生活がある。そんなこちらだって、今は悲劇を免れているだけで、いつ悲劇に襲われるかわからない。だからといって何ができるわけでもない。そんな「もどかしさ」。

 この「もどかしさ」の奥底にあるのは、ここにあるものがいつまでも確かではなく、いつ失くなるかわからないという感覚。イタリア語には、そういうものを表す形容詞に「precario」がある。これは「不確かで malsicuro 」「移ろいやすく passeggero 」「取り消すことのできる revocabile」ようなもの、自分ではない他の誰かや何かのおかげで「ありがたくも手に入れた ottenuto per grazia」もの、そういうものを示す表現だ。

 興味深いことに、この「precario」はラテン語の動詞「precari」(祈る)から来ている。この「祈る」(precari)はイタリア語では「pregare」。他人に対して何かを懇願したり(cf. Ti prego di ascoltarmi. 「頼むからぼくの話を聞いてくれ」)、あるいは神に祈願したり何かを求めることだ(cf. Prego Dio che mi aiuti. 「神に祈って助けを求める」)。

 この「祈り・懇願」(precari)のポイントは、自分が欲しているものが手元になく、それを自分ではない誰かの力によって手に入れようとするところにある。「祈り・懇願」を通じて手に入れたものは、しかし、いつ「呼び戻す/取り消す revocare 」ようなことが起こってもおかしくない。今はある。けれど、いつまでもあるとは限らない。それゆえ「移ろいやすく passeggero」、「不確か malsicuro」、すなわち「不安定な precario」なもの。

 そんな「precario 」という言葉を最初に耳にしたのは、たしかパオロ・ヴィルツィーの『見わたす限り人生』(2008)だった。プロレタリアート(proletariato:労働者・無産者階級)ではなくプレカリアート(precariato: 非正規労働者・生活の不安定な階層)を描きながら、「fisso」(正規の安定した雇用)ではないことに無力を感じながら、どうしよもなく「precario」(非正規の不安定な雇用)な状態で生きることを描くような映画だった。

 そんなヴィルツィーの作品には、とりわけ女性の生活者たちによる安定した職場や生活を求める「祈り・懇願」(preghiera)が描かれていたのではなかったか。その祈りがこうして形となったのは、映画監督のパオロ・ヴィルツィーと当時はサルディニアのブロガーだったミケーラ・ムルジャの出会いのおかげだったという。サルディニアのブロガーだったムルジャは、そのころ既存の権威、男性社会の傲慢さに対する激しい抵抗の言葉をあびせかけていた。それは、イタリアの辺境にあるサルディニアからの、抑圧された性の声による「祈り・懇願」とも言えるものだったはずだ。

 そんなムルジャのような「祈り」(preghiera)は、当たり前で確固としたものに思われる日常が、じつのところを「不安定 precario 」だったことを暴露させながら、世界が公正で揺るぎないものだと信じる人々の心に揺さぶりをかけ、亀裂を入れてゆく。そして、実のところ人は誰もが、ただ「ありがたくも手にしただけで」、「不確かで malsicuro」、「うつろいやすく passeggero 」、いつでも「取り消しできる revocabile」、そんな世界に生きているという、「不都合な真実」をつきつける。

 もしかするとそれが、いまぼくらの生きている2024年の元旦ではないだろうか。なんてことが起こったんだ。なんて悲劇なんだ。みんななんとか無事でいてほしい。少しでも早くライフラインが復旧してほしい。食料が届いてほしい。暖かくすごしてほしい。かつての日常をはやく戻してやってほしい。でも、なにもできない。もどかしくも、ただ祈るしかない。

 ぼくらが心底から祈るとき、露わになるのはこの世界が実に「不確かなもの precario 」だということ。なにしろ事故や病気、事件や死は、そこやかしこに待ち構えている。嵐も雷も、地震も津波も、あたりまえにやってくる。ただぼくらは、今のところ、そんな悲劇からたまたま免れさせてもらっているだけ。それは少し目を凝らせばわかる。ふだんは誰もが目を背けているだけ。

 そんな世界を目の当たりしながらもなお、その「もどかしさ」のなかで、今のこの喜びを味わい、この幸せを噛みしめ、この生活を守りながら暮らそうとすること、それが祈ることなのかもしれない。

 「もどかしさ」と「祈り」。それは、自分の力ではどうしようないことを自覚しながら、自分ではない誰かへの祈願、何ものかへの祈り。ちょうどあの世界系アニメが描くような、この生活を守らなければ世界は崩れてしまうという心境。その先にはきっと、静謐で、厳かで、崇高なものがあるような気もする。

目の前の悲劇に、己の無力をかみしめつつ、それでも自分の生活に向かい、みずからの命を使用すること。ぼくは今年の元旦に、そんな「祈り」のようなものを感じていた。