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戦場の愛おしいもの

この記事によれば、昨日(2023年10月24日)の国連安保理会合で、グテーレス事務総長はハマスの攻撃を正当化はできないとする一方、「パレスチナの人々は56年間にわたり、息苦しい占領下に置かれてきた」と指摘、「ハマスの攻撃が理由なく起きたわけではないと認識することも重要だ」とした。これに対して、イスラエル エルダン国連大使は「事務総長はすべての道徳と公平性を失ってしまった。事務総長はテロを容認して正当化している」と批判したという。

ぼくはイスラエル大使の「すべての道徳と公平性を失ってしまった」という言葉に、論理的な表現ではなく感情的な表現を見る。感情的な表出としてはわからなくもない。彼らがハマスのテロと呼ぶものは確かに悲惨でおぞましい。肉親を殺され、人質にされた者のやりきれない気持ち想像できる。しかしだ。だからといって、自分たちちの報復は正当化されるのか。自分たちがやってきたことは忘れてしまっていものなのか。少なくとも外から見ればそう見える。

じっさいグテーレス事務局長が指摘するのもそこだ。公平を期すならば「攻撃」の理由は双方に問われるべき。「ハマスの攻撃が理由なく起きたわけではない」というのは、論理的な表出としては「道徳と公平性」に訴えるものに見える。けれども、イスラエルにはそうは見えない。あるいは見えなくなっている。じぶんたちはどこまでも被害者なのだと、感情的に訴えているように見えてしまう。じぶんたちが加害者になろうとしているという自覚や、加害者であったかもしれないという意識は、どこかに追いやられているようだ。

歴史をひもとけば、加害の自覚やその罪の意識は、その加害者が勝者の側にあるかぎり浮上しない。それは隠蔽され、忘却をめざして無意識の淵に追いやられてゆく。たとえ浮上するとしても、ある種の病的な形態をとるから、それがなんの意識なのかは正体不明のままにおわる。

罪の意識が立ち上がるのは、政治的に加害者の権力が剥奪され、被害者から追訴され、裁かれるときを待つしかない。しかし、芸術はその意識を素材として作品を産むだろう。ひるがえってそれは加害者の側の意識を刺激する。けれどもその権力にひるむことはない。芸術はうなぎだ。ヌルリと追求をまぬがれ、不都合な場所の不都合なものを盗み出し、すこしばかり形を変えて世間に向けて売り捌く。

ジャーナリズムもそんな芸術的な表現活動に含まれると思う。言葉、写真、映像を通し、あれやこれやと工夫しながら、罪の在処とその本当の姿に接近しようとする。その表象は加害者の自己意識の働きを暴き出し、被害者の苦悩に共鳴し、痛みを共にして罪のありかをつきとめようとする(かに見える)。

ぼくらは、ふつう、他人の痛みが痛くない。けれども、こうして生まれてくる作品の数々には共感する。まるで他人の痛みが痛いかのように共感してしまう。痛みは目の前の痛みにだけ共感できるのではない。どんなに遠くに離れていて、たとえ地球の裏側であったとしても、ぼくらには共感することができるのだ。

そんな共感の働きを、ぼくらの言葉では「惻隠の情」あるいは「仁」という。ぼくはイタリア語教師という仕事柄、しばしばそうするように、これをイタリア語で考えてみたい。「惻隠の情」あるいは「仁」は、イタリア語では「カリター」(carità)が近いと思う。それについて考えてみる。

「Carità」はラテン語の「caritas」から来る。形容詞の「大切な、貴重な」(carus / caro)に由来する名詞で、意味は「1) 高値, 高価 2) 尊敬, 好意, 愛情」とある。そして第3の意味としてキリスト教の「人間愛、 隣人愛」とある。この「人間愛」とは、神が人間を慈しみ愛してくださるという意味であり、「隣人愛」は、そんな神の働きを通しての隣人を愛することだ。すなわち「Carità」は「愛」なのだけど、神による愛であり、神を通しての愛のこと。この愛とは「大切にする」(avere caro)ことであり、だから「carità」なのだ。

聖書のラテン語訳において、「caritas」という訳語があてられたのは、ギリシャ語の「アガペー  ἀγάπη 」だ。その動詞は「アガパオ ἀγαπἀω 」だが、まさに「〜を大切にする」「愛情を持って迎える」という意味のようだ。しかし、男女がセクシャルな意味を含んで「愛する」のは「エラオー ἐράω 」(エロス的な愛)であり、家族に関しての「愛」は「ステルゴー στέργω」、そしてセクシャルなもの含まないもの「フィレオー φιλέω 」(性的なもののない友愛)であって、アガペーはそのどれとも違う「愛」なのだ。

アガペーを理解するのにわかりやすい例は、たぶん「死者への愛」というものだろう。たとえば戦場における死者への慈悲心。ホメロスによる『イリアース』を思い出そう。アキレスに引きまわされたヘクトル。その亡骸を葬らせてくれたと懇願した父プリモウス。描かれているのは倒れゆく英雄たちであり、その死への哀悼が語られる。ホメロスが描くのは勝者だけではない。ギリシャ軍の戦いを語りながら、そのギリシャに敗れた敗者にも寄り添いながら、要塞都市イーリオスの崩壊とトロイアの滅亡を哀悼していたのではなかったか。

アガペーを、男女間のセクシャルなもの、家族間の愛、そして友人との愛などを超えて、戦う相手の死に対して示される英雄的な哀悼としてとらえるなら、その「愛(アガペー)」(ἀγάπη)はやがてキリスト教的な「愛(カリタス)」(caritas)として蘇り(ぼくは浅学にして知らないが、イスラム的なものにもこの同じものがあるはずだ)、さまざまな形で今にまで受け継がれているのだが、ぼくらが目の前にしているのは、この普遍的な《愛》の危機なのかもしれない。

だからこそ今ぼくらは問いなおさなければならない。思い出さなければならない。ほんとうに「大切なもの」(caro)はどこにあるのか。胸を掻きむしりたくなるほど愛おしいものへの感性は失われたのか。それを前にするとおもわず手を差し伸べたくなるような気持ちを忘れてしまったのか。人間が人間として生まれたときから持っていたはずの共感は消えてしまったのか。たとえ戦場にあっても、むしろ戦場にあるからこそ発揮されるあの苦しみと痛みへの想像力は、いったいどこに行ってしまったのか、と。