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【architecture】GALLERIA[akka]|安藤忠雄

大阪ミナミの繁華街にひっそりと主張するでもなく静かにこの建築は建っている

時はバブル真っ只中の1988年に完成した商業建築だ
建築家安藤忠雄氏は今でこそ大規模な美術館や公共建築を手がけているが、この頃は小さな商業建築にコミュニティの可能性を見出そうと多くの商業建築を設計している

その中でもとりわけ秀逸なのがGALLERIA[akka]である

(外観写真はこちらのHPより引用)

間口8m奥行き40mという、いわゆる”うなぎの寝床”と呼ばれる敷地に地下1階地上4階のビルを設計した

狭くて高い入り口を入ると早速薄暗くなってくる
歩みを進めると地下から最上階の天井まで貫く大吹抜け空間になっている
吹抜けに沿って階段や廊下が設けられており、ある意味迷路である
子どもが鬼ごっこをしたらかなり楽しいだろう
ただし吹抜けがあるので絶対にやらないで欲しい

この吹抜けの最上階には可動式のトップライトが仕込まれている
雨の日は風も雨も入ってくるという大変やっかいな吹抜けであるが、そこから差し込む光が地下まで達する頃には弱々しく優しく照らす光となっている

ちょうど深海に差し込む細やかな光のようなイメージだ

この空間はある種神秘的な空気を感じさせるものがある


商業建築である以上、あくまで収益をあげる物件である必要がある
その観点からすると可能な限りテナントとして収益となる面積を多くとるのがセオリーだ
しかも時はバブルである
高家賃でも借り手はいくらでもいる時代である

そんな時代に建物の半分以上が吹抜けでしかも地下も掘るという気狂いのような建築をつくり出す建築家は、建築を通して社会に事件を起こそうとしていたのではないだろうか…

「建築は投資の道具でいいのか?」


1989年2月にこの建築でイサム・ノグチの展覧会が行われた
当初別の会場で予定されていたが、この建築を訪れたイサム・ノグチが「この雑踏の商業スペースの方が面白い」と即断して決定したというハプニングがあった
残念ながら1988年の12月にイサム・ノグチは急死してしまい図らずも追悼展となってしまった


余談だがイサム・ノグチ(1904-1988)は国籍はアメリカであるが父親を日本人、母親をアメリカ人とする日系アメリカ人である

日本とアメリカで幼少期を過ごしアメリカで彫刻家としての道を歩む
晩年は香川県の庵治町(現在の高松市牟礼町)にアトリエを構えた
庵治町で採れた庵治石に魅せられてこの地を選んだと言われている
この石は北海道のモエレ沼公園でも使用されている

イサム・ノグチは類稀な才能を持ちながら日系アメリカ人である故の苦しみを抱えた生涯を送った
広島平和記念公園のモニュメント(慰霊碑)は当初イサム・ノグチの設計でつくられる予定であったが、戦勝国の血の入った者という理由で却下されてしまう
この慰霊碑は後任した建築家丹下健三によりイサム・ノグチの慰霊碑に誠意を示す形でつくられた

またアメリカでは『ケネディ大統領墓所』を設計するも日本人であるとの理由で却下されてしまったのだ

本人の窺い知るところとは別のところで不運に巻き込まれてしまったイサム・ノグチであるが、それゆえにイサム・ノグチがアメリカと日本に与えたメッセージは大きい
今もって日本でもアメリカでもイサム・ノグチの作品の人気は根強い
ある意味どちらの国からも愛された彫刻家であり、日本もアメリカも分け隔てなく愛した彫刻家だろう

昨日のnoteで紹介した北海道のモエレ沼公園がイサム・ノグチによって設計されたことは平和を象徴するものとして彼の歴史が証明している


安藤忠雄氏は1989年に東京青山にコレッツィオーネという商業ビルを設計してからは商業建築とは距離を取るようになったと言う
それまでは神戸の異人館界隈や大阪の繁華街などでも多くの商業建築を積極的に手がけてきた
それは商業建築にこそ人と人が集う可能性を秘めており、コミュニティの原点だと考えていた為だ
そんな商業建築はバブルと共に単なる投資の対象でしかなくなってしまった
商業建築である以上収益性が求められるのは当然であるが、思い描く世界と現実世界の狭間での葛藤に答えが見出せなかったのだろう


バブル期の経済至上主義の真っ只中につくられた建築でイサム・ノグチの追悼展が行われたことは奇跡である

そこには「建築は投資の道具でいいのか?」
という問いに対するヒントが隠されているように思う

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