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キリスト教に潰され普仏戦争で復活したオリンピック

最近ちょっと忙しく、またしてもしばらく記事が書けていませんでした…なるべく毎日投稿できるようにしたいですね。

最近あったことを振り返ってみると、良くも悪くも「オリンピック」に関係するニュースが色々話題になっていたんじゃないかと思います。

例えば、元首相で東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長は「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」との発言で炎上中(1)で、1月4日の記者会見では菅総理が「人類が新型コロナに打ち勝った証し」として五輪を開催しようとしていることを批判されるなどしていました(2)…どちらかと言えば悪いニュースばかりだし、前者に関してはもはやオリンピックも関係ないかもですね…。

さて、そんな悪い話が色々持ち上がってしまっているオリンピックですが、今回はオリンピックがどのような経緯で生まれ、どのようにして現代でも行われているのか…気になったので、オリンピックの歴史について調べてみました。

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古代のオリンピック

いちばん最初のオリンピックが古代ギリシャで行われていたというのは皆さんも何となくご存じのことだと思います。

古代オリンピックは定説によれば、紀元前13世紀ごろ、インド・ヨーロッパ語族の移動の第2陣が、ペロポネソス半島に定着したころから、オリンポス山の神々への奉納祭典に変化が生じ、そこから始まったと言われています(3)。

きっかけになったのは「トロイの木馬」でも有名なトロヤ戦争でした。この戦争を経た後に、英雄の葬礼や陣中の慰安のための軍技協議が行われ始め、これが祭典に加えられたことでオリンピックは始まりました。

オリンピアで主神ゼウスを祭ったオリンピア祭は前776年に”復活”されたものだと言われていますが、その起源は古く、ドーリス人の間で行われていた祭儀であるとするのが定説です。祭典の復活の年がなぜ前776年なのかというと、そのころレバノン杉の交易で有名だったフェニキア人から文字が伝わり、優勝者名を記録することができるようになったのが前776年の大会で、それを第1回としたという説が有力だそうです。

その後、デルフォイのアポロン神域で行われたピティアPythia祭(前582)、コリントスの海神ポセイドンを祭るイストミアIsthmia地峡祭(前582)、ゼウスのためのネメアNemea祭(前573)が加わり、オリンピア祭典を含めてギリシア4大祭典競技と言います。

オリンピア以外の3種類の祭典は短い期間で断絶してしまったのですが、対してオリンピア祭典は紀元393年年、ギリシアがローマの属州となってしまった後にもずっと続きました。オリンピアは他の3祭典と比べ、ペロポネソス半島の北西部の辺境に位置したため、内乱や興亡にあまり影響されず、それが長く続いた秘訣でした。オリンピアが敵から攻められにくい位置になければ、オリンピックはオリンピックという名称ではなかったかもしれませんね。

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ペロポネソス半島の地図.4大祭典の場所を示すと、オリンピアだけ辺境の地にあったことがわかる.アナトリア半島(現在のトルコ)からは攻めにくい。

しかし、オリンピアは紀元394年に、時のローマ帝国皇帝、テオドシウスによって禁止されてしまいました。テオドシウスは380年ごろからキリスト教を国教と定めて異教徒を弾圧しており、「肉体は魂の単なる奴隷である」とした初期キリスト教がローマ帝国内で地歩を占めたことで、オリンピアが目の敵にされたということです。祭典が行われていた神殿は間もなく廃墟となりました。

その後、19世紀になってからオリンピアは「オリンピック」に名称を変えて復活することになりますが、それまでオリンピアの所在が不明であったのは、半島の地名が、入植した人々の言語であるスラブ語に代わっていたためだったと言われています。

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近代のオリンピック(前半戦)

近代オリンピックの淵源は、ルネサンスとギリシア独立戦争によって幕を開けます。

なぜルネサンスが関わるのかというと、ルネサンスによって、それまでキリスト教的な観点から原始的であると貶められてきた古代の様々な芸術、祭典、慣習が再評価されたためです。歴史学では、これを人文主義「=ヒューマニズム」の到来と言います。これに、17~18世紀の啓蒙主義がさらに拍車を掛けました。

古代体育の再評価をせんとした人物にウィンケルマンという啓蒙主義者がいましたが、彼はオリンピア発掘の道半ばで倒れてしまいます。続くイギリス人のチャンドラーは、オリンピア神殿の廃墟を見つけることに成功しましたが、オスマン帝国の国外退去命令で発掘を断念しなければなりませんでした。

近代オリンピックの歴史を繙くときに欠かせないのが、ギリシアとオスマン帝国という二つのアクターです。

ギリシアはビザンツ帝国が滅亡した1453年以降、ずっとオスマン帝国に支配されていました。19世紀初めになり、フランス革命やナポレオンの台頭によってナショナリズムの意識が芽生えたギリシアは、独立しようと1821年に独立戦争を始めたのでした。この独立戦争にギリシア側に立って協力したのがイギリス、フランスなどのヨーロッパの大国です。

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ギリシア独立戦争(1821~1829年)の様子.Brewminate ”The Greek War of Independence: The Battle of Peta”より借用。

元々、オーストリアの宰相でウィーン体制を主導したメッテルニヒなどは、ナポレオン登場の反省から、ナショナリズム的なものが各国で盛り上がることに警戒心を抱いており、イギリス・プロイセン・オーストリア・ロシア・フランスで構成された「神聖同盟」は、ギリシアが独立しようとする動きを好ましく思ってはいませんでした(4)。

しかし、ロシアのニコライ一世が南下政策によるギリシア支援を始めたことを皮切りに、神聖同盟の足並みは崩れていきました。イギリスとフランスも東洋進出を狙って支援を強化していきました。こうして、ギリシアは1829年に独立を達成することができたというわけです。ここに、オスマン帝国はギリシアへの影響力を失い、ヨーロッパの啓蒙主義者らは、自由にオリンピア神殿の発掘が可能となったのでした。

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近代のオリンピック(後半戦)

しかし、もちろん遺跡が発掘できたからと言って、すぐにオリンピックがヨーロッパで市民権を得たというわけではありません。

オスマン帝国に対する勝利の後、バイエルンからギリシア国王として迎えられたオットー1世は、フランス帯によるオリンピア発掘(1827~1829)、体育史家クラウゼJ. H. Krauzeの著書『オリンピア』の発刊(1838)、ベルリンにおけるクルティウスのペロポネソス半島旅行報告(1852)などに刺激されて、ナショナリズムの高揚を狙って、オリンピックの復活を計画し、1859年に第1回大会を開きました(5)。

しかし、これは近代的なスポーツの知識がなく大失敗。続く第2回は1870年に開催されましたが、これもまた失敗に終わります。第3回はドイツ皇室が支援したクルティウス指揮のオリンピア発掘隊がギリシアに到着した1875年に開催されましたが、これも参加者わずか24名……ギリシア独立記念オリンピックは、1889年の第4回でピリオドが打たれてしまいました。

その後、うずもれた古代ギリシアの遺跡発掘で古代オリンピア祭の輪郭がはっきりしてきたこともあり、体育による文教政策を実行しようとしていたフランスの教育学者クーベルタン男爵が、1892年11月、これを復興させるため、「国際的なオリンピック競技大会」を初めて提唱しました。

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ピエール・ド・クーベルタン男爵(1863-1937年),フランスの教育者,目と髭がおちゃめ。フリーメイソンにも所属していたとか。

クーベルタン男爵は、プロイセン・フランス戦争(普仏戦争とも、1870~1871)に敗れた祖国を立て直すために、教育改革を主張していた人物でした。彼は改革を主張しているうち、やがて肉体と精神の調和を目指す古代ギリシアの体育に魅せられるようになったといわれています(6)。普仏戦争の敗北でクーベルタン男爵が度し難い悔しさを感じたことで、オリンピックの構想が始まったと言ってもよいでしょう。

1892年にオリンピック競技大会を提唱したクーベルタン男爵ですが、第1回大会はほとんど反響がなく、途方に暮れてしまったみたいです。1894年、アマチュアリズム問題(「生計のためにスポーツをする者は除外せよ」という考えから、選手には賞金を与えないべきであるとする考え方の是非を問う論争)を主要な議題としてパリ大学ソルボンヌ講堂に集まった12カ国代表の前で、クーベルタンは再度、オリンピック競技復活を提案します。今度は、前年の1893年にデルフォイで見つかったアポロン讃歌にメロディを付け、会場内で歌手に歌わせたことなどが功を奏したのか、満場一致で大会の実施が決まりました。このとき、現代でもニュースで時々話題になるIOC(国際オリンピック委員会、International Olympic Committee)が創設され、国際的なオリンピックが幕を開けたのでした。

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いかがだったでしょうか。

古代ギリシャの地形、フェニキア人から伝わった文字、ローマ帝国と初期キリスト教、ナショナリズム、普仏戦争など…思いのほか世界史と絡めて捉えることのできる、新しいオリンピック像を描くことができたのではないかと思います。

クーベルタン男爵は、オリンピックを「ヨーロッパ人がオスマン帝国に勝った証し」と捉えていたかもしれませんね。果たして菅総理は、オリンピックを「人類が新型コロナに打ち勝った証し」とすることができるのでしょうか(別にしなくてもいいと思いますが)。今後の動向を注視したいと思います。

ー2021年2月4日

(1)朝日新聞「森会長の発言、海外でも報道 「女性がたくさん入っている会議、時間かかる」」2021年2月4日,夕刊1面.
(2)朝日新聞「緊急事態「限定的集中的に」 衆院解散「感染対策を優先」 首相会見要旨」2021年1月5日,朝刊4面.
(3)"オリンピック", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-02-04)
(4)村田奈々子『物語 近現代ギリシアの歴史——独立戦争からユーロ危機まで 』中央公論新社,2012年.
(5)"オリンピック", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-02-04)
(6)Ibid.

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