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坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑭
B-2 Unitsとダンスリー
NHKで放送されたB-2 Unitsの公開収録を参照しつつ、同バンドについて、更に深く掘り下げていきたい。
まずはB-2 Unitsが結成された経緯を、前出とは別の資料より振り返ってみよう。
当初は『B-2 UNIT』のような音楽を志向したものの、次第に『左うでの夢』の音楽性に接近。最終的には即興性を重視したバンドになったようである。
公開収録のMCで、バン
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑬
B-2 Unitsと立花ハジメ
『左うでの夢』のレコーディングを通じて、ロビン・トンプソンが加入したB-2 Unitsとは、どのようなバンドであったのだろうか。バンド結成のキーパーソンとなった立花ハジメにフォーカスしながら、この点を探求していきたい。
ロビン・トンプソンらとのレコーディングによって、打ち込みではなく、セッションの面白さに目覚めた坂本であったが、バンド結成の直接のきっかけは、立花
消えゆく音、終わらない音楽――『Ryuichi Sakamoto | Opus』の公開に寄せて⑤
楽曲解説
Lack of Love
BB
Andata
Solitude
for Johann
Aubade 2020
Ichimei - small happiness
Mizu no Naka no Bagatelle
Bibo no Aozora
Aqua
Tong Poo
The Wuthering Heights
20220302 - sarabande
Th
消えゆく音、終わらない音楽――『Ryuichi Sakamoto | Opus』の公開に寄せて④
楽曲解説
Lack of Love
BB
Andata
Solitude
for Johann
Aubade 2020
Ichimei - small happiness
Mizu no Naka no Bagatelle
Bibo no Aozora
Aqua
Tong Poo
The Wuthering Heights
20220302 - sarabande
Th
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑫
もう一人のロビン
共同プロデューサーのロビン・スコットの他に『左うでの夢』では、もう一人のロビンが登場する。ピーター・バカランの紹介でアルバムに参加したロビン・トンプソンである。
ロビン・トンプソンは、ピーター・バラカンのイギリス時代の友人であり、レコーディングを見学しに来たことがきっかけで、急遽レコーディングのメンバーに加わった。ロビン・トンプソンはマルチ・プレイヤーであり、サックス、笙(し
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑪
JAPANからの影響と『B-2 UNIT』との連続性
1981年10月5日にリリースされた3rdアルバム『左うでの夢』は、2ndアルバム『B-2 UNIT』(1980年9月21日リリース)と4thアルバム『音楽図鑑』(1984年10月24日)という評価の高い作品の間に挟まれている。そして同時期にリリースされて名作として名高いYMOの『テクノデリック』(1981年11月21日)と同じタイミングで発
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑩
1981年の『NEO GEO』
坂本龍一は、『NEO GEO』を発表後、国内4か所でツアーを行っている。このツアーパンフレットで、坂本は、音楽で新たな世界地図を創造すると、高らかに宣言した。
1987年にニューヨークと東京でレコーディングされた『NEO GEO』は、国際色豊かなアーティストが参加し、そのような誓いを実現した作品となった。
しかし新しい地図は、いつどのようにして出来上がったのだ
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑨
坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアン
前節ではNEO GEO(Neo Geography)的な観点から、坂本龍一とニューヨークの距離感について、『B-2 UNIT』をレコーディングした1980年では、坂本の心理的な距離感としては、ニューヨークよりロンドンの方が近かったという議論を展開した。
このことは、ロンドンでレコーディングし、デニス・ボーヴェルやアンディ・パートリッジなどイギリスのアーティス
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑦
ノーウェイブとニューウェイヴ
前節ではフリクションのレックを取り上げることで、1970年代後半までの東京とニューヨークの温度感の違いを浮き彫りにすることで、当時の音楽的状況の変化や、坂本龍一とPASSレコードの微妙なスタンスの違いを明らかにした。
それでは、レックがニューヨークアンダーグラウンドシーンの空気を東京に持ち帰えるべく帰国した2年後の1980年、坂本龍一の音楽的な興味はどこにあったの
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑥
NYアンダーグラウンドシーンと東京をつなぐレック
前節ではPASSレコードでの一連の活動を、『B-2 UNIT』までの助走であると論じた。後に『B-2 UNIT』の共同プロデュースしたPASSレコードオーナーの後藤美孝がそのようにコメントしていることに加え、当時の坂本が抱いていた「アンチYMO」の萌芽を、この時期に見いだすことが出来るからである。
アンチYMOが『B-2 UNIT』で具現化され
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑤
B-2 UNITへの助走
前節では1978年の加藤和彦プロデュースの野田テレサのジャマイカでのレコーディングが、地理的距離感と心理的距離感のねじれという、NEO GEO的体験の原初であったと記した。
ここでは本題に戻して、坂本龍一の本格的な海外レコーディングについて詳細に取り上げていきたい。
坂本龍一の本格的な海外レコーディングは、1980年リリースの2ndアルバム『B-2 UNIT』となる
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて④
坂本龍一の海外ミュージシャンとの交流
前節では1984~1988までを振り返ってみたが、一度ここで視点を改めよう。
近藤等則は、YMOがデビューした1978年にはNYに一時的に移住、NYのアヴァンギャルドな音楽家と交流し、1981年にはビル・ラズウェルとアルバムを制作している。1984年には、ビル・ラズウェルをミキサーに迎え、自身のバンド、IMAで『大変』をレコーディング、1986年にはビル・
坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて③
「TOKYO MEETING 1984」、そして1985年のインクスティック・セッション
坂本龍一とビル・ラズウェルの初共演は、近藤等則主催のイベント「TOKYO MEETING 1984」であり、これがきっかけとなり、『NEO GEO』の制作に繋がっていったという背景について、これまでに記してきたとおりである。
『NEO GEO』のリリースが1987年であることを考えると、「TOKYO ME