坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて③
「TOKYO MEETING 1984」、そして1985年のインクスティック・セッション
坂本龍一とビル・ラズウェルの初共演は、近藤等則主催のイベント「TOKYO MEETING 1984」であり、これがきっかけとなり、『NEO GEO』の制作に繋がっていったという背景について、これまでに記してきたとおりである。
『NEO GEO』のリリースが1987年であることを考えると、「TOKYO MEETING 1984」以降の3年間では両者のどのような交流があったのだろうか。本節ではこの点について解説を進めていきたい。
1986年にリリースされたPIL(元セックス・ピストルズのジョン・ライドンによるバンド)の『Album』に坂本は参加している。同アルバムのプロデュースをビル・ラズウェルが手掛けたことが直接的なきっかけである。
続いて、1985年10月23日に六本木インクスティックで、坂本龍一ほかに、ビル・ラズウェル(ベース)、近藤等則(トランペット)、山木秀夫(ドラム)、カルロス・アロマー(ギター)をメンバーにした即興セッションが行われる。
このセッションは、マイルス・デイビスとの共演で知られる、ジャズ・ドラマーのトニー・ウィリアムスのアルバムをビル・ラズウェルがプロデュースし、東京でレコーディングする予定であったが、トニー・ウィリアムズがビザの問題で来日できなくなり、ビル・ラズウェルの提案によって、レコーディングに参加する予定だった坂本龍一や近藤等則らとのセッションが、急遽スケジュールされたのである。
近藤等則主催イベント「TOKYO MEETING 1984」への参加、PIL『Album』のレコーディング・セッション参加、1985年のインクスティック・セッションを経て、1987年リリースの『NEO GEO』制作へ結実するのである。その後も坂本龍一とビル・ラズウェルとのコラボレーションは継続する。
1987年7月27日の「Live Under The Sky '87」では、SXL(Sakamoto x Laswell)という坂本龍一とビル・ラズウェルを中心メンバーとしたバンドが出演が企画されたのである。もっともこのライブは坂本龍一が耳の急病で入院したことから、坂本の出演は急遽キャンセルとなっている。
坂本龍一 、山下洋輔、ビル・ラズウェルによる幻のアルバム
それでも両者の交流は続き、1988年には坂本龍一、ビル・ラズウェル、山下洋輔の3者がNYでセッションしてアルバムを作るプロジェクトが立ち上がったものの、結局3者が揃ってのレコーディングは実現していない。そして同年には音源は完成していたものの、リリースは1993年になっている。
リリースの目途が立たなかった理由について、坂本は以下のようにコメントしている。
坂本のコメントを読む限り、舵取りの生田朗が不在となったため、NYでの3者によるセッションも調整がつかなかったのではないかと想像できる。
坂本龍一とビル・ラズウェルを引き合わせた生田朗が、学生時代に山下洋輔の事務所に出入りしていたことや、坂本が参加したPILのレコーディングで、たまたま山下洋輔が隣のスタジオでレコーディングしており、坂本龍一はジョン・ライドン、ビル・ラズウェル、山下洋輔と毎晩飲みに出かけるなどの交流があったことを考え合わせると、生田朗がコーディネーターとなり、テラピンから坂本、山下、ビルによるアルバムがリリースされた可能性は十分に考えられるだろう。もしかしたら、大々的にプロモーションがなされて、ワールドツアーが組まれていたかもしれない。
しかしそれらは夢想に終わったのである。『asian games』と題されたこのアルバムは、生田朗が不在の状況で、坂本龍一が部分的に関与したまま、1988年に完成するが、実質的にお蔵入りとなり、YMOの再生で世間が沸き立った1993年にひっそりとリリースされることになったのである。不遇であったとしか言いようがないだろう。
坂本龍一による同作の回想を読むと、何ともやり切れない気持ちになると言わざるを得ない。
振り返ってみると、YMO散開翌年の1984年に近藤等則のイベントで坂本龍一はビル・ラズウェルと共演。1985年にはビル・ラズウェルがプロデュースしたPILのアルバムへ参加し、偶然の成り行きから、六本木インクスティックでセッションが実現。1987年には生田朗の協力のもとでビル・ラズウェルがテラピン・レーベルを設立し、同レーベルの第1弾として『NEO GEO』をリリース。その後は、SXLでの坂本龍一急病による出演キャンセル、そして不慮の事故による生田朗の他界、坂本龍一、山下洋輔、ビル・ラズウェルの3者によるアルバムの不調と、坂本龍一とビル・ラズウェルの交わりあった1984年~1988年は、運命の翻弄された激動の5年間であったと言っていいだろう。
そして、1985年の『Esperanto』でのアート・リンゼイとの共演も含めて、生田朗が坂本龍一を海外のアーティストと引き合わせる手腕のすごさを痛感させる5年間であったとも考えられるのである。
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