坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑪
JAPANからの影響と『B-2 UNIT』との連続性
1981年10月5日にリリースされた3rdアルバム『左うでの夢』は、2ndアルバム『B-2 UNIT』(1980年9月21日リリース)と4thアルバム『音楽図鑑』(1984年10月24日)という評価の高い作品の間に挟まれている。そして同時期にリリースされて名作として名高いYMOの『テクノデリック』(1981年11月21日)と同じタイミングで発表されたことから、印象の薄い作品となってしまったことは否めない。
このアルバムでは、珍しく坂本が多くの楽曲でヴォーカルを担当していることから、「坂本の歌」がフォーカスされる傾向にあるが、2015年にリリースされたリイシュー版に追加されたインストルメンタル・バージョンを聴くと、エイドリアン・ブリューのギターが作品の雰囲気に大きな影響を与えていることが判る。
後に坂本は、JAPANの影響でヴォーカルに挑戦したと語っている。『B-2 UNIT』のレコーディングでロンドンに訪れた際、デビッド・シルヴィアンとのコラボレーションで「Taking Islands in Africa」を、JAPANのアルバム『孤独な影』のためにレコーディングしたことが、ヴォーカルにチャンレンジすることになったきっかけとして考えられる。
このエピソードを踏まえると、『B-2 UNIT』と『左うでの夢』の連続性を指摘することができるだろう。
一方で『左うでの夢』は『B-2 UNIT』のように電子楽器をメインとした打ち込み主体ではなく、アコースティック楽器を多用したセッション中心の作品となっている。
「サルとユキとゴミのこども」や「かちゃくちゃねぇ」のように、糸井重里や矢野顕子による日本語の歌詞(1982年にコラボレーションが実現する忌野清志郎にも作詞をオファーしたが実現していない)に乗せて坂本が歌う明るい印象の曲だけでなく、「The Graden Of Poppies」や「Tell'em To Me」のように、JAPANを連想させる陰翳が強調されたダークな雰囲気の楽曲もあり、作風はバラエティに富んでいる。このような多様性は作品に深みを与えた反面、その複雑性ゆえに本作の受容を難解なものにさせてしまったとも考えられる。
また1981年では、引き続きニューウェーブの影響を受けていたとも想像できる。
そのことは、『左うでの夢』の後に本格的にレコーディングが再開された『テクノデリック』において、坂本が作曲した「体操」とトーキング・ヘッズの楽曲の近接性からも指摘できる。そのことは坂本自身も次のように言及している。
明確にニューウェイヴの影響が否定されるのは、『テクノデリック』の制作後である。
自伝で坂本は『左うでの夢』について、次のように振り返っている。
この発言によれば、『B-2 UNIT』と『左うでの夢』は、YMOを対立軸として、対称的な存在であるかのように思える。しかしながら『左うでの夢』においては、『B-2 UNIT』のような反YMO的なものは消えているが、ニューウェイブの影響下にあったことから、この2作は地下水脈でつながっているとも捉えることができる。
1981年、坂本の音楽地図はYMOというくびきから解き放たれことで大きく変動し始める。サポートギターのエイドリアン・ブリューをアルバム制作に迎え入れ、YMOの「体操」でリファレンスにした、トーキング・ヘッズを媒介として、坂本はようやくニューヨークに接近するのである。
注釈
『新潮』(2011年1月)での大竹伸朗とも対談によれば、「Taking Islands in Africa」といと書いた紙をデビッド・シルヴィアンに渡されて、オフの日にレコーディングしたという。
参考文献
吉村栄一『坂本龍一 音楽の歴史』、141p
『宝島』(1982年4月号)、62p
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