坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑨
坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアン
前節ではNEO GEO(Neo Geography)的な観点から、坂本龍一とニューヨークの距離感について、『B-2 UNIT』をレコーディングした1980年では、坂本の心理的な距離感としては、ニューヨークよりロンドンの方が近かったという議論を展開した。
このことは、ロンドンでレコーディングし、デニス・ボーヴェルやアンディ・パートリッジなどイギリスのアーティストがアルバムに参加したことからも明らかである。
『B-2 UNIT』のレコーディングでは、坂本龍一とロンドンの距離をさらに縮める偶然が起きる。デヴィッド・シルヴィアンとの再会である。
まずJAPANが『Quiet Life』のツアーで2度目の来日を果たした時に、雑誌『Player』(1980年5月15日号)で坂本は、JAPANのメンバー全員と対談をしている。この雑誌対談が、坂本龍一とデビッド・シルヴィアンとの初対面となった。
そして再開の機会は、程なく偶然に訪れる。同年8月に坂本が『B-2 UNIT』のレコーディングで再度ロンドンへ訪れ、エア・スタジオでミキシングに立ち会った際、隣の部屋でJAPANもレコーディングを行っていたのだ。この邂逅から坂本とデヴィッド・シルヴィアンのコラボレーションにより、「Taking Islands in Africa」という曲が生まれ、Japanのアルバム『Gentlemen Take Polaroids』に収録される。
この曲は、坂本龍一がデビッド・シルヴィアンより「Taking Islands in Africa」というタイトルだけを受け取り、作曲を依頼されたことによって生まれた楽曲である。
このレコーディング以降、坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアンのコラボレーションは生涯にわたり続くことになる。しかし一方では、皮肉なことに、「Taking Islands in Africa」を巡ってバンドに亀裂が生じる。このことがどれだけ影響したのかは分からないが、結局のところ、JAPANは1982年に解散してしまう。
ミック・カーンの「坂本龍一を尊敬し、友人として大切に思っているが、この曲はデヴィッドと龍一のコラボレーションであり、ジャパンとはほとんど関係がなかった。アルバムの他の部分とミスマッチだった」という発言や、スティーブ・ジャンセンの 「最も惜しまれる曲。坂本のアルバムに入れるべきだった」というコメントが、バンドを取り巻く当時の状況を端的に示している。
坂本龍一とロンドン
坂本龍一とロンドンの心理的な距離感が接近したのはいつだろうか。それは1980年に行われたYMOの2度目のワールドツアー「FROM TO TOKYO TO TOKYO」であると考えられる。
坂本はロンドン・ツアーで現地のミュージシャンとの交流を深めている。
たとえば、フライング・リザーズのデビッド・カニンガムは、ロンドンのハマースミス・オデオン公演(1980年10月12日)の後に楽屋を訪れてきて、坂本とレコードを交換したという。スロッビング・グリッスルのジェネシス・P・オリッジにいたっては楽屋に来て、レコードだけでなく、着ていたシャツも交換している。ほかにもツアー中の撮影で訪れたディスコで、ヴィサージのステーブ・ストレンジと知り合ったり、『B-2 UNIT』のレコーディング時ではあるが、スリッツのメンバーと出会うなど、1980年の坂本は、日本に居住しながらも、ロンドンの最先端の音楽シーンと完全に連動していたと言える。
1981年4月7日からは、NHK-FMの「サウンドストリート」で火曜日を担当するが、第1回目の放送では上記ミュージシャンとの交流について語っているほか、彼らの楽曲もオンエアするなど、日本のリスナーの音楽的嗜好に与えた影響も大きい。
参考文献
『Player』(1980年5月15日号)
吉村栄一『坂本龍一 音楽の歴史』、125p
『サウンドストリート』(1981年4月7日放送)
https://therakejapan.com/special/excavating-ghosts_the-many-faces-of-japan/7/
https://therakejapan.com/special/excavating-ghosts_the-many-faces-of-japan/7/
『サウンドストリート』(1981年4月7日放送)
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