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チェーホフ・イクスカーション

みなさんおはこんばんちは。
いかがお過ごしですか。
また投稿の頻度が落ちてしまいました・・・
下書きがどんどんたまっていく・・・

前の前のnoteくらいで、三浦基さんの『現代演劇考』を読んだ話を投稿しました。

んで、こちらに書かれている三浦氏のチェーホフ批評や読み解き方を参考にしつつ、チェーホフの戯曲を読んでみることにしました。
.…といってもとりあえず四大戯曲だけだけど。

三浦氏は、チェーホフを演出する際(他の既存戯曲もかもしれませんが)、まず戯曲の言葉やセリフを取り除く作業をするそうです。(超意訳)
俳優のことばを必要最低限にする。
俳優の発話・発語の問題に取り組む三浦氏らしい方法だと思います。
印象に残っているのはチェーホフ戯曲における「情景描写や自然の描写」は取り除いて…とあることでした。
チェーホフの作品の特徴の一つとしてあげられるのは、人物の長台詞の多さです。
劇中で誰かが見開き1ページくらいぶち抜きで喋っていることもあります。

たとえば『桜の園』で登場人物がまわりの風景について語る場面があります。
確かに頭の中でセリフを削除しながら読むと、人物が喋るセリフとしては言いやすく、言っていそうな文量になります。その分読み手は短くて分かりやすい。昨今のトレンドは物事をいかに短く、要点よく伝えるか、ですね。
三浦氏の書いているのはあくまでも演じる・演出するにおいての作業。短くなって手頃になった文章は、俳優には口出して発語しやすいかもしれません。
「戯曲から文を削る作業」というのは、なるほどこうやって文章を減らしていくんだな、と地の文章をみて実感します。
(しかしながら三浦氏の手法は個人的に見て削り過ぎ感も否めません)

『桜の園』が私は一番好みです。
比較的起承転結がしっかりしていて、読み物として読み応えがあります。
チェーホフ自身はこの戯曲を「喜劇」と言ったようですが、かのスタニスラフスキー氏は「真面目な劇」と主張したそうです。『桜の園』を観た、もしくは読んだことがある方はどう思われるのでしょうか。
私は喜劇だと思います。没落貴族の必死さは滑稽ですし、なおしがみつこうとする貴族(作中で言う女地主)を説得しようとする周囲の様子は一種のドタバタ劇と捉えることも出来ます。最後大団円っぽく終わるのも喜劇ポイントではないでしょうか。実のところ全然大団円ではないけど・・・。個人的には作者に「これでもう終わるから!チャンチャン!」と言われて幕を引かれていった感じはするけれども、こちらとしては「まぁそうだよねえ」と後を引くこともない終わり方だなあと思いました。なぜなら本当に全てが終わっているのだから・・・。

この作品に対し、『かもめ』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』の3作品は一線を画しているような気がします。
特に『かもめ』はまた違う領域にいるようにも思えます。

四大戯曲の中では『かもめ』が一番早くに書かれた作品ですが、この作品は、とにかく落ち着きがない。実に実験的であり挑戦的な戯曲だと思います。
舞台の中に舞台を作り、そこで名女優である母の世代、息子にとっては今までとは逸脱した演劇を始める所から始まります。
そこから進む物語は、息子の実験と挫折であり、「女優」への恋と、女の憧れが交差しますが、その根幹にあるのはチェーホフなりの演劇そのものの否定。
トレープレフ、ニーナが話す言葉は、それぞれが重い、まるで呪いのようでした。

対して『三人姉妹』や『ワーニャ伯父さん』は、主要人物が意外と苦労人で、夢見がちな人物も登場します。(この夢見がち、にはいろんな意味があります)その対比を描きながら、ロマンチストよりリアリストの方が正しいというメッセージ性が感じられます。
『かもめ』は重く、『桜の園』はちゃんちゃん!(笑)で終わったのと違い、この2作品の最後は淡々と終わってゆきます。音楽の曲で言う所の曲がリピートされてフェードアウトで終わっていくような。
言うなれば前者の作品は観客に観せるような、後者の作品は観客に語るようなセリフ回しであり、構成だと思います。

そう考えると、『桜の園』は本当にチェーホフにとって戯曲の集大成なんだなと感じます。読みやすいもんな。個人的に。
彼の人生は決して長くはありませんでしたが、戯曲だけではなく小説も作品としてあります。
先述で『かもめ』は実験的と書きましたが、『三人姉妹』も『ワーニャ伯父さん』も結果的に実験だったのかもしれません。

今回は4大戯曲について、考えたこと・感じたことをまとめてみました。
他の作品も読みたいのがたくさんあるので、またいろいろ比較して読んでゆきたいと思います。

それではまた

さおりさん。

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