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知恵は分かち合うもの【ハイダグワイ移住週報#8】

9/19(火)

リオがおもむろにポシェットから取り出したジップロックには、色とりどりのドライハーブがぱんぱんに詰められていた。彼は93歳のエルダー。村での役割は「調薬師」であり、庭にはハイダ原産のものから東洋・西洋のものまで様々な薬草が植えられているのだとか。

カモミールやライラックなどのよくハーブティーで聞くものや、シングル・デライト、エルダー・ベリー、ノコギリソウといったはじめて耳にする薬草が丁寧に乾燥され、袋詰めされている。リオは慣れた手つきでカップで計量し、ボウルで混ぜ合わせながらお茶を調合していく。

「デビル・スクラブ——何にでも効く。風邪、外傷、糖尿病や白血病まで」待ってました、と心の中で呟く。星野道夫のエッセイで何度も登場していた、あの薬草だ。デビル・スクラブは太平洋岸のファースト・ネーションの文化とは切っても切り離せない植物で、薬草として服用されるほか、湿布や消臭剤として、アクセサリーとしても使われる万能選手である。

「幼い頃、父親が毎朝デビルスクラブのお茶を淹れてくれたのよ」隣に座るエルダーのレオナは、小さい頃の記憶を振り返ってそう教えてくれた。

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今日は昨日と同じネット作りのワークショップだが、カメラが数台入っている。このプログラムに資金提供をしている「ファースト・ネーション健康機関(First Nations Health Authority)」なる団体がドキュメンタリーを撮りにきているのだ。

「このワークショップは私が企画している『風土ヒーリング(Land-based healing)』の一環。ハイダが培ってきたこの地の伝統工芸や技能を学ぶことを通したヒーリングを目指しているの」そう語るのはデラヴィーナ。このワークショップの企画者だ。ネット作りワークショップは今年で三年めだという。これまでに現地の人々のみならず、旅行で来た人なども含めて何十人という人々が糸を繰り、大きな「ギル・ネット」—川でサーモンを取るためのネット—を作る、コミュニティプロジェクトだ。

土地が人を癒すんだ——参加者の一人、クリストファーがそう僕に教えてくれる。「僕たちは何年にもわたって、このハイダグワイの土地を取り戻すために戦ってきた。連邦政府と、州政府と、大企業と。土地を取り戻すことで、僕らのコミュニティは植民地主義のトラウマや薬物中毒などから立ち直ることができたんだ」

ハイダグワイに来てからというもの、「ヒーリング」という言葉をよく耳にする。植民地政策、先住民弾圧の歴史は今もなお影を落とす。ハイダのカナダ、BCに対する戦いは歴史上のものでも、解決済みのものでもない。トラウマから社会を、個人を、コミュニティを治癒するというのは、現在進行形で行われている取り組みなのである。

9/20(水)

昨日に引き続きネット作りのワークショップ。だいぶ手慣れてきて、快調にいい細さの糸を繰れるようになってくる。インストラクターのマイケルも褒めてくれる。

そうこうしていると、会場であるロングハウスに十人弱の集団が入ってくる。僕たちのワークショップに興味があるみたいだ。聞けば、彼らはオーストラリアの先住民だという。オーストラリア北部に浮かぶグルート・エイラント島に棲まうアニンディリヤクワ族だ。コミュニティでの教育の一環で、アニンディリヤクワ族の青年たちはカナダのコースタル・ファーストネーション(太平洋岸に住む先住民)を訪れているらしい。

先住民のあいだでのしきたりなのか、お互いの歌を披露する。まずはアニンディリヤクワの一人の青年がメモリアルのための曲を三曲歌ってくれた。抑揚はあまりなく、厳かに歌われるその歌には独特の力強さがある。

ハイダも自分たちの歌で呼応する。ダイアンがドラムを叩き、披露したのは「ハイダ讃歌(Haida Nation Anthem)」と「幸福の歌(Happiness song)」。どちらもハイダの歌の中ではよく歌われるもののようで、僕もすでに聞き覚えがあった。腹の奥から繰り出される戦闘的な響きには、かつて太平洋岸の先住民のなかでもっとも強大な武力を誇った民族の誇りが垣間見られる。

ハイダの歌は同じフレーズを四度繰り返し、東西南北の方向に捧げるように歌われる。シンプルなものだと、三度めくらいから見よう見まねで一緒に歌うことができる。こうして誰かと一緒に歌ったのはいつぶりだろう。体の底から引っ張り出した自らの声が他人のそれと融合し、空間を揺らす。歌とはストーリーを伝えるためのものであり、じぶんの居場所を再確認する営みでもある。

9/21(木)

ネット作りワークショップ四日め。エルダーたちとも仲良くなり、みんな僕のことをコーホー、コーホーと嬉しそうに呼んでくれる。コーホーとはCoho Salmon、銀鮭のこと。八月末くらいからハイダグワイのあらゆる川で遡上を始めるサーモンで、みんな挙って釣竿を持って川に向かう日々が続いている。


伝統技術インストラクターのマイケルはドイツ人。十五年前にハイダグワイにやってきて、それ以降棲みついてしまったのだとか。彼のことは去年このワークショップに参加していた洋二郎さんたちから聞いていた。夏は釣り船のチャーター会社を営み、オフシーズンはハイダグワイをはじめとする先住民コミュニティで伝統的な技術、工芸を伝承するワークショップを開いている。

「僕はハイダグワイに来るべくして来たのだと思う」マイケルにどうしてこの場所に行き着くことになったのかと聞くと、彼はこれまでの道のりを語ってくれた。「両親がアーティストで、僕も小さい頃から彫刻や弓矢作りにのめり込んでいたんだ。勉強は全然できなくて高校も中退してしまったけど、彫刻や工芸の弟子修行はなんとか終わらせて、いろいろなスタジオでアシスタントとして働いていたんだ」

マイケルは僕と同じように、一年間のワーキングホリデービザでカナダに来た。カナダ国内を転々としながらアートの仕事をし、ビザが切れる1ヶ月ほど前にハイダグワイに来ることになったという。

十五年前のそのころ、ちょうどハイダグワイ博物館の建造が始まっていた。現地で出会った夫婦に連れられて博物館のアトリエに入った時、彼は一本の未完成のトーテム・ポールに触れた。「その時、直感的に『僕がこのポールを彫ることになる』と感じたんだ。次の日にまたアトリエを訪れて自らも工芸に携わるものだと伝えると、『じゃあ、そこのポールを彫ってよ』とナイフを渡され、突然トーテム・ポールづくりに携わることになったんだ」

当時、カナダで労働ビザを伸ばして移民するには、それなりの職務経歴や学歴が必要だった。彼は中卒だったのにも関わらず、「ハイダが求めているなら」というだけの理由で簡単に移民許可が降りたらしい。それから彼はハイダグワイ博物館で五年、バンクーバーのアートギャラリーで五年、先住民アートに関わる仕事に就いてきた。今ではどっぷりハイダの一員として、今回のワークショップのように伝統工芸の伝承に携わっている。

「僕はここでホームを、ファミリーを見つけたんだ。約束された道だったんだと思うよ」話し終えたマイケルの目には涙が浮かんでいた。エルダーたちが、『泣き虫っ子』—彼のハイダネームでもある—といってマイケルを冷やかしていた。

9/22(金)

朝から腹痛が耐えられないほどに悪化したため、町の病院へ。カナダの医療事情には未だ明るくないが、病院にはクリニック、ホスピタル、エマージェンシー(緊急外来)の3種類があるようだ。基本的にはファミリードクター=主治医にかかるものだが、僕は初めての受診だったため緊急外来へ。

数時間待たされて、お医者さんと三分話して抗生剤と下痢止めが処方してもらう。これでなんとか快方に向かってくれればいいのだが。

すっかり遅くなってしまったが、ワークショップの最後のディナーに参加する。この一週間、インストラクターのマイケル、コーディネーターのデラヴィーナ、そして五人のエルダーとひたすら糸を繰り続けた。地元の人々もちょっと顔を出して手伝ったり、スーパーでチラシを見た旅行客たちも力を貸してくれた。こうしてたくさんの人が少しづつ力を出し合い、いずれは大きなサーモン用のネットになる。

毎年秋と春に一週間のワークショップを開き、今年で三年め。来春にはひとまず形になるのだという。「このネットは誰かのものではなく、みんなのものになる」マイケルが最後にそう言っていた。

Taay gudangaay iiwaan(ターイ グダンゲイ イーワン)—となりでいろいろな昔話をずっと聞かせてくれたレオナが、最後にハイダネームを僕にくれた。英語ではBig Happiness Coho、『ハピネス巨大銀鮭』である。

Haaw'a! ありがとう。みんな、また来春。

9/23(土)

腹痛再来でダウン。厳しい戦いである

9/24(日)

参加していたエルダーの一人、アーノルドが体重をかけて勢いよく鉋を繰り出す。紋様が美しいイエロー・シダーのパドルは微かにしなりながら、完成に向けて体重を落としていく。

先日のネット作りに引き続き、今日はパドル作りのワークショップに参加した。「風土ヒーリング(Land-based healing)」の一環として、毎週のように伝統工芸の伝承ワークショップが開かれている。公的機関から支援が降りていて、材料もツールも、昼食もディナーも提供される豪華さである。

弟子の一人に教えるキーラン

主催者のキーランは熱心なカヤッカー。バンにカヤックを乗せてBC州をずっと旅していたところ、ハイダでのカヤックに魅了されて棲みついた。カヤックガイド、自然教育などの仕事をこなした後、マセットの彫刻家であるクリスティアン・ホワイトのもとで弟子修行をした。今ではスキンボートという北極圏のカヤックを作りながら、彫刻関係のお手伝いもしているのだとか。

「ここにきた当初の僕みたいだね」ハイダでカヤックがしたくて、僕も今年シーカヤックを始めてここに移住したんだ、と話すとキーランはたくさんの写真を見せながら自分のカヤック旅を語ってくれた。

今回作るのはハイダカヌーのためのパドル。最初の一本は自分のため、次の一本はコミュニティのために彫っていく。彫刻なんて小学校ぶりのような気がする。カンナややすりなどの道具の使い方を教えてもらい、慣れるために木材をどんどん削っていく。

ハイダグワイの豊かな森で育った巨木を用いて、ハイダ族は伝統的にオープンデッキのカヌーを作っていた。その性能は非常に高く、ハイダカヌーは他の太平洋岸先住民にも輸出されていたのだとか。ハイダは自分たちのカヌーを持っていき、それと交換で得た様々な物品を相手のボロボロのカヌーに乗せて帰ってきたのだとか。ハイダ族は優れた操舵術も持っていたようだ。

「ハイダグワイにもカヤックが持ち込まれていた、という話があるんだ」キーランが従事していた彫刻家が語った逸話を話してくれた。そもそもカヤックというのはグリーンランドやアリューシャン列島などが発祥の船であり、ハイダグワイで使われていた乗り物ではない。僕もてっきりハイダグワイでカヤックは使われていなかっただろう、とたかを括っていた。

その昔、ふたりのハイダの若者がカヌーでアラスカを目指し、北上していった。彼らはそこで木製フレームにアザラシの皮を張ったスキンボート——カヤックの原型だ——に出会う。そのスピードに魅了された彼らはカヤックをハイダグワイに持ち帰り、それ以降とあるクランではカヤックを作っていたのだという。

口承で歴史が紡がれるこの文化圏で、何が史実で何がフィクションかなんて確かめようはない。ただ、そのような科学や歴史学の入り込めない余白があるからこそ、僕たちは過去の可能性に思いを馳せることができる。

カンナを何度も往復させていると、ただの木の塊がゆっくりとブレードの形を成していく。自分で彫ったパドルをカヤックに積み込んで、ハイダの海に漕ぎ出せたのなら——新しい技術はいつも僕に新たな旅を夢想させてくれる。

9/25(月)

薬の効果があったのだろう、体調はほぼ全快に感じられる。今夜から大きな嵐が来るようだが、日中は気持ちよく晴れている。体調も天気もいいと、やっと生きていて良かったと思える。

ほぼ二週間近くも体調がすぐれなかったため、なかなか釣りに出かけられていなかった。裏の川でもコーホーがこれでもかと飛び跳ねている。サーモンシーズンが終わるまであと1ヶ月弱、今後の焼き鮭と刺身用にできる限り冷凍庫をサーモンでいっぱいにしなければ。

海まで散歩して、キンドルに入れていた開高健「オーパ!」を再読する。釣り文学の最高傑作だ。彼の企画力、巻き込み力、そして現場の描写力にはいつも唸らせられる。

あなたの文体にはいい年をした大人衆をそそのかす要素があるらしいです

開高健『オーパ!』

アマゾンに住む日本人が、開高健を釣りに誘う手紙で彼に送った一節だ。僕はいつもちょっと前の時代の「大人衆をそそのかす」ひとたちに勇気づけられる。

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🏝️カナダ最果ての地、ハイダグワイに移住しました。

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