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ゆったりくったり日記

 このところnoteの更新頻度が多くなってしまっていて、熱を上げ過ぎている気がしてきたので、またゆったりペースになるようにと心がけていくことにしてみました。

 ゆったりにしたいのはnoteにまつわることだけじゃなくて、話すのもゆっくりにしたり、なんとなく毛布をぎゅっと抱いてみたりして、目を閉じてからだの力を抜くようにしています。意識してアクセルを踏むのをやめることで、やっとちょうど良くリラックスした状態になれるような気がしています。

 慣性で進みながら、心地よい空気とすれ違うのを感じます。

 そして、もっと正直な話をしてしまうと、足早に絵を描いたり音声を上げたりするそのたびに、やっぱり何かじぶんの中のバックヤードのような場所がごちゃごちゃしていくような感覚があって。その整理のためには直接片付けをするよりも、ただ時間を感じて、雪のように降り積もる埃のような滋養が、必要であるようなのでした。

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 日々のことの一部を「雑務」といったりするのはあまり好きではなくて、それなのにどうしてもそう言いたくなってしまうような気分のときがあります。

 そんなときには、音楽をながして、からだに溶かしこむようにして聴きながら、くにゃくにゃとひとつずつ、確実に終わらせていきます。それでも、つらさが勝ってしまうことも、ままあるのですが。

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 小島ケータニーラブさんの「毛布の日」。可愛いくって何度も聴いてしまうし思わず口ずさんでしまいます。たしか「みんなのうた」でも流れていたような。

『今日は毛布にくるまる日』〜🎶

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 調子がいまいちなときも「これはやっておこう」と思えていることがあって、それは「玄関の靴を揃えること」と「ハンドソープの補充を早めにすること」なんです。

 外に出るときに、できるだけスムーズに出られるように。
 慌ただしいときに、泡が出なくて何度も目の敵みたいにポンプをしゅこしゅことプッシュしなくて済むように。

 ほかのことがぐちゃっとしていても、守りたい一線というか、簡易な祈りみたいなものだと思っています。祈りに「簡易」なんて付けていいのか迷いますが。ともあれ、ちゃんと価値のあることなのです。そうありたいわたしのぎりぎりの輪郭のための、いのり、というようなものです。

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 いまは小説が書きたいです。けれど、なぜだかそれが一番遠くって、気づけば他ごとを、急ぎ足で形にしてしまっています。ほんとうに、なぜなんだろう。

 それに関係しそうなこととして、ちょっと前に唐突に、翻訳、と思いました。こんな風に、考えるより先にことばが先にきてしまうことが時々あるんです。

 そこから、どういうことなのか知るために翻訳の小説を少し読みはじめたりしてみていたのですが……でも、本当はそうではなくて、ぼくにとって実は「(創作は)翻訳」ということだったり、するのかも知れないと、いまでは思えています。

 それなら「(小説も)翻訳」ということなのかもしれません。少なくとも今のぼくにとってはそういう姿勢が、これから小説を書くときに真ん中にくるのかもしれない。

 分からないけれど、分からないのはいつものことです。つまり、また小説に向かうタイミングなのかも知れません。手探りで、少しずつ、けれど着実に積み上げて、消して、また書いてをやってゆく……。

 分からないから、書く。
 それがたぶん、ぼくが小説を書く一番の理由だから。

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 読んでいただきありがとうございます。ごちゃごちゃした日記になってしまいましたが、すこしだけ、書いていて落ち着きが戻ってきました。

 気圧も不安定だったりするみたいなので、耳をマッサージしたり、湯たんぽを入れて過ごそうと思います。読んでいただいた皆さまにも、すこしでもゆったりしたひとときがありますように。

 それでは、また。

 しんきろう