見出し画像

能動と受動、心の流れ(機能不全家族や精神病や発達障害など、2012年)

『 人の意識量、ストレス許容量などはある程度一定 』
ある程度一定の為、何かに強く意識が囚われていると、相対的に他の事柄への意識が低下する。
あれもこれもと意識が囚われていると、どれもこれも中途半端になり易かったり、単純なミスを誘発し易くなる。
大きなストレスが幾つも重なったり、長期的に大きなストレスが持続すると、心のバランスが崩れ精神に不調をきたし易い。

『 能動的な事はストレスが溜まり難く、受動的な事はストレスが溜まり易い 』
真面目、努力、頑張るなどは日本人の特徴的なものであるけれども、それが能動的、本心からのものであって主体性を持ってしている事柄に対してはストレスが溜まり難い。
誰かから命令なり強要された場合や、偏った常識として「○○であるべき」「○○をするべき」といったある種の洗脳や、活動的であっても受動的事柄が動機となって駆り立てられている時はストレスが溜まり易い。


仮に意識量やストレス許容量を100とすると。
何か大きな出来事(幸せな事でも不幸な事でも)に囚われていると
「 100(意識量)-80(囚われている事)=20 」
この残り20で他の事を行ったり、対処しなくてはいけなくなる為、判断ミスなどが起こり易くなる。

家庭なり学校なりで教育されたものに洗脳されている状態だと
「 100(意識量)-25(囚われている意識)-50(囚われている無意識)=25 」
例えば真面目でなければいけない、真面目であるべきと強く教育をされたとする。良い子は言われた事をそのまま素直に行おうとするけれども世の中は全て相対的であり、真面目があれば不真面目があり、真面目な時もあれば不真面目な時もある事によってバランスを保っている。
けれども良い子は真面目のみであろうとし、世の中も真面目だけであるべきと思い易く、それに囚われている事に自覚し難い無意識の部分が多い為、意識的には75の余裕があるように思えているけれども実際は25の余裕しかない為に、判断ミスが起き易くなったりストレスを溜め込むようになっていたりする。

同じ真面目であっても
「 100(ストレス許容量)-10(自らの体験による真面目さ)=90 」
「 100(ストレス許容量)-60(押し付けられた真面目さ)=40 」
のように、本心からの能動的真面目さはストレスが溜まり難く、本心ではない受動的真面目さはストレスが溜まり易い。

同じストレスであっても
「 100(ストレス許容量)-60(辛い体験など)=40 」
「 100(ストレス許容量)-20(辛い体験だけど以前に経験して克服したり慣れた事)=80 」
「 100(ストレス許容量)-120(辛い体験でPTSDとなった状態)=-20 」
のように、ストレス量は捉え方で変化する。


文明の進歩や資本主義の影響により便利な物は増えたけれども、それを維持する為に忙しい日々を強いられ易く(受動的)、意識量やストレス量の負荷が大きくなり易い社会が形成されている。
日本の習性として真面目であるべき、常に頑張るべき、常に努力するべき的なものが、家庭でも学校でも教育され易い(受動的)けれども、それはバランスを欠いた事でもあるし現実的なものではないから不具合を起こし易くなる。

日本の教育とアメリカやユダヤの教育の差として日本の教育は「3×8=?」アメリカの教育は「?×?=24」というような差があり、日本は受動的立場を強いられ易い文化があり、管理の度合いが強い社会が形成されている。
また、日本は100点からスタートの減点式であり、アメリカは0点からスタートの加点式であり、日本は性善説の傾向が強く、全体主義の傾向や同調圧力や建前が強いところもある為に完璧主義的に陥り易く、相互抑圧も強い社会の為に生き辛さを感じ易く閉塞感に陥り易い傾向がある。
経済は飛躍的に成長を遂げたけれども心をどこかに置き忘れてきてしまったような印象が深く、忙しさで時間的余裕が得られない為に家族間のコミュニケーション不足を招き易く、相手に対する思慮が不足し易く、その為に夫婦間や親子間でのすれ違いを招き易く、幾多の問題を誘発し易い環境になってしまっている。
生き物の脳は、適切な刺激、適切な愛情を得る事によって、一般的に好ましいと思われる成長をしていくけれども、前述したような要因により適切な刺激や愛情を与え難い受け難い環境の影響から、心に不具合を生じ易くなり精神の安定を保ち難くなる。


日本の文化依存症候群とされている対人恐怖症、日本で多い鬱病や自殺、一見良好な家庭で育った人でも真面目であるべきに囚われしまい精神に不調をきたしたり、新卒者が就職活動中に自殺してしまったり、家庭での被虐待や学校や職場などでの被虐めなり…これら全てに影響している点は受動的心理状況によるもののように思える。
夫婦間のコミュニケーション不足は親子間のコミュニケーション不足を招き易く、片親家庭となれば尚更親子間のコミュニケーション不足を招き易く、コミュニケーション不足の影響により虐待を招き易くなったり、一見虐待に見えなくとも子供の心を見ない一方的な言葉になり易かったり、過干渉などを招き易くなったりする。
虐待なり一方的で偏った事を子供に与え続ければ、子供の心(脳)は蔑ろにされる事となり受動的心理状況に陥り易くもなり、心に不具合を生じ易くなり精神の安定を保ち難くなる。
そのような環境で育てば発達課題を適切に達成していく事が困難となったり、自己同一性を獲得し難くなったり、脳の発達がアンバランスになって発達障害的になったり、色々な精神疾患を招き易くなったり、対象恒常性の低さや反応性愛着障害などにも繋がっていってしまう。


社会背景の影響から精神疾患や発達障害が増加していて、要因は遺伝と言われている事が多いけれども実際は環境の問題だと思う。
子供は育ての親の影響を受け易いから、その親が作る家庭も子供に促す教育も環境であるし、母胎にいる時に聴かせる音楽などが後々に影響する事から母胎からして既に環境であると思う。
発達障害は先天的と言われているけれども、先天的であればその時々によって症状が出たり出なかったりする点に疑問が起こり、その時々によって差があるという事はその時々の心理状況や環境が影響しているという事になると思う。
遺伝や先天的と捉えると改善の余地が無いように思えてしまうけれども、環境や後天的と捉えると改善の余地があり実際に改善の余地はあった。


ADHDの多動性や衝動性は、心に大きなストレスを抱えていた場合、そのストレスから逃避する為に起きている事が多いように思えるし、何かストレスを抱えていれば集中する事が困難になり易いだろうし、不注意についても何かストレスを抱えそれに意識を強く囚われていれば、他の事への意識レベルが下がってしまう為に簡単なミス、不注意が起き易くなると思う。
例えばADHDは片付けが苦手と言われているけれども、建前と本音の差が大きかったり、世間体を強く気にする日本社会であれば、他人から見られている部分に強く意識が働く事になって、他人から見られていない家の中への意識は相対的に弱まってしまう影響があるように思える。
アスペルガー症候群の融通性の無さ、一つの事に忠実である点も、前述した真面目であるべきの話しのように、それ以外の実践経験を積もうとしなければ色々な事柄に対する対応や対処が一つだけや少ないままで増えず、結果対人関係の困難さを招いたり、一つの事に拘り続けたりして別の病気で表すならば強迫性障害のようになる。
現在の日本で発達障害の該当者が増えているのは、ある種の流行であり、脳の発達に関する事は母原病→機能不全家庭(アダルトチルドレン)→発達障害のような時代的流れがあるように思える。
発達障害とは別に色々な精神疾患(便宜上色々な病名があるだけで、問題点はストレスによる脳内の神経伝達物質のバランスが崩れる事による症状)も遺伝ではなく、育った環境の影響などにより、ストレスが溜まり易い思考の癖が出来ていたりする事が大きな要因となっていたりする。


『 ストレスを溜め難くする為に 』
・セルフモニタリング(自分の心の状態を常に確認する癖を付ける)
・思考の柔軟さを身に付ける。
無意識に真面目であれば、意識的に不真面目になって冗談を言ってみたり。物事を多角的に見る癖を付けたり、その時々の出来事を逆側の視点から見たり。
・余分なものを捨てて生き方をシンプルにする。
「断捨離」という言葉が一時期流行りましたが、古い言葉にも「人生減省一分、便超脱一分」や「興一利、不若除一害。生一事、不若減一事」という言葉があったり。
・自分に合った過度な依存や逃避ではないストレス解消法を複数作っておく。
時間やお金をあまり使わないものが良いと思う。時間やお金を一定以上使うものは、それを維持する為に一定以上の負荷が掛かる為、結果的にストレス解消の為にストレスを溜める事になってしまう場合も。


ある意味、現代社会に適応している人の方が異常と言えたり、真面目に適応しようとすればするほど不安定さを招いたり、治世ならまだいいけれども乱世に向かっていく中、正だけでは難しく奇の重要性が増し、奇の部分を相応に持ち合わせていた方が生存率は高まると思う~
過去の歴史でも、歴史の転換期において、それまで正であった側は滅亡する事が多かったですしね^^;
てきと~~~な心で、適当に生きていきたいです 笑


ギフテッド、サヴァン、自閉症、発達障害、HSP、は、どれも先天的と捉えられていて、共通点は何かの部分に感覚の過敏さがある事。それが便宜上カテゴライズされているだけだと思う。
虐待とかPTSDでもノルアドレナリンなどが過敏になるから、被虐待児と発達障害者が似てしまうのはその何かに対して過敏過ぎる点と、あからさまな虐待も解り難い虐待も、対人関係に問題が出るようになる(反応性愛着障害、対象恒常性の著しい低下など)からだと思う。
脳自体は何かに特出していたら同等の苦手な事が出来てしまい、IQなりEQなりが高過ぎるのも、ある意味障害という視点も…。
理想論としては個々に長短があるのだから、互いの長所で互いの短所を補い合うのが好ましいのだろうけど、社会の流れが速いと理解が遅かったりコミュ力が低い人はどうしても切り捨てられやすい。
生存競争や適者生存の視点を入れると頭ぐるぐ~る!


2012年06月03日 記

サポートよろしくにゃ(=^・▽・^)人(^・▽・^=)