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#011 『スマホ時代の哲学』 読書ノート

はじめに

Lectioの読書会にて「哲学」なる分野に触れてみようと思いました.
選んだ本は,『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』谷川嘉浩 著 です.

本好きな人が多く参加している読書コミュニティLectioの中でも「哲学」を読み慣れている人は少ないだろうと想像していましたが,色々聞いてみると「哲学」はやはり簡単には手が出せないジャンルのようです.

今回は『スマホ時代』という現代的なキーワードにも興味を抱いたこともあり,たとえば,よくある『西洋哲学入門』などよりもこの本を選びました.

著者の谷川さんの文章は,「哲学」に馴染みのない読者にも分かりやすく,「哲学」との関わり方を細かく説明してくださっていました.課題図書として選んで本当に良かったなと思いました.読後しばらく経過してもこの本から連想する色々な自分なりの考察が続いています.そう言った意味で,奥行きの深い名著だと思いますね.皆様にも心から一読をお勧めしますよ!

以下,備忘録的な読書ノートとして考えや感じたことを書いておこうと思います.
(いや〜,名著すぎて自分なりの考察ポイントが溢れてきて,めちゃくちゃ長く書き過ぎました)

※考察はあくまで僕の解釈や連想,感想です.谷川さんの意図やニュアンスそのものというわけではないはずなので,ご興味ある方はぜひ本著に当たってみてください.谷川さんはとても丁寧にご自身の哲学的な立場(プラグマティズムとか)を説明してくださっています.

ニーチェ:「君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている。」

偉大なる哲学者,ニーチェ先生です

ニーチェの書いた『ツァラトゥストラ』という本には、寸鉄人を刺すフレーズが出てきます。

君たちにとっても、生きることは激務であり、不安だから、君たちは生きることにうんざりしているんじゃないか? 〔……〕君たちはみんな激務が好きだ。速いことや新しいことや未知のことが好きだ。──君たちは自分に耐えることが下手だ。なんとかして、君たちは自分を忘れて、自分自身から逃げようとしている。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』はじめに より

あいたたっ!
この言葉、心に刺さりませんか?

このニーチェの言葉は、僕にはめちゃくちゃ刺さる言葉です.

日々,忙しがっています.
仕事や,趣味や、社会で何が起きているかなどの情報を追いかけています.
スマホをいつも片手に握りしめ,頭の中はマルチタスクで一杯です.

同時に,何とかストレスフリーになりたいと願っています.
そして何冊も「時間術」や「タスクマネジメント」「自己啓発」の本を読みます.
もはや,自分が何かを追いかけているのか,何かに追い立てられているのか分かりません.

僕もニーチェの言うように「自分自身から逃げようとしている」のかも知れない.

具体的には,ネットニュースを読み,SNSのタイムラインに目配せし,ビジネス書や自己啓発書,あらゆるハウツー本を読みながら日々を過ごしています.(文学,教養書ももちろん読みますがw)

ポジティブに言えば知的好奇心に動かされて.
ネガティブに言えば,自分をアップデートしなきゃ社会に乗り遅れるという気分に駆り立てられて.

このニーチェの言葉が心のどこかに引っかかるなら,この本を読むべき読者にふさわしいと思います.僕もまさにその一人です.
本書のテーマを自分事として考え,「哲学」と対話することで色々な事を発見できるでしょう.

オルテガのメタファ,〈沈黙〉〈警戒〉〈聞く〉…現代人は自己完結している.

イケオジのオルテガさん

スペインの哲学者 オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』という本からの引用です.

ところが今日、現代人は世界で起こるすべてのこと、あるいは起こるはずのすべてのことについて、非常に厳格な「考え」を持っている。必要なものはすべて自分の中に持っているのだとすれば、どうして人に耳を傾けるべきなのだろうか。今や聞く理由はないどころか、判断し、宣言し、決めつける理由がある。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第1章 より

現代人の話し方や態度についてのオルテガさんの批評が痛烈に効いています.
他人の話も聞かずに自分の「考え」をごちゃごちゃ話す.
まるで専門家にでもなったように,あらゆる問題について堂々と自分の意見や判断を宣言する.

でもそれは,自分勝手な「決めつけ」なんじゃないか,というわけです.

これ僕もわかります.痛いですね…
SNSなど匿名の環境であれば,尚更ですね.
自分もそう言われてみれば,そういう振る舞いをしているかもしれない.
Twitterなんかだと短いし,インパクト与えてナンボみたいなところもありますね.

SMSだけでもなく,会社組織やコミュニティ,あらゆる集まりにおいて当てはまるかもと思います.意見を言うとは,自分の考えを主張することですから,それが尊重される環境もあるかも知れません.

しかし,そこに一点思うところがある訳です.
立ち止まるべき考え方があります.

オルテガさんの言葉をもう少し詳しく読んでみましょう.

ありとあらゆるものに対して真摯な態度をとり、可能な限り責任をとろうとする人はみな、ある種の不安を感じるはずだが、かえってそれゆえに警戒を怠らないようになる。ローマ帝国の軍務規定には、 歩哨 が眠気を避け常に警戒するために人差し指を唇に当てておくべしとの一項がある。これは悪い姿勢ではない。それは未来のひそやかな兆しを聞き取れるように、夜のしじまに一層の沈黙を強いる身振りのように思われる。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第1章 より

この記述はメタファ(隠喩)ですね.
ローマの兵士たちは,人差し指を唇に当てて「警戒」しています.

この姿を現代人に置き換えると,さっきの「ごちゃごちゃ話す」の逆をやりましょうということです.
他人の話をじっくり聞く.自分勝手な決めつけで発言しようとするのを止める.
自分は経験したことのないことも,相手の状況を想像してみる.
自分の価値観では同情できないことも,すぐに批評しようとしないで,相手を理解することに専念する.

そういう姿勢って大事ですね.
自他に対して注意深く,謙虚にあろうという意識がそういう姿勢を生むのだと思います.

そういう人って信頼されます.
本当に賢いなと感じさせます.
あるいは,この人は自分の考えを理解しようとしてくれていると感じさせます.

この能力って社会的な人間関係の上で最も大切なものです.
家族や友人関係の中で,例えば誰かの悩みの相談をしている時など,深いつながりと信頼感をもたらすでしょう.

よくある表面的なコミュニケーションスキルのことを言っている訳ではないと思います.もっと深い姿勢です.

これは哲学や教養,リベラルアーツと呼ばれるものを修養して,精神的に成長することで蓄積される能力なんだと僕は思います.

別の言い方とすると,その人の持っている内的世界が立体的なんだと思います.そして言語による解像度が高い.メタ認知が備わっている.自分の知っている知識や,想像力の範囲が不十分だといつも自覚している.
「無知の知」ですね.

それを常態として意識しているから,自然に注意深くなる.
他人の意見を虚心に聞こうとする.そのために自己主張の欲望や,自分勝手な正義などが邪魔になると知っている.だから注意深く,謙虚であろうと思う.

「教養」「哲学」って役に立つの?

そういう疑問を持つ人もいると思います.

私見ですがはっきり役に立つと思います.他者から深い信頼を得ることができるようになる.それ以上の大切な成果ってありますかね.ただその能力を定量的に評価しづらいから見えにくいだけです.

他者からの信頼を得ることを目的などにしなくてももちろん良いです.ただ自分の不十分さを自覚して謙虚な気持ちを持つことができれば,より感謝の気持ちを感じやすくなりますし,他者に感動することが増えるでしょう.そういうのを幸福と呼ぶんじゃないでしょうか.

僕は「哲学」と「文学」との共通点を考えさせられた.

ギリシャのあの,プラトンさん

「哲学」て何なのか?「哲学」とどう付き合っていけばよいのか?

こういう疑問は「哲学」に馴染みのない人にとっては当然湧いてくるものですね.
僕はもちろんアマチュアですが,それでもこの本を読んでいると,自分の体験とリンクするなと強く感じました.

僕は学生の頃,文学に興味を持って自分なりに読み進めるうちに,お隣にいつもある学問としての「哲学」に触れることがありました.

もちろん専門的に勉強した訳ではなく,「哲学入門」とか「プラトン入門」とか,あるいは現代思想,ポストモダン思想などというものを,自分なりに読み進めたという経験があります.

はっきり言って,「哲学」が簡単だとは口が裂けても言えません.
やってみると意外に実用的なんだよ,とも言えません.
(もちろん僕の力量不足な意見ですが)

でも,非常に面白みがあります.
それは僕にとっての「文学」に近い価値だと思います.
二つには共通したテーマが通底していると思います.

具体的には,言語によって語り得ない何かを必死に語ろうとする試み,というように僕には思えます.哲学はそれを純粋に言説を積み重ねることによって,あるいは長大な西洋哲学の文脈に参加することによって追求している,というイメージです.

それに対して「文学」は,日常的な人間ドラマを物語る行為と,それを認識する主体との自己対話に価値が宿っていると思います.

本書にも次のような記述があります.

哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、西洋の哲学的伝統の特徴を説明するにあたって、西洋哲学は「プラトンに対する一連の注釈から成る」と述べたことがあります。2500年前にプラトンが始めた豊かな議論に始まり、バトンタッチしながら現在に至るまで脈々と哲学をアップデートし続けているということです.

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第2章 より

面白い記述ですね.
著者の谷川さんも,「哲学するとは、プラトンに始まる一連の会話に参加することだ」とおっしゃっています.

こんなふうに数千年もの時を超えて,哲学者と同じようなテーマを巡って考えを対話的に深める経験こそ,読書の楽しみに他ならないと感じます.

ここで昔,素人の僕なりに哲学を学んで感じた最重要テーマについて触れたいと思います.

先ほど少し触れた「無知の知」もソクラテスが主張した知的態度でした.

時代を下って,カントの哲学でも「物自体」と,それを認識するということは「現象」を経験することにすぎないと明晰に分けて考えた.

その「現象」を前提として,フッサールは「現象学」という思考法を用いながら,主観とか客観とかはどういうふうに成立しているのかを考え抜きました.そこからハイデガーなどの名だたる哲学者も,その人間の認識の限界の問題に連なっていきます.

またソシュールの言語学からさらに書かれたもの=テクストに対する考え方が変わり,ロラン・バルトなどによって文学作品の解釈は読者個人の「現象」に過ぎないという考えに繋がっていきました.(と学生の僕には感じられました)

僕は素人ですので,哲学の系譜のディテールについて説明することはできませんが,一筋の共通したテーマとして最重要なものがこの「認識論」の問題だと思っています.

僕の理解しうる言葉でいうと,私が経験し認識する全てのものは「私だけの現象にすぎない」という自覚です.学生時代に僕は,文学と哲学の言葉からこの考えに至りました.それはまるでハンマーで頭を殴られるような衝撃となりました.

だからオルテガさんが,他人の話をじっくり聞く.自分勝手な決めつけで発言しようとするのを止める,というような「警戒」を重んじている意味が分かる気がしました.

僕らが誰かの意見を聞いて,「なんだそんな意見」と高を括る.自分ならそれを完璧に論破してやろう,などと批判的に語り始める.その時,その会話の相手の「他者」とは誰のことでしょうか.

僕の考えでは,その他者は全て「私だけの現象にすぎない」のだと思います.
僕らは一生懸命,私自身の影みたいなものに意見したり,腹を立てたりしているんじゃないでしょうか.

オルテガさんなら,「君も少しは分かってるじゃないか」と言ってくれそうな気もしますが,ここでのオルテガさんは,〈私だけの現象としてのオルテガさん〉なんだなということです.

この認識は「哲学」においても「文学」を読むときにおいても,超重要な前提だと思っています.僕にとっては,世界を理解するときのマスターキーみたいな考え方です.歴史を学ぶとき,心理学を学ぶ時,絵画を鑑賞するとき…,ChatGPTと対話をする時ですら,認識論の問題が横たわっています.

それは時に深刻で恐ろしい側面もありますし,一方で謙虚な態度と,得難い世界の秘密とつながる経験をもたらします.

これが久々,「哲学」なるものに触れて改めて感じた大事なことです.

(ここで僕が述べた認識論は,谷川さんが記述していることではありませんし,
そこまで深刻に捉えすぎないようにした方が良い,という立場かと思います)

谷川さん:「哲学」を学ぶことは,「自分の中に他者を住まわせていくこと」である.

さらに著者の谷川さんは第2章でより哲学者らしい「哲学」の道案内をしてくださっています.そこで少し意外な指摘が語られます.

専門的に哲学を学んだ身からすると、「自分の頭で考える」という発想は、あまりに素朴に思えます。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第2章 より

しかし…
哲学的に考えるって,頑張って自分の頭で考えようと努力することじゃないの?

というふうに思うわけですが,専門的に哲学を学ぶというのはそういう素朴な姿勢で取り組むのは危ないというわけです.それは,自分がすでに持っている考え(つまり,先入見)を再提出しているに過ぎない,というのです.

自分がすでに正しいと心のどこかで思っていた事柄を「結論」や「意見」として差し出しているだけ,になってしまいがちだというのです.

なるほどですね.

思い当たるところあります.
これ読書会のメンバーでも納得される方も多かったです.
「確かに自己啓発本などを読むときに陥るマズい読み方として,自分の考えの答え合わせをするように読んでしまう読み方がある」と共感されていました.

大事なのは注意深く,自己懐疑的な姿勢を忘れないようにすることなんだなと理解しました.

さらに谷川さんは,専門家から学び取った方が良いものは,〈知識〉と〈想像力〉に他ならないと説明してくれます.ここでの言葉の使い方は以下のように示しています.

〈知識〉=文章で書き表せるような情報や事実のこと.
〈想像力〉=個別の情報の運用の仕方.〈知識〉を使うときの「ノリ」.

同じ「知識」=言葉や概念を使っていても,複数の哲学者によって使い方のノリが違う.その使い方の違いに注目して,その思考のシステムに沿った形で理解しようとしないときちんと理解できない.

なるほどです.

これ僕のような素人がよくやりがちだなと思いました.
本書の例でもありましたが,例えば、プラトンとデカルトという2人の哲学者が同じ用語や概念を用いている場合、それぞれの思考のシステムに沿って理解しなければ、混乱や誤解を招くことがある.

プラトンの「イデア」の概念とその使い方のノリを無視して,デカルトの「観念」と同じようなことかななどと高を括ってしまうと,正しい理解ができなくなる.それぞれの哲学者の文脈を歪めずに,注意深く理解しようとする姿勢が大事なんですね.

まあ精神的,時間的エネルギーを要するのは当然ですね.
でも,もし本当に自分が他者から何かを学ぶ必要があるのなら,ここで言われている姿勢は学びの本質だなという気がしました.

谷川さんは,想像力の豊かさは,「自分の中に他者を住まわせていくこと」だとおっしゃっています.本当にこの言葉に尽きるなと感じました.

僕も読書をするとき,あるいは文学作品を読むとき,まさに自分の中に他者を住まわせて対話をするつもりで読んでいます.その中に,自分の元々の考えのようなものしか見出せないとしたら,居心地が悪いと感じます.多分,そういうことなのかなと思いました.

なにごとにせよ大事なことは突如として生じるものではない。一房のブドウやイチジクもそうだ。もし今、君が私にイチジクが欲しいと言えば、「時間が必要だね」と君に答えるだろう。まず花を咲かせ、次に実をつけるようにして、さらに次にはその実が熟すようにするのだ。

エピクテトス(國方栄二訳)『人生談義上巻』岩波文庫 より

そういう読書は時間がかかります.元々の目的が,他者から何かを学び,自己を成熟させようとすることであるのなら,エピクテトスの言うとおり「大事なことは突如として生じるものではない」のだなと思いました.

「常時接続」の時代とハンナ・アーレントの〈寂しさ〉

「常時接続」とは何か.
谷川さんはマサチューセッツ工科大学の心理学者,シェリー・タークルさんの言葉からそれを紹介します.

スマホ時代の哲学のキーワードは、「常時接続」です。常時接続の世界において生活をマルチタスクで取り囲んだ結果、何一つ集中していない希薄な状態について、特に人間関係の希薄さを念頭に「つながっていても一人ぼっち(connected, but alone)」と彼女は表現しています。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第3章 より


僕たちはまさに「常時接続」の時代に生きています.僕自身,それを強く感じます.いつでもスマホを側に置いている.仕事の時間はPCのディスプレイを見ている.休憩時間や帰宅後はスマホの画面を見ている.一日平均何時間スマホを見ていたかを親切にも教えてくれる機能もありますが,それを見て愕然とします.僕はスマホと睨めっこするために生きているのだろうかと思う.

ありがたい事に自分は人間関係が希薄だとは思わないのが救いです.でもマルチタスクは否定できない.同時に色々やらないと損だ,という気持ちにさえなってしまう.ミヒャエル・エンデの『モモ』に「時間どろぼう」というのが出てきますが,それを思い出します.酷いものですね.

漠然とした言い方になりますが,人間って自分達が作ったシステムによって自分達を疎外していく性癖みたいなものがあるんでしょうか.(自戒を込めて)

そこで失われてしまうものが〈孤独〉です.
ここでの〈孤独〉は悪い意味ではなく,「自分自身と過ごすこと」という意味です.谷川さんはハンナ・アーレントという哲学者の考える「一人であること」の三つの様式を紹介します.

・〈孤立〉isolation 集中して取り組むための物理的な隔絶状態
・〈孤独〉solitude 心静かに自分自身と対話するように思考する
・〈寂しさ〉loneliness 他者を依存的に求めてしまう状態

これ本書の中でもめちゃくちゃ気づきを得た部分でした.「一人であること」を漠然と捉えていたかも知れません.そこを三つに分けて言語化することで,自分の在り方への認識の解像度がものすごく高まりました.

先ほどのように「常時接続」をしていると,安易に〈孤立〉から逃れようとする.でも〈孤立〉があって初めて〈孤独〉という自己対話の時間を持つことができます.

なぜ〈孤立〉から逃れようとするかというと,根底には〈寂しさ〉を抱えているからです.

〈寂しさ〉は、いろいろな人に囲まれているはずなのに、自分はたった一人だと感じていて、そんな自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態です。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第3章 より

この〈寂しさ〉の認識は,自分にとっては特に重要な発見になりました.というのも,最初はそれほど重視していなかったのです.確かにその人によっては依存的な人間関係を求めてしまう人もいるし,あるいは環境的な波があるかも知れない.要するに上手くいってない時ほど,依存的になって〈孤立〉を恐れるのだけれど,そういう気持ちで人の中へ繋がろうとしても〈寂しさ〉を余計に感じるようになる.そういうことはあるだろうなと思っていました.

でも読書の興味深いところは,初読の理解だけで終わらないことです.それからも僕の中でアーレントの三つの様式が頭の中に残り続けました.スマホ常時接続をするたびに,「あ,孤立じゃなくなろうとしている」と気づいたり.自分の好きな文学作品の読書に集中している時などは,「あ,孤立と孤独の中でしっかり自己対話しているぞ」と理解したり….

しかし,それから徐々に〈寂しさ〉というものが,例え自己対話の時間をしっかり過ごしている人であっても,人間関係において充実したつながりを持っていると思っている人であっても決して解消されるものではないと思うようになりました.〈寂しさ〉とは本質的に根深くある人間の属性なんだと深く理解するようになりました.この点も本書を読んで得られた重要なポイントになりました.


ジョン・キーツの「ネガティヴ・ケイパビリティ」

もう一つ面白い概念を本書によって知りました.「ネガティヴ・ケイパビリティ」という概念です,
ジョン・キーツというイギリスの詩人が提示した概念で,「結論づけず、モヤモヤした状態で留めておく能力」のことを指します.彼はシェイクスピアの創作の魅力を説明するためにこの概念を言葉にしたそうです.

キーツがこの言葉を使ったのは、独特な世界を描き出すことのできたウィリアム・シェイクスピアの創作の秘密を説明するためでした。物語に登場する不思議なモチーフや登場人物、不合理な展開や説明のつかない要素などに、安易な説明や議論を与えず、謎や神秘をそのまま宙づりにしてストーリーを育てたからこそ、シェイクスピアは比類ない物語作家になりえたのだと考えたのです。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第4章 より

これすごくよく共感できます.
僕も文学作品を読むのが大好きで,まさにキーツのいう「謎や神秘をそのまま宙づり」にしたような作品像に繰り返し向かい合うのが面白さの醍醐味だと感じています.

文学作品を読むことは僕にとっては,正解を見出すことでは全くありません.一度読んで作者の考えを知ることでも,ストーリーの顛末を知ることでも,知らない知識を得ることでもないです.もちろん教養を身につけて他人にマウントを取るためみたいなゲスな目的もありません.

文学作品を読んで脳内に浮かんだ解釈は,先にも書いたように個人の「現象」に過ぎないので,「正解」ではないです.さらには文学作品の価値は「再読」することにあると考えています.20年前に読んだ作品は,今読むと全く違う顔をして眼前に現れます.それが「謎」として感じられるなら,何度も何度も繰り返し読んで.その意味を明らかにしようと掘り進めていきます.

本書でも創作における自己対話について,以下のような記述があります.

ハンナ・アーレントの言う「一人の中に二人いる」が実現しています。私は「書かれた私」と「書き直す私」に分裂しているからです。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第4章 より

これ完全に「読むこと」も同じです.読むとき自分だけの解釈を言語化するわけですから,それは脳内においても,あるいは読書メモによって外部化することで,「書かれた私」が現れ,さらに「書き直す私(=読み直す私)」の分裂の時空間でずっと対話を繰り返していく試みです.

そこには答えがなく,代わりに自己対話があります.自分自身を読む内的な試みであると同時に,絶えず外部の他者(作品の謎)に向かっていく方向性の感覚もあります.

谷川さんが,文学研究者の小川公代さんの文学観について説明した文章がありますが,完全に共感しました.

 文学研究者は、(もちろん様々な作品を読みますが) 同じ小説や詩を何度でも繰り返し読むこともあります。そして、その作品について解釈する様々な人の言葉を積極的に読むということもします。つまり、ある仕方で理解したと思っても、そこに安住しないのです。
 こうした読みの姿勢には、文学という形で結晶した人間の経験の理解を終わりなく楽しむ姿勢があります。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第4章 より

すごく共感できました.「人間の経験の理解を終わりなく楽しむ姿勢」です.それは知的好奇心のようなものであります.外部,他者に向かう姿勢で言えば「恋」や「愛」を深めるようなものですし,自己対話に向かえば自分の「宿命」みたいなものを知る時間です.哲学的に言えば実存的な時間の過ごし方です.

僕は今回本書を読んで,やっぱりこういう時間は,あえて〈孤立〉と〈孤独〉の中に留まり,〈寂しさ〉に飲み込まれることなく付き合っていくための道なんだと感じました.

マーク・フィッシャー:「抑鬱的快楽」のメンタリティ

本書では第五章からメンタルヘルスの問題にも言及していて,大変考えさせられました.

17世紀フランスの哲学者ブレーズ・パスカルが『パンセ』の中で言っている言葉が心に刺さりました.

「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こるのだ」

僕らが趣味に仕事に忙しく熱中しようとするのも,本当の目的は「退屈や不安から目を逸らすこと」に他ならない,というわけです.
僕らは〈寂しさ〉を抱えて,「気晴らし(divertissement)」によって注意を分散することで自己の悲惨から目を背けようとする.現代ならSNSなどのアテンションエコノミーに絡め取られて,虚栄心や承認欲求をさらに求めていく.

寂しさに振り回されて、評判を得たい、自尊心を満たしたいと考えて行動した結果、趣味から孤独(自己対話)を失わせてしまうことはある,と谷川さんは指摘しています.

確かにそうだよなあと思いました.何故そうなっているんだろう.
谷川さんは社会的条件として,「ポストフォーディズム」の影響があるといいます.この観点は全く知らなかったので大切な気づきとなりました.

ポストフォーディズムとは,「常に新しい視点や知識を身につけ、物事を別の視点から眺め、成長し続けることを私たちに求める経済文化」のことだと言います.そう言われてみると,より柔軟に成長し続けることを要請するような声はどんどん大きくなっています.それに鼓舞されながら,または追い立てられるように僕らは生涯学習へ向かい,自己啓発書を読みまくります.それにある種の疲れを感じるのは僕だけでしょうか?

そういうマクロ的な視点で,経済文化の中での一市民としての自分を眺められたのも有意義な発見でした.

「ポストフォーディズム」は,二つの方向に僕たちを追い立てます.

① 自己啓発の論理 物事の受け止め方や考え方をポジティブに変える 自己自身への関心を肥大化させる自己完結的な生き方.
② 断片的な感覚や刺激で自分を取り巻き、「快楽的なダルさ(hedonic lassitude)」に浸る.

哲学者のマーク・フィッシャーさんは,ポストフォーディズムのメンタリティを「抑鬱的快楽(depressive hedonia)」という言葉で鮮やかに捉えています.それは,すぐそこに診断としての鬱病があるけれども、今のところはそうなっていない状態のことです.

なるほどです.僕もよく分かります.まさに抑鬱的快楽の中で泥のように沈み込む時間があります.自己啓発本を読んで一過性のハイテンションを得る.SNSのタイムラインを眺めたり,Netflixのコンテンツを見ながらビール飲み…

それを心から楽しんでいる時もありますし,条件反射的に惰性で繰り返している時もある.それも「趣味」と言えば趣味ですが,生き生きとしているかというと,どこか存在が薄く引き延ばされていくような感じもありますねえ…
フィッシャーさんのご指摘の通りです.僕らはパスカルのいう「気晴らし」をするだけで人生を過ごして行くのでしょうか?

そこで谷川さんは,あえて「退屈」という感覚をシグナルとして捉えるように言います.どういうことでしょうか.

消費や自己啓発でテンションを上げたり、スマホで快楽的なダルさに浸ったりするのを一時停止して、普段通りの感覚や感情の〈裂け目〉に直面すると、「何か足りない」「退屈だ」という気分がやってきます。

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第6章 より

そして,谷川さん曰く
「退屈や不安は、目を逸らすべき対象ではなく、目を凝らすべき対象なのです」

感覚の変化を行動を変えろというシグナルだと捉えて,あえて「退屈」を直視し行動を変えてみる.そうすることで自分の生活のあり方に新しい発見,深い自己了解を見出すのかも知れません.


ルソーの隔離生活と「自治」の感覚


好感度が爆上がりの,ルソー先輩です

本書の中で妙に心に残り,後になってからも「素敵だな」と思い返すことになった内容がありました.
それは哲学者のジャン=ジャック・ルソーの『告白』の文章の紹介でした.ルソーといえば18世紀に社会契約説と人民主義を提唱して後のフランス革命に影響を与えた偉大な思想家です.

そんなルソーが当時,パリからヴェネツィアに向かう途上でパンデミック(当時はペスト)のためジェノヴァで隔離生活を余儀なくされた時のエピソードが紹介されていました.

ルソーは21日間の隔離を受けるのですが,船か隔離病舎で隔離病舎の方を選びます.そこは大きな建物で四方むき出しの壁で,快適とは言えない環境でした.でもルソーは「後悔しなかった」と言っています.

彼は隔離病舎の部屋を整えるために,シラミ退治を行い,衣服を取り替え,敷布団を作り,シーツも作ります.部屋着を掛け布団に使い,外套を枕にして,トランクを腰掛け代わりにします.また別のトランクを立ててテーブルにする.本を書庫のように並べる.ルソーは「私は実にうまく身の回りを整えた」ので、「自室にいるときとほぼ同じ快適な気分を味わったのである」と書いています.

谷川さんもおっしゃっていますが,本当に「楽しそうだな」と僕も思いました.殺風景で人気のない大きな建物の中で,〈孤独〉ながら自分だけの日常生活を改善して楽しんでいるルソーが目に浮かびます.僕はPCゲームの「Minecraft」が好きですけれど,「これってリアルマイクラじゃんww」って思いました.

谷川さんはさらにルソーのこの感覚を「自治(self-goverment)」という言葉で表します.「自治」とは,「既存のルールや他者の視線をいったん脇に置いて,自分だけのルールを新しく作り,それに基づいて行動する自由のある状態」だと言います.

僕は深く納得しました.ちょっと深掘りして自分なりに考えました.僕のようにずっと日本で暮らして大人になると,日本的な「世間」の感覚に完全に染められてしまいます.それは深く内面化されているため,自分がいかに「世間」ばかりを気にしているか,自分軸を持とうなどと思っているその価値観でさえ,その奥で無意識的に世間の方を目配せしていることに気づけないくらいです.

そこまで考えて唸りました.ルソーの生きるこの「自治」の感覚が,何か人権的なものの発明や「自由」の概念にも繋がっているのかも知れません.本書の全体を通してこのルソーのエピソードが,自分にとっては一点の星のように輝いて感じられました.〈寂しさ〉の感覚はなく,清々しいまでの楽しそうな〈孤独〉に,憧れと
言えるような気持ちを感じました.


フロイトの「ワークスルー」,言語化という希望

最後にジークムント・フロイトの「ワークスルー(徹底操作)」という概念がとても興味深かったので,それについて書きたいと思います.

言わずもがなのフロイト先生

フロイトは「想起,反復,徹底操作」という論文で,患者が行動として反復している体験を言語化・意識化することで治療が進んでいくということを論じています.このプロセスを「ワークスルー」と呼ぶそうです.

谷川さんがその内容を要約してくれています.次の引用のようなプロセスを経ていくことが,いわゆる「治療」となるのだなと納得しました.

〈過去の体験や経験が無意識に刻まれ、それが日常の行動の中で知らずのうちに反復される。その反復を感知し、それについて解釈を加えるプロセスを繰り返す中で、無意識に行われていたものが意識化される。〉

『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』第6章 より

このフロイトの「ワークスルー」ととても似ている体験を僕は知っています.それは,僕の一番の趣味である「文学作品を読むこと」です.

まさに一つの文学作品を初読するときには,自分自身の過去の体験や経験から無意識的に作品像が立ち現れてきます.また作品や作者についての事前の知識からの先入観も含まれているでしょう.

でも初読はまだ自己の無意識的な「反復」に過ぎません.そこから「なぜ,僕はそう思うのか」と自問自答していきます.要するに「読むこと」を読むという段階へ進化していくメタ認知的な読みを繰り返す.その結果,まるでジャムを煮詰めたように言葉の密度が高まっていきます.

本書でも登場してきた村上春樹さんの「木野」という短編小説も,僕の所属する読書会で読みました.特に隠喩を多用した作品なので一般的な意味がすぐ思い浮かぶというわけにはいきません.読者自身がその意味の余白を埋めようとする試みが,結果的に読者自身の心象としての言葉の世界を顕在化させます.文学も哲学も「認識論」的な探究だと先に言いましたが,そのことを深く感じる所以です.

その難しさと楽しさはまさに,深い森を探検するようなものです.「モヤモヤ」に耐えながら,正解も終わりもなく探求するのです.まさにネガティブ・ケイパビリティという道を独り歩いている感じです.その上で読書会で他者の心象世界を話し合う体験は,なんとも言えず快楽的です.言ってみればそれぞれの〈孤独〉を共有する仲間という感じです.

これまでの本書からの学びで,ずっと僕が考えていたことは,自分にとっての一番の趣味である「文学作品を読むこと」の位置付けがどんどん明確になってくるということでした.文学を読むことは,〈孤立〉と〈孤独〉に向き合うことで,人間の根源的な〈寂しさ〉と手を取り合って踊り続けるようなものです.僕にとっては永遠に続く無限の趣味ですし,ルソー的な「自治」の時間に他なりません.

谷川さんの,微に入り細に入る哲学の言葉は,「常時接続」の時代をどう生きるかの指針となる羅針盤のようなものに感じられました.歴史的なパンデミックを経験した時代意識のなかで,素晴らしく世界観の解像度を高める名著でした.

皆様にも心からお勧めいたします.では!


【こんな人にオススメ】
・「哲学」の世界に馴染みがないけどのぞいてみたい.最適です!
・スマホ,SNSにどっぷりハマっていて疲れている.
・承認欲求に振り回されている.とにかく一人でいるのが寂しい.
・ネガティブケイパビリティという概念について考えたい.
・村上春樹さんの小説が好きだ.
・『エヴァンゲリオン』『違国日記』の人物描写に共感する.
・自己対話,言語化,孤独の趣味を通して,タフで優しい人になりたい.
・小説,映画,漫画などの物語の深みを考えたい.
・現代の資本主義経済,アテンションエコノミーの中での人文知の意義を考えたい.














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