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分けられた「人の営み」の再統合

実は長らく、ホットな題材がありまして。

「遊ぶ」「学ぶ」「はたらく」
この3つを極めて近づけた社会や生き方への方法論ってないのか?

という問いです。

冒険の書という本
記号創発システムという小難しい授業
ゲーミフィケーションという専門分野とのふれあい
過去の経験・知識
自分が提供するサービス
こんなことをぐるぐる考えると、いつもピンっとくる問いがこれなんです。

「遊ぶようにはたらこう」
という態度は近代的でまだまだ歴史の浅い思考。
でも、むかーしはもともと遊びも仕事も変わらなかったんじゃないかっていう疑問。
賛否両論、終わりと答えのない題材ですが、気ままに書いてみます。
ちなみにこの問い、大学の先生にぶつけてみましたが「うーん」という感じでした。(先生をそうさせれたのが地味に嬉しかったりする。大学を感じました笑)
それでは。

すべてはぐちゃぐちゃだったという話

もともと、人の営み全ては「子孫繁栄」その1点のみに精力が注がれ、そこには各動作ごとの区別はなかったと考えられるんですね。
アリストテレスやプラトンといった古代の哲学者たちは

Paideia=教養、学び
Paidia=子供の遊び

とし、子供にとってはPadiaが軸となってPaideiaが成り立つと考えました。これは「学ぶ」と「遊ぶ」が極めて近い位置付けで語られています。

狩猟採集民族の遊びをみると、野を駆け回り、獣を追い、草原で寝転がり、目の前の草木をじっとみつめ、雲の流れに心を動かされるようなシーンが思い浮かびます。ちょうど私たちが「田舎で遊ぶ」というように、彼らの「遊ぶ」は「学ぶ」や「はたらく」と極めて近い、もはや同一のものだったかもしれない。
その三位一体の行為は、食べ物を確保し、気候を読み、居を構えるといった行為に直結することがほとんどで、そういう意味では「子供の遊びと大人の労働が直結している」とも捉えられます。

現代社会の子供の遊びに焦点を当てると、大人になってからの社会的な営みとの違いがありすぎる場面が多い。(あるいは複雑化しすぎている)

むかーーーしは、緩やかに「遊ぶ」「学ぶ」「はたらく」がつながっていたんだって、なんとなく感覚的にも思います。

色々解決するために、とにかく、「分けた」

①効率化のために学校というシステムを生み出し、経済合理性を追求した仕事と評価システムが出来上がる。
②「こども」と「おとな」に大別し、更にはライフステージという概念で、人生のフェーズを細分化。社会保障や学ぶ権利を確保しようと、フェーズごとに「やったほうがいいこと」を半強制的に提示する社会になる。
というステップを踏んだことで、「遊ぶ」「学ぶ」「はたらく」が完全に分けられました。

労働によって不当な扱いを受けている子どもたちを救うために「子ども」と「大人」を分けたたけれども、実際には社会は貧しく、子どもは不自由になったという話。
子供の能力高めるため、社会性を身に付けさせるために作られた学校は、能力の格差を助長してしまったという話。
これらは、冒険の書、で綴られています。
人の歴史をみると、そのときは素晴らしく画期的なシステムでも、実は裏目にでているものが多くあります。たくさんのメリットを産み出しつつ、多くの矛盾を吐いていたり。

「子供は勉強が仕事」
こんなよくあるお母さんの口癖からも、3つの分けられ方が浮かび上がって見えます。

◯◯歳のうちは「遊ぶ」
◯◯歳のうちは「学ぶ」
◯◯歳になったら「はたらく」
大人になったら「遊んではいられない」
大人になったら「はたらかなくちゃいけない」
遊べるのは「子供のうち」

これが分けられたことによる弊害はすごく大きいと思っていて、効率化を生む代わりに多様性を失いました。自分の生きるフェーズごとに、社会的に求めらていることが強制され、不自由になりました。

「仕事は遊びじゃない」
「しっかり勉強しないといい大学へいけない(これってある意味『しっかり学ばないといい学びができない』という謎概念です笑)」
「遊んでばかりでは食っていけない」
こんな意識の社会にここ何十年人々が生きてきました。
本来は「生きる」という営みに関してその方法は自由に表現できたのに、とても窮屈です。

混同させて生きる人たち

ここに対して、生き方という面で非常にクリエイティブなのはアーティストやアスリートに多い気がします。

リズムや歌詞は日常の何気ないシーンから出来上がるというアーティスト。
気付きや訴えをアートとして表現するアーティスト。
遊ぶの果てに競技者としてプロフェッショナルに生きているアスリート。
彼らは僕のなかでは「遊ぶ」「学ぶ」「はたらく」の境界線がない、もしくは曖昧な人たちで、自然だと感じています。もちろんこれらの職業以外にもこんな人はたくさんいますが、そんな人たちに僕は決まって「豊さ」を感じるのです。

しかし、こんな人たちに抱く僕らの感情は
「すごい」
「なにか特別な才能を持ち合わせている」
「こんな考えは到底至らない」
という分断です。
誰もがアーティストとして生きられればいいのに。
なんとなく、それで食っていける人たちは特別だという気がします。(資本主義の話が根深いと思いますがまだ思考はまとまっていません。ついでに言うと「社会をこの手で変えられるか?」という民主主義の話もこと日本においては重要な論点な気がしていますが、こちらもまだなんて言語化すればいいかわかりません。笑)

すべての労働は遊びになりうるか?

今日、ゲーミフィケーションを専門としている大学の先生の話を聞いたんです。

ゲーミフィケーション(英: gamification)は、コンピュータゲームのゲームデザイン要素やゲームの原則をゲーム以外の物事に応用することを言う。 ゲーミフィケーションは一般に、ゲームデザイン要素を用いてユーザーエンゲージメントや組織の生産性、フロー、学習、クラウドソーシング、従業員の採用および評価、使いやすさなどを向上させるのに用いられる。

Wikipedia

要するに、
「日常生活をもっと、ゲームみたいに色々楽しめないの?」ってことをいってます。

先生に僕、こんな質問をしました。

アスリートをはじめとして、極めて近い位置づけで「遊ぶ」「学ぶ」「はたらく」を体現している人がいる。分けることによって社会や生き方は貧しくなったという見方があると思いますが、どのように考えますか?
3つの行為を近いところで両立できれば、はたらき方や生産性などのあらゆる社会課題が解決すると思うんです。先生はどのようにはたらくことと遊ぶことを近づけたりできると考えますか?

そしたら先生も、すっきりは答えられなかったんです。結構難しいみたいですね。

労働のなかに遊びやゲームを入れよう、という思考や実践は近代以降かなり試みてきたようで、うまくいくこともあればむしろ労働が大変になるときもあるそうです。

「3つは連携した方がハッピーだよね」
「そもそもこの3つってあんまりちがわなくない?」

これはかなり指摘されていることみたいですが、

「はたらくことすべてを遊びにしてしまえるか?」
という問いがあるといいます。

成果などを考えると、どうしても「遊ぶ」にマッチしにくい仕事が出てきてしまう。遊びに近い風にできる仕事だけをグラデーションにしてしまえばいいんじゃないか?そんな議論はまだまだ途中みたいです。

ゲーミフィケーションの代表例としてウーバーイーツのドライバーアプリが挙げられます。
この仕組みはうまくできていて、
①はたらく人の自由参加の要件を満たしている
②連続ボーナス、地域ボーナスなどのソーシャルゲーム要素がちりばめられ、遊びと仕事が混じっている
という特徴があります。

手軽に、「遊ぶ」「はたらく」を混ぜた体験が可能な労働ですが、
「安く人を買い叩いていない?」
という新たな問題もうまれています。

この問いは、自分の中に問いを生む

このトピックについて考えているとき、僕の頭は好奇心に駆られています。
けっこういろいろなことがこの問いに集約されてる。そんな気さえしてきます。
大学の卒論はこの辺りがテーマかな…

この文章を書くだけでも、
哲学、心理学、スポーツ、教育、労働、民主主義、資本主義、対話、人間性、いろんなワードがよぎって、そのすべてを文章化できないことに若干のもどかしさと大きな好奇心を覚えるんです。

このテーマ、ちょっと深めていこうかと。



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