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「新しい生き方、働き方を創る!」

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#地方創生

特別コラム⑥「2年前のあの日から、僕らは。」

特別コラム⑥「2年前のあの日から、僕らは。」

(本コラムは、2013年3月11日当日に書かれたものです)

2013年3月11日。震災から丸2年。移住して1年弱。
今、少しずつだけど形として、確かなものが出来始めている。
そして分からなかったこの町の根本的な問題も、
少しずつ掴み始めていると思う。

2100年には日本の人口は5000万人を切る。
そして2025年には平均年齢は50歳を超える。
出生率は低下を続ける。
僕らが生きるこれからの社

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第十三話 被災地に若者が移住すると言うことの意味

第十三話 被災地に若者が移住すると言うことの意味

移住を決めた当初(2011年9月)は、
移住後すぐに起業しようと考えていた。
しかし、2012年の2月に陸前高田市に行った時に、
「今起業することへの違和感」を感じた。

それは地元の方に受け入れられないのではないかという不安だった。

阪神淡路大震災が発生した時、
その時も私と同じように多くの若者が移住し、
住み込みで活動を行ったと聞いた。
しかし、多くの若者は挫折、自身の元いた場所へと帰ってい

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第十二話 広田町が広田町であり続けるために、移住を決意

第十二話 広田町が広田町であり続けるために、移住を決意

活動を開始して半年が過ぎたころ、
地元のある方からこんな言葉を聞きいた。

「50年後、この町はなくなってしまうかもしれない。
でもそれは震災が起ころうが起こらまいが、そうだったんだ。
産業は衰退してたし、人はでていってしまってたし。
それが震災が起こって加速化しただけなんだ。
多くの人が流されて、犠牲もたくさんあった。町もなくなった。
でも震災前にはきてなかったおまえらみたいなやつらがたくさん来

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第十一話 自分自身の言葉で物事を捉え直す

第十一話 自分自身の言葉で物事を捉え直す

陸前高田市広田町に合計で20日前後滞在させて頂いた。
道は覚え、どのように当日津波が動いたのかなども教えて頂いた。
それでも広田町の人間には成りえない。

しかし、「心に寄り添う」という理念の元、
確実に私たちにしかできない事もあるということを実感させて頂いた。

 広田町防災本部の方から、
震災当日津波が町を飲み込む様子の写真を頂いた。
「“おまえらに”これを見てほしいのだ。」

津波被害地図作

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第十話 「生きている」→「生かされている」

第十話 「生きている」→「生かされている」

合計3回の現地での活動を終えて、強く、強く感じたこと。
それは、
「私たちは生かされている」という事。

今の若者世代。
生まれた時から経済的に発展しており、
不自由なく暮らしてきた人もいると思う。

だから、
自由とは、元からあるもの。
権利とは、与えられるもの。
「生きる」とは、当たり前のこと。

そういう風に思っている人が多いのかもしれない。

でもね。
「もし自分が・・・。」で考えてみてほ

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第九話 一つ一つの悲しみを忘れちゃいけない。

第九話 一つ一つの悲しみを忘れちゃいけない。

2011年の5月3日~5日と5月20日~22日と
引き続き陸前高田市広田町に
現地入りをさせていただいた 。

その中で見てきた事。
感じてきた事。

それは決して、新聞やニュースだけでは分からないものだった。
そしてメディアも案の定取り上げなくなっている。
ますます、被災地の現状が分からなくなっていく。
今でも亡くなる方はいる。
今でも苦しんでいる方はいる。

じゃぁ分からないままでいいの?

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東日本大震災からのSETストーリー

東日本大震災からのSETストーリー

震災が起こってから、
2016年までの6年間の活動は、
文章にまとめておりました。
いつか公開する日が来るだろうと思って、
チコチコと書いていたのですね。

それをいいタイミングなので順次公開してきます。

僕自身も4年以上ぶりにワードファイルを開いたので、
多分公開するタイミングで都度更新していくと思うのですが、
一旦目次ができていたので、
それをベタバリして、
日々、発信していきたいと思います

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