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しまじろうの世界の動物園

先日、しまじろうが動物園に行くという回の動画をYouTubeで見つけた。

動物を擬人化したキャラクターとその世界にいる本物の動物たち。ゾウやライオンを見て喜ぶしまじろうの姿を見て、同じ動物同士である彼らの関係性が非常に気になった。

それは、猿から進化したと言われる人間が、動物園で猿を見ているような関係性なのだろうか。もしそうなら、しまじろう世界の住人は皆、様々な動物の先祖からそれぞれ異なる進化を遂げた、知的生命体たちということになる。

しかしその場合、1つの疑問が生まれる。

なぜ彼らの世界には、猿から進化した人間だけいないのだろうか。

調べてみると、猿が擬人化されたキャラクターは過去に登場したことがあった。とすると、しまじろうの世界では、我々人類とは異なる進化を遂げた猿の祖先が繁栄しているという設定なのかもしれない。

ホモサピエンスとは異なる進化を遂げた猿が、他の進化を遂げた生物たちと共存しあう世界。地球史の if を描いた壮大な物語が、しまじろうのバックグラウンドには隠されているのかもしれない。


さて、ここまで書いたことは全て私の妄想だ。さすがにしまじろうに上記で触れたような裏設定はないだろう。

前置きが長くなってしまったが、今回のテーマで私が本当に取り上げたかったことは、「てい」が壊れる瞬間に生じる違和感だ。


今回紹介したしまじろうの事例では、人間風に擬人化された動物キャラクターと、動物園にいる擬人化されていない動物が交わることで、動物を見る際の「てい」がズレるという概念上の摩擦が生じていた。

このような「てい」のズレは、キャラクターや世界の抽象度がコントロールされて描かれるアニメや漫画などによく潜んでいる。

例えば、人間が登場するアニメでは、よく目が大きく描かれるといったデフォルメが施されることがあるが、彼らが劇中でメガネやコンタクトレンズを付けるシチュエーションに出くわした場合、サイズの対比という「てい」の歪みが生じることになる。

他にも、動物やロボットなど人間ではないキャラクターが登場する作品で、急に人生という言葉が使われたときにも、それまで人間はいないものとして観ていた作品に対する「てい」が変わり、上記と同じように概念上の摩擦が生じることになるのだ。


このように「てい」のズレによって生じる違和感は、実は物事を何かに喩えて描かれた作品の中に多く潜んでいる。

一見どうでもいいように思える違和感だが、喩えという能力を手に入れた人間だからこそ感じられる、極めて高次的な感覚なのかもしれない。

そんな違和感に、私は非常に心をくすぐられるのである。

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